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恋愛事変 その7

    


   第六篇 濾過摂食性

 その人は、一風変わったところのある人で、年の頃は二十歳前か還暦前か、見た目は曖昧模糊としているが、言葉や仕草に残された甘酸っぱさは、紛れもなく、若者だけがもつ熱帯特有の高貴な香りを放っていた。
 彼と一緒にいると、いつも、甘美な夢の宮殿でふわふわしているみたいだった。

 モンゴルの草原を駆け抜ける荒々しい駿馬に跨がり、どこまでも続く青く高い空に近づいていく。
「蒙古野馬は、ポニーの仲間なんだ。ハーレムを作るらしいけどね」
「ハーレムなんてゾッとしない」
 彼は笑っている。あの唇がなぜか愛しい。
「でも、君も仲間かも知れないよ」
「え?」
「だって、ポニーテールしてるから」
 ある時は、南氷洋の氷山を潜り抜け、紺碧の海原にジャンプする、シロナガスクジラの仲のいい恋人たちみたいに。
「濾過摂食性だよ、シロナガスって。のど越し、がぶ飲み」
「ロカ、福音書みたい」
 夜の砂浜で、満天の星を素肌に鏤め、ふたり、星座の名前の当てっこをしたことも。
「星座の数は、ほんとは、八十八じゃないよ」
 そんなことも言ってたっけ。
「ほら、ここからは見えないかもしれないけど、銀河一つ離れれば、もう違う星座が現れるんだよ」
 少しムキになっている。
「ぼくたちは、それを量子の振る舞いごとにせっせと分類して、美しい名前をあげようと考えるんだ」
「それがぼくの使命、任務なんだ」
 わたしは、海から吹き寄せる優しい風にうっとりとして、いつの間にか、彼の肩で眠っていた。
 目覚めると、小さな波が足元近くまで寄せていて、わたしの片方のサンダルが拐われそうになっていた。
 彼が笑いながら波をすくうと、サンダルはわたしの左足に無事戻っていた。
「綺麗な星座、わたし、なんだか見たことがないような気がするんだけど」
 彼は、まだ笑っている。

 彼とは、塾帰りのコンビニで出会った。
 塾と言っても、大学進学のなんかじゃなくて、囲碁の道場だ。
 わたしはプロ棋士を目指して、ほとんど毎日、塾通いをしている。間もなく、院生を卒業し、入段できるかもしれない。
 才能と努力、それに想像=創造力(イメージやアイデアを現実化する能力のことだが、閃きや直観の正確さ、読みの深さ、速さ、その信頼性、的確な形勢判断力=大局観、駆け引きの融通無碍さなどが練り合わさったもの)だけがプロになる資格だが、実際、プロになれるのは、一握りの人だけだ。
 厳しい競争、闘いの日々だからこそ、お互いが戦友であり、ライバルなのだ。
 そんなわたしがひどいスランプに落ち込んでいたとき、彼がわたしの目の前に現れた。
 コンビニのレジで順番を待っていると、彼がトラブっている。
 どうやら小銭が足りないらしい。
 普段ならそんなことは絶対にしないのだが、彼の落胆ぶりが背中越しに丸見えだった。
 土砂降りの雨に打たれた子犬みたいで。
「あ、わたし、出しますから」
 そう言って、彼の分とわたしの分を一緒に精算した。
「あ、ありがとう」
 彼は頭を掻きながら、嬉しそうに笑った。
 その卑屈さも驕りもまるで感じさせない素直な笑顔に、わたしは心惹かれてしまったのだ。
 恋してる、かも。

 近くの公園で、パンと牛乳とデザートのフルーツパフェで遅めの夕食をとり、連絡先を交換して、別れた。
 星一つ見えない夜だったが、ビルからこぼれ落ちた灯りが、宝石の雨のように、キラキラと輝いていた。

 彼が、宇宙から来た人でも、たとえエイリアンでも、ゾンビだったとしても、もしかして、どこかの星の王子だとしても、いったん真人間になった以上は、一肌脱いで尽くすのが、地球の女の心意気というもの、 お江戸に生まれ、育ったわたしが、恋したからには、惑星一の男にしてみせる。
 そう心に誓い、七夕の短冊に、彼と恋人になれますように、とだけ書いた。

 彼は、旅する人だった。




    

   第七篇 月影の使者

 小さい頃から人に好かれるタイプだった。
 初対面の人でも、たいてい、ニコニコ顔でわたしを抱き上げ、頬ずりしたりしていた。
 わたしは、それを不審にも思わず、よしよしと受け入れていた。
 人が人を好きになることには、大きなリスクと障壁があることは、思春期を迎える頃に、思い至った。
 簡単に人を好きになってはいけないし、好きになられても困る。
 それを説明しようにも、怪訝な顔をされるだけで、誰かの同意を期待してはいけなかった。
 それが、わたしの前半生といえば前半生、もし、このまま、人々の記憶から消されてしまうなら。

 中学では、ラブレターめいた古風なものも含めて、たくさんプレゼントを貰った。
 一方通行路、それが恋というものであり、お返しはしないのが通例だから、恋愛市場、恋の原風景では。

 サクラがそう言うのを聞いて、なぜか、心にほころびのようなものが生じた。
 家具屋さんの一人娘だから、お婿さんでも貰って、とか勝手に想像していた。
 わたしも一人っ子だから、ある意味、重圧というか、中身のない、空っぽの重荷のようなものは感じていた。
 でも、サラリーマンの子どもに、何かを継がせるほどの重しはない。
 わたしは、理解ある?両親から、好きな人ができれば、好きにすればいいと、物分かりのいい話を聞いてきた。
 だからといって、本当に好きな人ができたとき、その理屈?がそのまま通用するのか、いつも心のどこかで疑っている自分がいたことも事実なのだ。


「サクラ、どうしても行くのかい」
 サクラが海外留学するという噂は、すぐに広まった。
 別れを惜しむのか、出会いを持てなかったことを憾むのか、単に、複雑な事情を抱えていたサクラに対する心ない好奇心からか、知らないが。
 そして、何度か、お別れパーティーみたいな飲み会、お食事会が開かれ、そのたび、面子は少しずつずれていった。
 最後の飲み会のとき、大胆にもサクラにプロポーズし、一緒に留学すると言い出す強者もいたが、お開きになる頃には、何とも言えない寂寥感で、すっかり酩酊したその場の空気は、無慙にも打ち拉がれていた。
 サクラは、ほんのりと頬を染めていたが、簡単な挨拶をやってのけると、身のこなしもこれほどまでかと思わせるばかりに、軽やかな足取りで、店から出ていった。
 夜の闇に包まれ、消えてしまった。

 煌々と星月夜が輝いている。甘い空気をおねだりしたような、春の芽吹きの香りがする。
 三分咲きだろうか。少しさみしい。
 追いかける。
 サクラを追いかける。もうあの雲の彼方に消え入ったのか。風がまだ冷たい。
「サクラ、帰れっ!」
 思わず叫んでしまう。パラパラの花見客の何人かが振り返った気配がした。
「わたしを探さないで」
 そんな返事を期待した訳ではないのに、そんな声がしたような気がした。
「サクラが必要なんだ。サクラがいないと、ぼくは」

 桜の花びらが一輪だけ、風に突き放された。


 雲に隠されていた満月が顔をのぞかせた。
 目の前にいるのは、サクラじゃなかった。ぼく、だった。
 その圧倒的な月光の力に、ぼくは、逆らいようもなく、抱きすくめられ、激しく口づけされていた。
「これが望んだこと、これが憧れたこと」
 誰に問う訳でもなく、答えはまったく要らない。
 人を好きになるとは、答えを求めないことなのだ。それを一瞬で学び、実践した。
「愛している、サクラ、君を愛している」
 頷くように激しい嗚咽のような震えが伝わり、サクラが苦しんでいることが分かった。
「ああ、君を愛してはいけなかったのに、ぼくを許してとは言わないが……」

 気まぐれな波がわたしを置き去りにしていく。曖昧な境界線を掻き消すように。
 次の波が来れば、その境界は意味を失い、静まりかえった砂浜のようにあらかじめ言葉を忘れ去る。別の、まったく見知らぬ、ぼやけた景色の投影の中に独りうずくまっている。
 感情をそぎ落とされた樹木のように、波に打たれ、やがて朽ちる。


「家具屋には不釣り合いな別嬪さんやった」
 どこかで、誰かしら詠嘆めいた台詞の練習をしている。とすると、ここは暗転した舞台の上か。それとも、奈落の基礎でも打っているのか、生コンのあのツーンとした匂いが臭気になって押し寄せてくる。
「誰の告白も、プロポーズも、鼻にもかけなかったな」
 まるでそれが罰みたいに責めている訳ではなさそうだ。いや、むしろ、誇らしさの気配すら漂い出す。
「あれは、あれで、よかったんでしょう」同意を強いるでもない、十分に納得した表情が窺い知れるとしたものだ。

「ぼくたち、幸せになれたでしょうか」
 つまらない陳腐な質問のくせに、なぜか、大威張りだ。
「でも、本当に、愛していたんですか。疑わしくありませんか。そう尋ねられたら、どうお答えになるつもり(でした)」
 沈黙は金、か。
 遠くから聞こえるあの寸胴な音、まさか、寺の鐘でもあるまいし。
「ティンタレラ ディ ルナ」
 甘い声、サクラとも違うが、月影の使者だろうか。
「あなたの光で、見つけてください」と。


    

   第八篇 女神様 トイレットペーパー抄

 旅先などで急にお腹が痛くなったりすると、もう悲劇です。
 はたの人から見れば、ちょっとした喜劇なんでしょうが。

「トイレ、トイレはどこだ」ひきつった顔、青ざめた頬、歪んだ口、たらたらと変な油汗が。
「あ、あった」
 公園の脇のあたりに、こじんまりと鎮座している。
「ふぅ、よかった」
 素早くズボンを下げ……
 一段落着いて気づいた。紙がない。どうしょう。
 しばらく様子を窺うが、誰も来ない。
 万事休すか。
 このままパンツ履くのも勇気が要る。結構派手めだったしな。
かといって、約束の時間が刻々と……

 答えのない迷路に入った。
 俺にはまるで決断力がない。これまで、それでどれだけ損をしたことか。
 思い切って、大して意味のない資料の一部を代用するか。
 でも、ばれたらクビかもしれないし、弱ったな、参ったな。
 あれこれ迷路をうろついている内に、いよいよタイムリミットが迫る。

「あ、あっ、すみません。決して怪しい者ではないのですが、もし、ティッシュとかお持ちでしたら、お譲りいただけませんか」
 声が微妙に嗄れている、夏痩せした蛙みたいに。
 通りすがりの人の足音を聞くと、矢も盾もたまらず、ヘルプを発動したのだ。
「えっ、ああ、構いませんよ」
 天使のような涼しげな声がドア越しにして、ポケットティッシュがそっと下から差し入れられた。
「ありがとうございます、ありがとうございます、このご恩は一生忘れません」と、できもしない約束をしたような、しなかったような。
「いえ、お気になさらず。困ったときはお互い様ですから」
「ありがとうございます」
 今にも喜びが爆発しそうだ。

 有り難くいただいたティッシュで素早く全体を処理すると、ドアを開け、手を入念に洗い、トイレの外に。
 くるくるとあたりを探すが、その人はもうどこにも見当たらなかった。
ひどく残念な気持ちとかえって安堵した気分が交錯して、不思議な感覚が競り上がってきた。
「トイレの女神様、だったのか」
 確かに、あの慈しみに満ちた声の主は、人間離れしているとしか思えなかった。

 会議が無事終わり、帰る道すがら、スーツの上着のポケットに入れておいたティッシュの外袋を取り出した。
 記念というか、感謝の念を忘れないようにするため、捨てずにおいたのだ。
 何気にティッシュの裏側を見ると、派手なカラー写真がカードにおさまっていて、簡単で簡潔なメッセージが手書きされていた。
 丸っこい文字で、きっと、遊びに来てくださいね、典子より、そう書いてあった。

 中国語では、手紙はトイレットペーパーのことを指すらしいが、このティッシュも手紙になる資格はあるだろう。
 彼女からのメッセージは、確実に手元に届いた。
 俺の女神様からのご招待を無下に断るのは、非礼に当たる。
 罰当たりなことはすまい。
 早速、今夜あたり、お礼に行って来よう。
 会社に着く頃には、どうやって残業を断るか、だいたい算段は付いていた。

 途中、開店までの時間調整で、軽い食事をとり、手紙の差出元へと向かった。
 あれから色々あったが、今は、二人で暮らしている。
 波風あり、坂あり、谷ありの人生、女神様は奥様に降格になったが、時折見せる優しい笑顔は、俺の直感も満更捨てたものではないことを証明している。
 ちょびっと臭いところから始まった仲ではあるが、二人めげずに助け合っている。
 結局、自分の人生を生きるのは、他ならぬ自分と自分の愛する人だけなのだから。



    

   第九篇 女神様 ノイシュヴァンシュタイン城抄

 何年振りかで彼女を見かけた。
 地下鉄の駅の改札口付近で、彼女はまったく気づいてなかった。
 わたしは千載一遇のチャンスとばかり、彼女を追った。
 別に敵討ちではない、彼女はわたしの女房だった女だ。
 田舎暮らしに嫌気がさしたのか、両親との折り合いが最後まで付かなかったのか、ある日、離婚すると言って届に判子を押させ、役場に行ったついでに、どこかに消えてしまった。まだ、あれが二十歳になったばかりの頃のことだ。
 勢いで判は押したものの、離婚するつもりはさらさらなかったのに。
人は時々妙なことをしでかす。
 思いもしない展開に、ぽっかりと大きな穴が空洞のように開いて、罠を仕掛けた落とし穴だと直ぐに分かった。
 情熱というより情念のようなものがトグロを巻いていた。
 あいつがやっちまったんだ。

 彼女は、駅の出口のあたりで、袋からティッシュを出して、道行く男どもに渡していた。
 手応えを感じなかったのか、歩きだし、近くの公園のトイレに入った。
 すぐに出てくると、紳士用のトイレからトイレットペーパーを持ち出して、ご婦人用に戻った。
 すっきりしたのか、トイレの影でタバコを吸っている。紫煙が夏の空に立ち登り、煙た目の空に変わった。
 ひどく焦ったスーツ姿の男が、紳士用に駆け込んで、しばらくすると、何やらばたついている気配。
 様子見をしていると、彼女がつかつかとトイレに近づき、男の悲鳴に反応している。
 袋からティッシュを取り出して、下から差し入れた。
 元のところに戻り、タバコの二本目に火を付けると、悠然と去って行った。

 出てきた男は、晴れ晴れとした夏の太陽の顔になり、あたりをキョロキョロしていたが、すぐに公園から出て行った。
 これらの現象に何か特別な意味でもあるのか、さっぱり分からなかったが、太陽の黒点が幾分か増えたような気がした。

 駅に戻ると、道路にティッシュが落ちていた。彼女の配っていたやつだ、そう確信した。

 夜になった。
 簡単な地図を頼りに、迷いながら、やっとたどり着いた約束の地、ネオンが目に染みる。
 ノイシュヴァンシュタイン城
 誰かが囁いた。
 父と子の相克、冷たい狂気が凍てついた至上の旋律を奏でる。
 あの城は、ある意味、未完であり続けることが、その代償であり、称賛の的ともなる。
 尖塔を模したいびつな建築、人間がどこまで愚劣になれるかの象徴、いかにも退廃と享楽の世界の入口に相応しい面構えだ。
 意を決して、店の扉を開く。
 ほの暗い暗室か、子宮の中心に入った。

 口論になったのは、わたしのせいだろう。
 指名したのになしのつぶて、わたしの天使はどこだ、つい声を荒げたのは、酒のせいばかりではない。
 やっと来た天使は、わたしのことには気付かない。それが怒りのボルテージをマックスにした訳ではない。
 例のスーツ男がわたしのボックスまでのこのことやって来て、必死になってわたしをなだめようとするからだ。
 逆鱗である。
 その頃には、彼女もわたしの素性に思い当たったのか、すっと席を外し、もう戻らなかった。
 置き去りにされた男二人で、和解の酒をなぜか酌み交わし、賑々しく手打ちする頃には、十年来の竹馬の友みたいになっていた。

 わたしは決してストーカーなんかじゃない。
 わずか五年であっさりと見忘れられるようでは、男前とは言えない。
 わたしの最終防衛線、わたしのプライドは、キッパリ手を切り、手を引くことだった。

 それから何度か店に行ったが、彼女と出会うことはなかった。
 あの繁華街に近づくこともなくなった。
 公園のトイレは使ったことがない。
 何か、魔物でもひそんでいるようで、まっ昼間から、ただならぬ妖気のようなものが漂っている。
 あの岩山の頂に聳える白帝城、最近嫁いできた妻の大好物らしい。
 白鳥石城、ロマンチック街道の終点か。
 オクトーバー・フェスト、ミュンヘンでソーセージを片手に大ジョッキのビールだ!
 ならば、二度目の新婚旅行は、バイエルン王国と洒落こむとしよう。


    

   第十篇 タツノオトシゴ

 失ってから気づくこと。
 別れを切り出したのはわたしの方だった。
 彼は感情を押し殺していたに違いない。時々、涙目になりながら、少しだけわたしに反論していた。
 失ってから気づいてしまっては、後悔だけしか残らないのに。

 彼と別れて一月もしない間に、わたしは気づいてしまった。
 自分が引き返せない遠いところまで、いつの間にか、連れ去られてしまっていることに。
 彼を失ってから、なぜか、わたしは感情が平板になった。
 平坦ではない、急に乱高下する平板さは、ほとんど空恐ろしいものだと知った。後の祭りというほどの祝祭感は、かけらもない。
 わたしは妊娠していた。
 わたしという生を根本からリセットするだけの力を備えた存在、うとましいほどわたしにつきまとい、わたしの関心を求め続け、与え続けるる、何ものか。
 途方に暮れる、わたしを置き去りにして勝手に途方もなく暮れていく、そんなフォースの暗黒面をこれからひとり生きて行かねばならないのだろうか。
 悲しくもないかわり、単純な喜びからも引き剥がされたまま。



 亡くしてから知ること。
 わたしの人生は転職だ。天職ではない。コロコロ転がってどこかの薄暗い片隅にでも吹き寄せられる、そこで塵、芥にまみれて……
 そんな人生を夢見ていたはずはないが、まったくの想定外かと言うと、そうでもなかったような気がする。嫌な予感、みたいな。
 あの選択はひどかった。
 確かに、日給は結構単価高かったし、勤務時間はきっちりしている、休みも平日だがきっちり取れた。待遇に問題がある訳ではない。
 ただ、どうしても拭いきれないものがあった。人前にああいう恰好で自分というものを晒すことに、どうしても抵抗があって、自分をなだめるのに苦労した。
 いつの間にか、お酒の量と回数が増えていた。
 気づいたときには、わたしは亡くしていた。それが大切なものだったのか、わたしの人生を根刮ぎにするくらいのものだったのか、知る由もなかったのに。
 冬場、身も心も冷え冷えとしていた。それがよくなかったのだろう。
 わたしは突然流産した。わたしとは別の生を引き受けたひとを、あらかじめ失ってしまった。

 莫大な損失、いや、とんでもない負債、ああ、抱えきれないその恩寵を受け止められずに……
「ゲノム・ゲーム?!」そんなはずない。



 これは、タツノオトシゴ、あれは、人魚の卵、ちょっと大きいね。
 誰に問われる訳でもないから、自分に問いかける。
 あのつぶらな瞳は、ブルーアイ、あのちっちゃなお手々は、オニヒトデさんかな、みんな楽しそうだね。

 時折思い出すのは、あの悔しそうな、悲しそうな、情けないような、ほんの少しほっとしたような、あのときの彼の顔。
「ほんとのこと言うと、誰も愛したことはないし、誰かを愛せるとは思えないの」
 そんなひどい言葉はないはずなのに、なぜ、無邪気に口することができたのだろう。よく分からない、自分というものが。
 誰かに、誰からも、愛されたという感覚がわたしにはない、言い訳のようにして、自分に言い聞かせてきた。
 わたしは愛された記憶がない、だから、ひとをどう愛すればいいのか、知らないままでいる。
 知らないままでも生きてこれたし、きっと、この先も、と。



 晴れやかな空が広がっている。間もなく、桜も満開になるだろう。
 一寸先が闇なら、一間先はきっと光の領分かもしれない。
 夜の水族館は、光と闇が争うこともなくそれぞれの領域を楽しんでいる。
 ひとに愛された記憶はなくても、愛された記憶ならある。
 そう信じられたのも、彼らのおかげだ。
 悠々と、優雅に舞い、泳ぐその姿は、いつ見ても、心を奪われる。
 でも、奪われたはずの心は、彼らの優しいまなざしに包まれ、ほんのりと暖められて、わたしのもとに返ってくる。
 ガラスの壁に見えたのは、わたしの思い込みで、すっかり冷たくなったわたしの足をそっと守ってくれるガラスの靴だったのかも。



 公園は、七分咲きの桜に酔うように、人の群れが右往左往している。
 久しぶりの人出だ。
 知らない人の顔がなんだか懐かしく、マスク越しに挨拶のひとつもしたくなっている。

 白いベンチを見つけて、座ってみる。桜並木からは少し離れていて、喧噪からは縁遠い。
 たまに、ほろ酔い加減のひとが通り過ぎるくらいだ。
 昔、もう随分と昔のことのように思えるが、一緒に花見をしたことがあったなあ。

 少し風が出てきた。
 上弦の月がぼんやりと見えた。
 ベンチを立って、歩き出した。
 向こう側から、どこか見たことがあるような人影が近づいて来る。
 そのまま進もう。
 たとい、それが、神が信じたゲームであろうとなかろうと。
 そう思った。



    

   第十一篇 であいがしら

「どうぞ、お気遣いなく」
 そう言われて、我に返る人もいれば、気に病んで寝込む人もいる。
 百人百様か、この世界は。
 いろんな人が、いろんなことをしでかして、やっとこさ一人前。
 それもありだ。

 別れが出会いを導く。
 そういうことも、当然起きるのだろう。
 未確認飛行物体など見たこともなかったが、実際、見たところで、それが未確認なのかどうか、どうやって確認すればいい。
 出会いとは、結局、そんなものだ。
 別れにこそ、真実の姿が垣間見えるのだ。

 いつもと変わりないと思っていても、少しずつ変化している、それが現実なのに、わずかな兆候は見逃すのが常。
 でなければ、非効率で、一瞬もぼんやりできない。
 人は、案外、楽なように出来ているのだ。

 夏の終わりだった。当たり前のように十月が始まろうとしていた。衣替えはどうなる。
 心配しても意味がない。
 そのまま秋はしっくりしないまま暮れてしまい、いきなり冬がのさばっている。
 これから受験や就職で鬱陶しいが、避けては通れぬ関門の一つだと言い聞かせ、耐える。
 タエルシカナイ、ソレガ人生カ

 グルメは、人を孤独にするか。
 そんな問いが模擬試験の問題にあった。
「?」
 わたしはチンプンカンプンで、青息吐息。
 万事休す、そのとき、閃いた。
 ヒラメの姿焼きが。
 ヒラメは、海底でじっと空を見つめている。
 自分の孤独と引き換えにしなければ、あの神々しい光の世界にたどり着くことは出来ない、それを知っていたから。
 グルメは、歓喜と失楽の世界、絶望と希望の交錯する小宇宙なのだ。
 そこでのみ、ヒラメは称賛され、たちまちに食べ尽くされる。
 悲哀、残酷、無情、無惨
 だが、無上の歓楽と栄誉、至福の懊悩と悔恨、それらに優る愉悦と狂気が、手の届くすぐそこにある。
 ヒラメは思う。
 やはり、アホなことはせんと、ここにいましょ。


 彼とは二か月近く会ってない。
 電話もメールもラインもしてない。
 もう、ダメなんだろうか。
 不安で仕方ないが、行き掛かりで、こうなってしまった。
 後悔してるけど、どうにもならない。
 彼の気持ちが、ワカラナイ。
 あの深海魚め。
 わたしから思いきって告白したのに、ヘラヘラして、あれって、照れ隠しのつもり。
 ほんとは、わたしのこと、チラ見ばかりしてたでしょ。
気があるのは分かってたのに、いつまでたっても気のない素振りしてるから。
 花火大会の約束して、いそいそ出かけた。
 夜店で、クレープとか買って、いい場所も取った。
 楽しかったのに。
「おれたち、出会いが白髪繋がりだったしな」
 わたしが若白髪かもって言うと、彼もおれもそうかもって。
 そんなどうでもいいようなセリフしか思い出せないなんて、どうかしてる。
 いっそ、海に潜って、ヒラメさんに会いに行こうかな。



    

   第十二篇 ネーミング

 人には、永遠に名付け得ぬものがあります。
 それが人を鼓舞することもあれば、ときに悲嘆に陥れることもあります。

 朝の海も好きだが、夜の海は大好きだった。
 日がすっかり落ちて、太陽の痕跡が波に消され、海と空の色が一つになる時間帯、海岸をひとり、よく散歩した。
 沖合には、烏賊釣りらしき漁灯が幾つも小さな点になって煌めいている。少し上の方には、冬の星座が競うように犇(ひし)めいていた。
 夜、海を歩くと、あのひとのことを思い出す。
 あのひとのひんやりとした感触が、まるで波消しのように、砕けては打ち、寄せては返していく。不思議な旋律を奏でるかのように。

 別れて三年も経つのに、まだ、そのかすかな記憶のぬくもりが、わたしの心に漣(さざなみ)を立てている。それをどう名付けたものか、分からない。
 朝の海は、嫌だ。
 別れたあの頃を思い出すから。

 夜の海にしようと思ったのは、そんな思いがあったから。
 親方に相談して、そう決めた。
 寄り切りが売りだったから、寄りの海でもよかったが。

 部屋の稽古は、早朝からだ。
 体からもう湯気が立っている。




    

   第十三篇 煎じ薬

 二番煎じは、芝居の世界でも、芳しくはないようですが…

 舞台稽古に熱が入ると、ついつい、アドリブなどが出てしまうことがあります。
 少しでも演技を優れたものにしようという熱心さ、演劇に対する執念みたいなものが、彼らを駆り立てているのかも知れません。
 いよいよヒロインとの逢瀬の場となり、台本では、彼女の手を取り、二人は砂浜を駆けていくとなっていたのですが、

「あ、キスだ、練習でもしてたのか」
 余りに自然な主役の演技に、見ていた劇団員はあっ気に取られています。
「ばかやろう、練習してたら、あんなキスができる訳ないだろ」
 リーダーは、誰にともなく、不満のマグマを吐き散らかしています。

 おれの脚本を無視しやがって……
 いったい何様のつもりだ。
 主役を取ったからって、いい気になりやがって
 どさくさ紛れに、キスなんかしゃがって
 今度、たっぷり、この借りは返してやるからな。
 おまえなんか、ほんとは、大嫌いなんだよ。
 そんなことにも気付かないで、よく役者がつとまるな。

 最終のリハーサルは、熱のこもったいい舞台になった。
 お開きとなり、皆、興奮を隠しきれずに、三々五々、帰って行った。
主役の二人もいつの間にか帰ってしまった。
 どこかで待ち合わせかも……
 リーダーは、二人の後ろ姿を見失うまいと、必死になって目で追っていた。




    

   第十四篇 どぜうなべ

 昔むかしのことでしたで始まるようなそんな昔のことではないが、手鍋下げても嫁に行くと息巻いていた大店(おおだな)のお嬢さん
 手鍋は取っ手のついた鍋のことだが、まさか、それが、召使いひとりいない、家事全般はおろか、義父母の下の始末までを含む由無しごと全部が嫁という存在の自己負担に帰する惨状を呈するや、一目散に実家に駆け戻った。決して、逃げたわけではない、というのは、ご本人の主観的な評価にとどまっている。
 かくて、身を焦がす灼熱の初恋は、遺憾?ながら、一部焼失との認定で終わった。

 土鍋といえば泥鰌というのがこの地方の定番である。
 男は、新妻に逃げられ、途方に暮れるでもなく、新たな犠牲者?を求めて、賑やかなところに出掛け、これはという生娘を物色していた。
 この男、年のころは三十ばかり、苦み走った、それでいて、爽やかな笑顔のよく似合う、粋な男の風情を翳りのある横顔にそこはかとなく醸し出していたから、世間知らずの若い娘が目をつけられたら、ひとたまりもない。
 鰻屋に小ぎれいで気の利くしっかり者の娘がいると小耳にはさんだので、早速、悪い虫がつかない内にと、店に出掛けた。
 鰻屋とはいうものの、たいていは、泥鰌を頼む。
 泥鰌鍋の方が数段美味しい、これは貧乏人どもの僻み根性から来るものだろう。

「どぜう、鍋にして出してもらいましょうかね」
「あい、どぜう鍋、一丁」
 しばらく待てば、さきほどの愛想のいい小娘が、土鍋を運んでくる。
「お前さん、よく働くね」
「お客さん、おまんま食べてるんですから、働かないとバチが当たりますよ」と真顔で答えるのも、好ましい。
「お給金は、そこそこかい」
「文句を言っちゃ、おてんとうさまに申し開きができません」
「なら、借金でもあるのかい」
「まあ、人並みですから…」と少し曇った表情に。

 幸い、頂いた結納金はまだたんまり残っていたので、ここぞとばかり、攻め倒す。
 一月後には、身内だけの簡素な祝言を挙げ、床入りも済ませ、それじゃ、最近巷で流行りの新婚の旅と洒落込んでみるかと、熱海辺りまで温泉につかりに行く。

「ぬるぬるしてますね、あなた」
「ああ、確かに、ぬらぬらと、気持ちのいいような、悪いような」
「気をつけてくださいね、足元が不案(内)で」
「ここでこけたら、男の沽券にかかわるかもな」と笑う横顔が惚れぼれする。
「ちょっと熱くないですか」
「確かに、やけに、ぐつぐつして来たような」
「ねえ、もう出ましょう」
「ああ、そうしよう。こんな熱い湯は真っ平だ」
 ふたりは、湯船から出ようとするのだが、何しろ、傾斜というか見事な反りが邪魔をして、つるつる滑り落ちる。
「ええ、くそっ」男は苛立って、お下劣な言葉を口にしてしまうが、女もそんなことをいちいち気にしているような時と場合じゃない。
「あちち」
「なんでえ、これは」
「もしかして、これ、土鍋の温泉?!」
「なんだと、土鍋の中に放り込まれたか」
「どうも、そうらしいわ」女も必死の形相だ。
「じゃあ、おれたちゃ、泥鰌並みかい」少し残念そうな男の歯ぎしりがした。
「並ならいいんですけどね、どうやら、鰻の上(じょう)二人前みたいですよ」流石にしっかりしている。
「上なら仕方ねえ、まあ、いいとするか」この気風のよさが堪らないわ、女はドキドキしていた。

 たれのようなものをたっぷりと付けられ、人様のお口をよごす頃には、もう、自意識も認知機能も完全に失われていたので、実際のところ、出された料理が、泥鰌鍋だったのか、鰻の蒲焼だったのかは、彼らには、確かめようもなかった。

「ついでに飯も炊いとくか」
 それが最後の言葉でした。




    

   第十五篇 おまち

 昔、大人の男の遊び場をおまちと呼んだ。
 御町と書くが、待合を意味するお待ちから来ているとの説(異説だが)もあるらしい。
 いわゆる吉原などの遊廓を指すものだ。

 れっきとした遊廓ともなれば、貧乏人には一生縁がないとしたもの。
 貧乏人の小娘が借金の肩に売られて来て、ここで磨きを掛けられたら、もう貧乏人などには高嶺の花、手や足が届くはずもない。

「ちょっとお待ちくださいよ」
 慇懃無礼な遣り手婆みたいなのが、奥に消えた。
 手持ち無沙汰にぼんやりして、あちこち珍しいものを眺めていると
「どういうご用でございやしょうか」
 こわもてのする男が出てきた。
「えーっと、鶉太夫はおいらの幼なじみで、おいらに便りをくれたもんで」
「便り、いってえ、どんな了見で」と凄んでみせる。
「な、なにも、太夫をどうこうしょうなんて滅相もないことで。おいらはただ一目会えれば、元気な姿を見れば、それで十分なんでして」
「そいつが了見違いって言ってんだ。一目会うのも、十両、百両の値がつく世界、いい加減にしゃがれ」
 ぼこぼこにされ、コテンパンにされ、玄関から叩き出された。
 とぼとぼ歩いて帰ろとすると、二階の方から鈴の鳴るような声が。
「もし、ちょいとお待ちくんなまし」

 一目拝んだご尊顔は、この世のものとは思われず、霞む目には、天女様としか映らなかった。
 早く帰ろう。
 若者は、天女の声を振り切るように、振り返りもせず、走りに走った。

 村の言い伝えに、夜、天女に合うのは、不幸の始まり、というのがあった。
 長老の話では、天女は、男と契りを交わすと、忽ち夜叉となり果て、男を喰い尽くしたそうな。





    

   第十六篇 もし

「もし」とくれば
「ヤバイ」となる、そう思わなかった俺が悪いのか。
 今時、もし、と人に向かって面と言う女はいないだろうが。

「もし、そこのお方」
 振り返らなければどうと言うことはなかった。
 もう少し冷静さを保ち、敢えて言うなら、今朝の冷製スープをしっかりと飲んでおけば、こんな羽目にはならずに済んだ、今更、そう思ったところで取返しはつかないが。
 まあ、あれやこれやで、その夕刻は、大変だった。
 十年ぶりくらいで見た真っ赤っかの綺麗な夕焼けが前奏曲か。
 雲が異様に活気づいて、時間軸が歪んでいたのかもしれない。
 あれよあれよで、土砂降りに変わり、真っ黒な雲がビュンビュンと我が物顔に走っていく。
 ところで、あの女は?
 どこにもいない。
 街がすっぽり消えている。何を今更、そんな馬鹿な……

 いったいどうなってる、異常気象に、超常現象かよ。
 次は何だと待ち構えていると、予想外に、キャピキャピの年若い女に変身している。
「もしもし」誰かに電話しているみたいだ。
 仕方なく、俺も、「もしもし」とやってみる。
するとどうだ、「やっぱ、〇〇君」と弾みだす声が耳元に飛び込んでくる。
「えっ、君って、もしかして……」
「そう、高校の時、一緒だったでしょ」なんて、言うはずもないか。
でも、めげずに
「久しぶり」とか、適当に言いくるめて
「何年ぶりかしら」
「確か、七年になるかな」とか、嘘から出た実ってのが精一杯の誠意の現れなんだよな。

 それで、コジャレたカフェでもと考えたんだか、この情勢では無理か、と思うや否や、ドーンと荒野にカフェの一軒家様だ。
 まあ、いいか、と店に入ると、これまた小股の切れ上がったというか、意味不明のアキバ系が、ご主人様とか、ぶるぶる唸るぜ。

 三人仲良くパフェでも喰って、二次会に繰り出したまでは、よく覚えている。
 それから先は、闇また闇。
 心の病か何か知らないが、一寸の虫にも五分の魂、よほど間延びした
 カップラーメン掻き込んで、お開きにする。
 そこでしこたまゲロ吐いて、温泉芸者の紐になった。



 明くる朝は、二日酔いにしては爽快な秋晴れ、風が心地よく吹き、肌をこそばす。
「女将は、どうした」と連れに聞くと、いきなり部屋に乱入する怪しい影……
「おはようございます。女将でございます。よくお眠りになれましたでしょうか」
「幸い、よく眠れたようだ」
「それはよろしゅうございました。おホホホホ」と来た。
 とりあえず、温泉に浸からんとな、ということで、三十分後に朝食の準備をお願いし、お引き取りを願う。
 俺は、冷泉に入り、隣の浴場の二人に欲情していることに気付いたときは、十分に手遅れ感満載だった。
「入口は二つなのに、出口は一つかよ」
 ぼやいても始まらない。
 裸一貫、男の花道とばかり、股間を両手で隠しながら、抜き足差し足
気配はないなと安堵して出口に突入すると、
「あらま、いらっしたの」と例の女
「いやあ、ついつい長湯をしてしまいました、あはは」と照れ隠し
「ご一緒できて、良かったですわ」年増ながら、はち切れそうな肌の張り、艶
 くらくらとして、床板にそのまま轟沈
 冷泉と言えど、二日酔いの朝は、長湯は禁物

 気が付くと何やらもぞもぞと虫の這うような違和感、いや、快感か。
 俺は堪らず唸り声を上げ、女を突き飛ばす。
 驚いた女は、風呂上がりの姿のまま、さめざめと泣いている。
年上の女に泣かれたのは初めてで、自分の母親をいたぶっているようで、何やら落ち着かず、バツがわるい。
 バツ一の母だったが、俺には優しかったな、そう思ったら、泣けてきた。

 二人、どうしたものか思案していると、アキバ系が朝の散歩からご帰還とのこと。
 健康的過ぎやしないか、心配になるのを見て取ったか、
「一日三万歩が目標やねん、結構きついわ」
 あんまり無理すんなと忠告し、豪勢な朝食会となる。
「とりあえず、ビール!」

「今日は、何すっかな」
 俺は久々に高等遊民になって、気分が高揚していた。
「中央フリーウェイ、走りたい」
「そうか、なら、どーじゃ」
「あんた、運転荒いわ」
「わたしは、飛行機雲に乗りたいの、昔からの秘かな願望ね」
「まっとうな夢は、なかなか叶わんとしたもんじゃ」



 するとどうだ、一天俄かに掻き曇り、元の木阿弥、俺は、駅前のコンビニの軒先で、しょぼけた雨宿りをしている。
 傘がないか。
 探してもないものは探すまい。
 あの年増とメイドのコギャル、どこに消えた。
 もし、あの時、七年と言わず、三年くらいに値切っておれば、今頃、俺は、左団扇で両手に花か、仇花か。
 そんな訳もなく、いつの間にか、雨は止んでいた。
 仕方がないので、歩き出したって寸法だ。
 特にこれといった宛てはなく、風の吹くまま。

 俺的には、異界、幽界、冥界の類いは、存外、近場にあると知った夜だった。
 ただ、おそれるだけでは、もったいない。
 できれば、観光資源にと思わないでもない。
 一儲け出来れば、この国も一息つける。
 俺にもそれなりの余得が転がり込むかも知れん。
 これって、案外、強度の郷土愛かも?

 なにやら、懐が冷たいな
 これから、淋しい秋になり、厳しいだけの冬が来る。
 それが季節というもんやから、季節の風に合わせるしかない。
 身過ぎ世過ぎは死ぬまで続く。

 それやこれやで、
 また、今度、気が向いたら、行ってみようと思った。
 もしかしたら、あいつらに会えないとも限らんしな。



   

   第十七篇 こくぞー

 そーめんくわせろ、へえこくぞー

「おれをコクソーにしろっ」おっさんが凄い剣幕で吠え立てるものだから
 おれは、おっさんのどたまにきつい一発を食らわせてやった。
 おっさんは、声も立てずに、静かに横になった。
 ソーシキじゃ、という訳で、二階の部屋に棺桶置いて、白装束に仕立てたおっさんを寝かせ、
「なんまいだ、なんみょうほうれん、なむこんごう……」などど呪文のようなものを唱えていても埒は開かない。
 もう潮時と思ったところに、告訴状が送られてきた。
「なにやらキソもされずに、コクソーとは、いかにも不届きにつき、告訴します」と文面に書いてあるので、そいつはご苦労さんと
 紙風船にして二階の窓からすっ飛ばすと、折からの風に煽られたか、その先のとがった紙飛行機は棺桶の方に迷走し、とうとう、おっさんの鼻の穴に着陸した。
「げっ」一瞬驚いたが、何事もなかった。無事、ソーシキは挙行できる。

 ぼんやりと窓の外、夕日が一日の汚れを落としている頃合いの街並みを眺めていると、
 下の方から、どやどやと人が上がって来る。オツヤの客だ。
「なんで、われ、二階なんぞでソーシキするんじゃ」
 ほとんど全員が怒り心頭の面持ちで、おれの忠告など無視して、棺桶を担いで、下へ下ろそうとする。
 仕方ないので、片棒を担ぐ羽目になったとき、
「ぶおーん」と一発でかい音がして、棺桶が震えた。
 それから、何とも言えぬ臭い息というか、溜まり糞の屁というか、鼻を曲がらせてしまう強烈な臭気が蓋の隙間から漏れて来た。
 堪らず全員が手を離したので、おっさんの棺桶は、ジェットコースターのように、玄関口を突き抜けて、地面に横転した。
 驚いて、棺桶を追いかけ、追いついたとき、蓋の落ちた棺桶から抜け出たおっさんがよろよろと立ち上がり、白装束を半分泥まみれにして、皆を睨みつけると
「なんでわしをコクソーにせんのじゃ」と怒鳴っている。

「コクゾウなら米櫃に沸く質の悪い蟲やが、コクソーってなんや」
「世界の穀倉地帯のことかいな。アメリカの大平原、アルゼンチンのパンパ、ウクライナの黒土」
「学あるやねいけ、われ。コクドかいな、国士とかなら恰好はつくが、まさか国費とか、わしを酷使しろってな訳ないし」
「あれで、結構、極道やったけどな」
「初恋の人が組長の娘やったんやとか」と笑って誤魔化す。
「ところで、ソーシキの締めは、ソーメンにすっか、ラーメンがええかな」
「そりゃ、ソーメンやろ」と話は弾む。



「へェ、こいとったな」
「臭かったな」
「かなわんわ」なごやかな名鉄沿線の街並みにようやく静寂が訪れようとしていた、なはずないか。
 あれこれ詮索している間に、オツヤとやらも勝手に始まっており、日はすっかり暮れて、どんちゃん騒ぎである。
「おっさんも、まあ、呑めや」ということで、一件無事収まり、朝方まで、呑みつぶれた野郎どもが、泥玉でこねた蛸部屋のように眠っている。

 朝日がほぼ万民を照らす頃、一番早ように目覚めたおっさんが、二階の窓からぼんやりと見るともなしに薄っぺらい街を見下ろしている。
「おっさん、どないした」おれが尋ねると
「わしはコクソーになりたかったんじゃ、それが叶わんで、こんなしょぼい始末に」と珍しくぼやくので
「そのコクソー、いったい何様のつもりなんじゃ」と聞くと、おっさん、涙を流しながら、
「わしは日本一の偉いボーさんになりたかったのじゃ。国僧になって、金と女に何不自由ない、栄耀栄華な暮らしがしたかっただけなんじゃ」と、おれに縋り付いて、むせび泣く。
 こりゃ、あかんわ、そう思い、おっさんの体を突き放したまでは、よかったが。

「おーい、もう一遍、ソーシキじゃ。今度は一階ですっからな」
 皆も起き出したのか、もう一遍、どんちゃん騒ぎができると聞いて、すっかり調子を戻したみたいだ。



 わたしの物語は、多分、これでおしまいにしよう。
 そう思うと少し残念なような気もするが、亡くしてしまった子どもの歳を数え立てていても、何も始まらない。
 失われた記憶の淵から時折聞こえてくる声の主は、姿かたちもぼんやりとしていて、そこから流れ落ちるものは記憶の結晶(つぶて)のようにきらきらと尖った断面をのぞかせる。
 不意に、微かな痛みがよみがえる。
 まるで万華鏡の仕掛けみたいだ。
 偶然、懐かしい嘗ての光景に出会い、涙することもある。
 それもこれも遠いうつろな距離感の寄せ返す夏の終わりの砂浜でのささやかな歓楽(ざわめき)を思い起こさせるだけだ。

 それでは、これでおしまいにしよう。

 恋は語るものにあらず。
 恋は深きに沈めるもの。
 溺れてこそ初めて救われる手立ても見つかると言う。
 それもまた一片の真実であろうか。
 藁にも縋る人形たちのように。

                                    

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