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恋愛事変 その2 人魚の家
第一篇 人魚の家
人形町の隣りにある人魚の家、そこが今度のわたしの勤め先だ。
契約社員だが、うまくすると、一年後には正社員になれるらしい。実際、なった子が隣りにいるから、希望は持てる。
格差社会というが、ネーミングなんてすべて思い込みか思わせぶりかのどちらかで、真実を言い当ててしまったら、使えない。
前の彼とは半年も続かなかった。
水族館も、映画館も、プラネタリウムも、お洒落なカフェも、実際二人で行ってしまうと、何だか、後は色褪せてしまうのを待つだけみたいになって、これじゃ、アルバムにべっとり貼り付けたL版の写真と変わらない。
あんなにドキドキ、ハラハラしたのに、もうときめかないなんて、わたし、どうかしてる。
確かに、彼は、自分が結局あれなのを気にして、わたしに気を使うんだけど、それがかえって負担というか、押し付けがましいような、そんな感じがしてならない。
あのときも、すっごく丁寧で優しくしてくれるんだけど、何だか物足りない。
だって、彼は、もともと百獣の王のライオンなんだから、もっとこう、ガブッととか、バサッととか、ドバッととかじゃなくちゃ。
野獣から野生を取ったら、ただの「けだもの」しか残らないでしょ。
思い切って、職場を変えて、彼とも別れた。
きっと、素敵な出会いはあるはず、そう思い込んでいた。ちょっとした成功体験が、あてもなく進路を迷わせることもあるとは知らなかった。
でも、出会いはあった。
美しいとは言えないが、とりあえず平凡でもない。
人魚の家は、水族館ではない。
昔、この辺りが海だった頃、ここに人魚が棲んでいて、漁師の若者と恋仲になり、子どもまでもうけたが、若者は人間の娘に心変わりをして、とうとう人魚は……、というお話を3Dかなんかで展示している。
ついでに、スパやら遊園地みたいなものを一緒くたにして、よくよく考えると、猥雑さの滲んでいる奇妙な複合娯楽施設である。
わたしは、水族館の片足程度の一角で、案内係をしている。
だいたいは子ども連れが多いが、たまに、アベックとかも来る。
納得の組み合わせもあるが、やはり、意外というか想定外の取り合わせもある。
世の中は、自分限りの狭い了見では渡れないということか。
ある日、閉館時間まであと三十分くらいになって駆け込んで?きたカップルがいた。
平日だし、もう、わたしの出番はないと思って、片付けにかかっていたのに、思わぬタイミングだ。
慌てて、衣装を整えると、二人のために案内を始めた。
人魚と若者との出会いと別れを九十秒以内で終わらせる。長くなれば、誰も聞いていない。
すると、途中で、二人がわたしの説明そこのけに口喧嘩を始めた。
理由は分からない。ガラス越しなので、言い争ってる内容は、はっきりとは把握できない。
そして、怒った彼女サンが彼氏のことを思い切りバッグかなんかでぶって、そのままサッサと立ち去ってしまったのだ。
呆然とする彼、それをあっけにとられながら見ているわたし、目と目がなぜか合い、ばつが悪そうにして……
ヘンテコな出会いというものがあるようだ、平凡な人生にも。
でも、そんなのは人生の「特異点」とかいうもので、当てにはならない。
片付けと点検を済ませ、着替えも済ませ、事務室を出、玄関を後にする。
だいぶ秋めいてきて、夜の風が溶け出したかき氷のようにちょっとだけひんやりとした。
ぼんやりと海岸通りを歩いていると、遠くから波の匂いが染みてくる。
小さい頃は、無念にも命を落としたお魚さんの匂いだと思い込み、なんだか妙な気分になったものだが、今は、なぜか、どこか胎盤のあたりからじょろじょろと沁み出してくるような不思議な錯覚に囚われてしまう。
汚れた海、そんなフレーズしか浮かばないのは、少し悲しい。
真夏のひりひりとした砂浜を素足で歩いた幼い頃の記憶は、ほとんど消えかけている。
もう、あの夏の膨大な熱量をすっかり失ってしまったのか、幻の波打ち際に敷き詰められた砂のひと粒ひと粒にも、まるで生気は無かった。
星だけが一足早く秋の星座を幾つか見つけ、一筆書きの練習をしていた。
この仕事も悪くはないが、冬場は少しつらいかな、とか考えてしまう。
でも、どうして、あんなに派手な立ち回りを、人目も気にせず……
思い浮かべてみても答えは返ってこない。
あのシーン自体が、ひどく違和感のある、どこか欠落したセンテンスのようにも思える。
でも、彼のあの目、あの愁いに押しふさがれてしまいそうな眼差し、なぜか、気になる、マスクをしていても。
いつも地下鉄の駅に向かって散歩がてら歩く公園のループ状になった道、やや強めの照明灯の下に小さい白いベンチがあった。
そこがわたしの定位置、のはずだった。
「あ」と声にならない声を上げる。驚いたのは、わたしだけではなかったようだ。
しばらく、沈黙が続いたあと、彼はベンチからゆっくり起ち上がると
「さっきは、驚かせてしまいましたね。ごめんなさい」と頭を下げる。
いいえ、いいえ、と両方の手を振っているわたし。健気だ!?
意外なところで意外な人に会う。不思議なスパイスのようなものか。
それから、わたしの帰り路(かえりじ)は、なんだか冒険とか狩猟とか出漁みたいな感じになった。
でも、それきりで、あの人は二度と現れることはなかった。わたしの心の芯に、つましい火を灯したままで。
恋しい人は、今、まだ、あの彼女と付き合っているのだろうか。
あのときのざっくりとした彼の話では、彼が別の女の子の方にばかり目を取られているのが、彼女のお気に召さなかったようだ。
彼にはそんなつもりはまるでなかったらしいのだが……
三月ほどして、秋も終わりの伝言を託すときが近づいた頃、あの人は現れた。
今度は、派手めのチャラチャラした感じではなく、どちらかというと落ち着きのある、素直な明るさをオーラのように身に纏っている美しい人だった。
わたしは、ドギマギしながら、案内を始めた。
でも、彼の方をちらっと見ても、彼は楽しそうに彼女との会話を弾ませているだけで、わたしの方には少しも目を呉れようとしなかった。
わたしのつたない解説が済んでしまうと、二人はそのまま、別のエリアに移って行った。一瞬、立ち止まって、キスしてるような……
ひとり、流れ着いた流木みたいに浜に打ち上げられ、夜の海岸線に取り残されたわたし、ほの暗い照明が冷たい壁にわたしを映している。
悲しくなって、わたしは、思わず泣いた。
やっぱり、夏の終わりに、恋などしてはいけなかったのだ。
夏の名残りが濃い影を落とす頃、きっと、名残り惜しさだけが足もとに残り、居座ってしまうのだから……。
ほとんど出会いとも言えない出会い、片思いとさえ誰も信じてくれないような片恋、別れにしてはかすり傷にもならないようなささやかな別れ、でも、わたしは、ひとり、こんな淋しい水の中で、ひとり、涙のひとしずくにもなれない涙を流している。
嗚咽の声も出せないままで、尾ひれをプルプルと震わせながら。
「でも、いつか、夏の真っ青な海に出て、ぽっかり浮かんだ真っ白な雲を眺めながら、思う存分泳ぐことだってできるはず」
「だって、わたしには、こんなにいとおしいプルプルだってあるんだから」
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