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確かに在る感情を描く

『君の言葉がわかりたい』は、二人の人間が共に生きていくことを選ぶ物語だ。
コンテストに応募するかを考えている折、そもそもnoteに公開する作業をしている最中から悩んでいることだが、「性欲」をどこまで描くのか、決めかねている。

私がレモーノとミエルの物語を描くにあたって、禁止したことが一つだけある。
それは、二人の物語をポルノ作品にすることだ。
私はこの物語を通じて、人を信じる勇気と、人に助けを求める勇気を描きたいと考えている。
それなので、情欲を煽ることではなく、恐怖を鎮めることの方に重きを置いている。
「つまらない」と思われるリスクをとって、私は『君の言葉がわかりたい』を「どこかにいそうな人たち」の「なんかありそうな話」に書いている。
ポルノ作品を作りたいわけではないが、二人で生きるとなったら、「性欲」の存在は避けては通れない感情だ。

私一人の意見であり、他の人の意見や信仰を否定するものではないが、私は、性欲が存在することも、欲望を満たすことに他の人の力を求めることも、悪いことだ恥ずべきことだと、一切思っていない。
全ての欲望は、ほどほどに満たし、暴走させないことの方がよほど大切だと考えている。
そもそも、この星の命は、他の命を吸わなければ、生き延びられない仕組みになっている。
食欲が既にそうなのだから、性欲も言わずもがな、他人の命が関わってくる。
命のやりとりを悪いことだ、恥ずべきことだと思うことに、私では筋が通せない。
勿論、欲望を満たすにも、意欲や礼儀、作法というものの影響はあるだろう。
なぜ相手への敬意や好意、慈愛などの他利意識ではなく、羞恥心や罪悪感、劣等感などの自意識で性欲を制御するのかは、不思議に感じるところである。

話が逸れた。
レモーノからは、「恋愛物語を刷り込まれる経験」を奪った、といつの日かの記事に書いたと思う。
ミエルの生まれ育った世界には、勿論多様な恋愛物語が存在し、ミエルが読んできた本の中には、恋愛も性行為も存在した。
ただ、ミエルには自発的な性欲は、第一部の段階では存在していないのではないかと、私は思っている。
ミエルの両親の結婚は、政治的な意味合いが強く、父の愛情表現は、尽く母から拒絶されている。
唯一心を開けた妹は、自分ではない他の人の手を取って、家を出て行った。
趣味の読書で知り合った相手からは、恋愛感情を向けられて、性的な関係のない付き合いがしたいという要望を受け入れられなかった。
人の心には恋愛感情があることが普通で、相手によって好き嫌いに差をつけられない自分の方がおかしいのだと、ミエルは思っている。

そして、初めてレモーノにキスしてほしいと思うミエルの心の底にあったのは、「普通の人になりたい」と「レモーノを嫌うきっかけがほしい」である。

ミエルが本当に求めていることは、レモーノとキスやセックスをすることではない。
勿論、その欲望が刷り込まれてはいるのだが、自発的なものではなく、他人の物語を知ってのことだ。
本当に求めるところは、自分の心身をさらけ出しても、嫌わず、貶めず、受け入れて、傍に居続けてくれることである。
自分の恐怖を減らして、今を喜び、明日を迎えることを待ち望む人生を送ることである。
幸も不幸も分かち合い、協力して苦難を乗り越え、自分の願望も、相手の願望も叶う間柄になることである。

レモーノは、ミエルの運命の相手ではない。
ミエルの思い通りになる相手ではない。
本当に、ただ、落とし物を届けてくれただけである。
そのまま名も知らずに別れ、二度と会うこともないようなレモーノを引き止めたのは、ミエルの言葉だ。
第一章の「忘れ物を届けてくれてありがとう」と再三繰り返される「自分の傍にいてほしい」の、本心からの言葉である。
一緒にいて揉めることもあり、悲しいこともある。
相手の良いところばかり見て、自分が嫌な人間に見えることもある。
知ったような口を聞かれて、腹が立つこともある。

この、ままならない自分が見えてくることが、人付き合いの成す力ではないかと、私は思う。
一人でいれば、できる自分、理想的な自分、素晴らしい自分だけ見ていたっていいのである。
自分が正義のヒーローの物語に心酔していていいのである。

だが、人と共に歩む物語は、違う。
みっともない自分も、思い通りにならない他人も、受け止めなければならない事実だ。
良かれと思ってやったことも、相手に拒否されたら暴力になる。
面白いと思って言ったことも、相手に拒否されたら暴言になる。
周りに人がいれば、拒否されることがある。
悪者にされることがある。

しかし、愛は、みっともない自分にも、必ず注がれている。
勇気は、弱くて愚かな自分の中でも、必ず使われる日を待っている。
希望は、悪者にも罪人にも、常に与えられている。
愛と勇気と希望の存在に、気付くのか、気付かないのか。
愛と勇気と希望の力を、使うのか、使わないのか。
それだけのことだ。

『君の言葉がわかりたい』は、私自身、小説にしたり、映画にしたりするような話ではないと思っている。
だが、人を信じることや人に助けを求めることを、機械化の進むこの便利な世の中で、誰かに伝わる形にして残しておきたくなった。
実写の映画にしようとしているのは、言葉を見つけられずに惑うミエルの目に浮かぶ涙と、言葉の代わりに手を繋ごうと伝えるレモーノの手や声の震えを、まず、私の目と耳に入れたいだけである。
私がレモーノとミエルの姿を見たいし、声が聞きたいだけだ。
生きている間に伝わらないかもしれない。
むしろ、私が死んでからも、私の想いが伝わる機会がほしいから、作品にする。


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