習作エッセイ「かかと」
湯気の立ち昇る浴槽のそばで、私はプラスチックでできた台形の白いイスに座り、母がかかとを軽石で擦る様を眺めている。
「なにしてるの?」
軽石を持つ手を休めぬまま母が答えた。
「かかとががさがさになってるから、軽石で擦ってるの」
「へー……」
「かかとは大事だからね、優しく優しく擦ってあげるんだよ。でも、」
母が目を細める。お風呂に入るたびに見る眼鏡をしていない母の顔は少しだけ、少しだけいつもの母よりも遠い存在に感じる。
「ひとみのかかとにはまだ必要ないね」
私は自分のかかとに手をやる。まるくて、つるりとして、ふにゃふにゃと柔らかい。
母のかかとにも手を伸ばす。彫り込んだような筋があって、かさついて、固い。
子供のニンゲンと大人のニンゲンの違いを発見したような気持ちだった。子供は大きくなるとかかとが固くなるのだ。恐竜の進化みたい。
だけど大人になったらふにゃふにゃでつるつるのかかとの感触はもう確かめられないのだと思ったら、なんだかさみしい気持ちにもなった。
これは自傷行為だと気づいたのは、スニーカーを履いて職場である喫茶店へと向かう道の途中だった。
一歩一歩踏みしめるたびに右の踵がじんわりと熱く痛む。何度目かの後悔を繰り返しているうち、不意に十四歳の私の度胸試しのようなリストカットと、二十五歳の私の踵の皮を剥くという行為が、「自傷行為」というカテゴリーに括れてしまうことに気づいたのだった。
元々かさぶたなんかも治りきらないうちに剥がしてしまうしにきびも治る前に潰す質だった。良くないとわかっていても、気になって気になって結局欲求に負けて、にきびを潰す時のえもいわれぬ快感を取ってしまう。だからまあ、靴擦れのせいで踵に出来たぷくっとした水ぶくれを潰してその薄い皮を引っ張ってみたのも私としては当然の帰結だった。世の中にはあのぷくっとを潰さずにいられる人も勿論存在するのだろうけど、私は我慢できなかった。我慢できない自分を、ぷくっとを見た時からもう薄々わかっていた。恋と一緒で水ぶくれも触れたらもう止まらない。は?
ただ、その皮が案外切れずに踵の下の方、足の裏までつつつうと降りていったのには驚いた。
え、踵の皮って剥けるのか。
そんな新事実の前にどこまで剥けるのかと探索範囲を広げるうちにぴりっと痛みが走る。目を落とすと僅かに血が出ていた。たいした出血ではない。出た瞬間にもう止まっているような、僅かな出血。
しまった、やり過ぎたと思って寝る。朝になる。起きてベッドから足を降ろし立ち上がる。
……物凄い違和感だった。昨日お遊びが過ぎた右足の、ちょうど出血したであろう箇所に、これから錐が足の裏から突き立てられでもしそうな不安と緊張が一点に集中していた。自然、左足の方に体重をかける割合が傾くのを自覚する。
意識して両足に均等に体重をかけてみた。ふつうに痛い。やたらと不安感のある痛みだった。これ以上体重をかけたらやばいぞ、わかるよな、と右足に警告されているような。
踵の皮って剥いちゃダメなんだな……。ずくずく痛む踵とこれから仕事なのにどうすんだ、という内なる声をとりあえず無視して私はベッドの脇で教訓を得たはずだった。
しかし私はそれを繰り返した。治りかけた踵の皮を向いては出血沙汰を起こした。また、出血しなくとも、固い皮を剥いたその下のうっすらピンク色をした、小さな子供の踵のような柔らかな皮膚は歩き仕事に向いておらず、夕方になるとじわじわと鈍痛が踵に広がった。その度に物凄く後悔した。
バカなんじゃないか、とここまで痛々しい&気持ち悪い描写に耐えて読んでくださった奇特な読者諸賢がもしもいたとしたら当然そうお思いになるだろうし、私も私でバカだなと思っていた。なんか気づくと剥いちゃうとかバカだろ。皮剥くのなんか妙に快感でやっちゃうとかバカだろう。
ただ、バカな行為ってだけで自傷行為だとは気づかなかったのだ。自傷行為っていうのはもっと自分がつらい自覚のある時に為されるものだと思い込んでいた。「私は今つらい、なのでそれをまぎらわすために自傷行為するぞ」と意気込む前提があってからするような。十四歳の私のリストカットはそうだったのだ。
でも、やったら痛いのがわかっていて、後悔することもわかっていて、それでもそれを止められないのだとしたら、やっぱり二十五歳の私の踵剥きはそうなのだった。
気づいてからはまさか自分がまた自傷行為をするなんて、と落ち込んだ。行為の奥に繋がっていた「死んじまいてぇなぁ」という声も聞き取って認識してしまい泥のようにぐちゃぐちゃとした心持ちだった。なんでかな。なんで死んでしまいたいのかな。職場にどうしても合わない人がいるから?給料が下がったから?『将来に対する唯ただぼんやりとした不安』が形を成しつつあるから?もうかれこれ半年近く小説を書いてないから?
あーもう死んでしまいたい……ずくずくと痛む右足に体重をかけすぎないようにして歩みを進めつつ、色んな心当たりを思い出してより沈んだ。それでも、「歩きながら『これは自傷行為だった』と気付く一文、なんかいいな、形になりそう」とぼんやり思った。歩くという行為は真に思想のマブダチである。
そうして、私は布団のなかで右手を伸ばして踵に触れて治りつつある傷痕を確かめつつ、これを書いている。皮を引っ張りたくなる衝動を抑えて、柔らかさを失った固い踵を、いとおしむように手のひらで包み込む。
ごめんね、これからはちゃんと軽石で擦るから。明日ドラッグストアで軽石買ってくるから。ささくれのような皮を指でそっと撫でた。撫でるだけ、撫でるだけ。
……あ、痛。
終
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