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なぜ水や石は命とは言わないのか

私もドイツ滞在時に「いただきます」の意味について問われた日のことを思い出す。
知ってる単語を並べただけの稚拙なドイツ語なのはご容赦いただきたいが、”Das ist ein besonder "Danke", zu essen."、食べるときの特別な「ありがとう」だと答えた。
「命をいただきます」というのが、一般的な解釈だと思うが、私の感覚的には、食材だけに限らず、今日もごはんを食べられることに対する感謝の気持ちである。
私は、最近、これに他者の労力や食糧となった命に対してだけでなく、今日まで生き延びた自分の労力にも、感謝してもいいのではないかと思う。

日本の宗教は、なんというか「特別」である性質が極めて薄いのではないかと思う。
日本に生まれ育った多くの人は、ジブリ作品に、それこそ『千と千尋の神隠し』にすら、宗教性を見出さない。
神様の存在や彼らの居る空間は、人間の住むこの世からかけ離れた世界に存在などせず、バス停で一緒に並んでいても、トンネルを抜けた先にその世界があっても、神様が温泉に入ったり、宴会を開いたり、労働者がいたりしても、「そうだったら面白いのに」と言い出す人が普通にいる。
本当に無宗教だったら、墓など作らないし、初詣など行かないし、お盆などやらない。
だが、おそらく、毎週日曜日に教会に行って讃美歌を歌ったり、毎日規則に則って祈りを捧げたり、これを食べると天国に行けないと禁忌があったりすることがないので、他宗教と肩を並べられずにいるのだろう。
地獄に行く人の定義も、それほど明確ではない。
それにクリスマスも祝いたいほどに、季節のお祭りが好きな民族だ。

特定の信仰先がなく、答えに困る人は、「自然と先祖への信仰がベースで、自己流だ」と答えるのが、適当なところだろう。
周りが特に気にするのが、何を信じているかよりも、何をしてはならないのかの方なので、決まり事があるのであれば、具体的に答える必要はある。
土足で家に上がることや、箸をごはんに刺すことも、「普通はしないこと」は、日本で暮らしていない相手には通用しない。

タイトルの話をするが、私は『天空の城ラピュタ』を見て以来、石も命であると思っている。
パズーとシータとポムじいさんの会話のせいだ。
河原や海辺で石を拾って帰ってはならないと教わっているし、お墓の石を踏んではならないと思っているし、大きな岩には何とも言えないオーラを感じる。
その前からも、「水は生命ではないのか」という疑問をずっと抱いてきた。

命とそうでないものの区別は、正直、難しい。
だが、水や石を命だと言わないのも、野菜は命にあたらないとの考え方も、その感覚はわかる。
水にも、石にも、植物にも、私たち動物と同じ「死」は存在しない。
破壊しても、血は流れない。
倒木からも枝は伸び、葉や花が散り、実を落としても、植物は細胞を増やし続ける。
言葉の意味は狭義である方が伝えやすく、”命”や”死”の定義について考えているのは、私のような暇な人間だけだ。

だが、”命”や”死”について考えたり、何かを信仰したりする上で、本当に大切なことは、「命が何か」ではなく「自分がどのように世界と関わるか」である。

私はやはり、食べ物に限らず、物を投げ渡す、投げ渡されるのは、投球以外では言語道断である。
相手に受け取られなければ、汚損が待っているからだ。
横着が生む汚損は、丁寧にする手間よりも、要らぬ手間を生む。
ごはんをメシと言うことも「ウッ」となるし、他人の食生活に口を出すことは、それこそ「ダイエット中じゃないの?」とか「もっと食べなきゃだめだよ」とかですら、失礼に感じる。
プライドが高すぎる、厳しすぎる自覚はあるので、自制の域を出ないように心掛けているが、信念や禁忌の存在をすっかり消してしまうことは難しい。
信念や禁忌の恐ろしいところは、それに反する者への侮蔑の影を落とすことだ。
自分の襟を正したいだけの想いなのに、自分のルールにそぐわない人に嫌悪感を催してしまう。

過ぎたるは、及ばざるがごとし。
急いては事を仕損じる。
これほどまでに、耳に痛いことわざはない。

今週もほどほどに、動作は丁寧に。

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