砂の記憶(詩集 届かない手紙)
わたしはどこから来てどこへ行くのか。
そのような問いかけは数限りなくあの青い夜の空に向けて発せられたのです。
そしてわたしの記憶のなかではそれらのことばの幾つかは星のような結晶になりいまでもどこかしらできらきらと輝いています。
わたしはひとびとの記憶を風化させるためにこの世界にやって来ました。
記憶という世界を埋め尽くす瓦礫の山を砂に変えて、さらさらとした手触りのよい小さな砂の結晶にします。
砂の結晶は風の力でやがて美しい波状の紋様を描くようになります。気の遠くなるくらいの年月が経てばそれはもう立派な砂丘になります。
風は惜しむことなく働きを続けます。砂丘はやがて平坦な砂漠になり、すべての記憶は砂漠の底に沈められます。
こうして記憶ははじめてひとの記憶から忘れられ、純粋なかたちになります。もうひとを悲しませたり、ひとを苦しめたり、ひとを躓かせたり、ひとを勇気づけたり、ひとを驚かせたりはしません。
記憶が生まれるところがあります。
記憶は世界の涯から海の向こうにある小さな島の夜の森と呼ばれるところにあります。
夜の森には美しい記憶の泉があります。
泉のほとりには美しい花々が咲き乱れていることでしよう。そしてやわらかな風のそよぎと木漏れ日のぬくもりがこんこんと湧き出る泉をやさしく見守っています。
そこは夜の森だというのにへんに明るく底光りしていて、いつも記憶のあぶくがぽこぽこと湧いています。
そのあおじろいあぶくは適当に冷まされて黄色いしずくになり、泉のほとりに茂る羊歯の葉に掬いとられ、宝石飾りのように数珠つなぎにされ、ルビーや真珠や琥珀やサファイヤなどといつた色とりどりの記憶のやわらかな原石にされてしまいます。
すつかりおめかしした記憶のこどもたち、泉のなかできらきら光り輝きながらやがて来る嵐の夜に船出します。
それからさきのことは誰にもよくわからないことなのです。
だからわたしも多くは語りません。
記憶の泉を守るためにこの世界にやって来たものもいます。
彼らはたぶん美しい翼をもつていて、それでいつもやさしい風を起こしています。ここちよいさざなみが記憶に美しい陰翳を与えることを知っているからです。
でも小さな島の小さな泉ではどんなに美しい記憶の宝石でもいつまでもそこにとどまることはできないのです。
いつもいつもぽこぽこと記憶のあぶくは生まれ育ち、つぎからつぎへと記憶の原石はたまる一方だから。
嵐の夜が去ると(たぶんあの宝石の嵐はあの美しい翼の持ち主たちがどうしようもなくてしでかしてしまつたことなんだ)泉はすつかりもとどおりになり、ふたたび静かな森に帰ります。
磨きぬかれた宝石も中途半端な原石もやつとのことの結晶もどっと流されまっ黒の夜の海に押し出されてしまいます。
それからさきのことは誰も知らない。
だからわたしも多くは語らない。
記憶の砂丘を守るためにわたしはこの世界にやって来た。
(以下略)
※ 全文は、「詩集 届かない手紙(有料記事)」に所収
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