🍋🍯本編　第一部第三章　今日はどんな一日だった？（1）

ご覧いただきありがとうございます。
初めてお越しの方は、下記の記事をご一読ください。

 

---

「私は百合が嫌い。臭くて、厭らしくて、気味の悪い花」

　父が、晩年、結婚祝いの日に買ってきた百合のブーケを、受け取りもせずに、母はそう言い放った。
　近所に住む老女の話では、両親の間に愛がなかったというより、母が愛を育めるほど、精神が成熟していなかったそうだ。着せ替え人形と私の区別がついていない時点で、母の異常性は、身をもって感じていた。
　しかし、自室の中と本だけが世界だった頃の私に、自分たちが世間的にどう見えるかなんて、どうでもいいことだった。妹が使用人の一人と駆け落ちし、父が過労に倒れるまでは。

「君は、スフィリットが恋しい？　この辺は、今でも花が咲かない」
「どうだろう、私は、ずっと花に興味がなかった。銀世界という言葉を、初めて日常会話で使うようだ」
「銀世界……そうだね。私は、ここを出るまで、銀を知らなかった」

　ナイフでウサギを捌きながら、レモーノは一瞬その刃先を眺める。

「君がいれば、どこでも美しいよ」
「今はちょっと汚いね」
「ふふ、そうだね」

　レモーノは、お肉を小さく切り分けると、銀の串に刺していく。私も野営に慣れたもので、受け取った串を焚き火の周りに刺していく。

「私は、少し恋しいよ」

　ウサギの皮を処理しながら、レモーノはぽつりと呟いた。丸くなった背中は、実に寂しそうだった。

「そうなの？」
「本当にたくさんの国だった。君と出会って、色んなことをして、言葉をたくさん覚えて、私は、私になった気がする。溢れるほどに、満ち足りた。それがここに来て、全て要らなくなってしまった。ここには、雪と森しかない」

　私も病に倒れて、スフィリットに帰還した日の寂寥感を覚えている。安堵の裏に、もう二度と冒険はできないのか、レモーノの生まれ故郷を見ることは叶わないのかと、心の底を凍り付かせるような想いがあった。

「覚えている？　君が私を月のようだと例えたこと」
「いつも思っている。でも、今は、その言葉を受け取れなくて悲しかったと聞ける方が嬉しい、と話したときのことを言っている？」
「そう。私も、今、君と同じ気持ちだ。スフィリットが恋しいと言う君の言葉が聞けて、とても嬉しい」

　レモーノは、物言いたげな目を私に向けたのも束の間、弾けるような笑みを浮かべた。

「私はね、溢れるほどに、満ち足りているよ。ようやく、世界が君だけになった」

 

第三章　今日はどんな一日だった？

「美しい。これは何？」

　レモーノと昼食を食べるお店までの道を歩いていると、彼は花屋の前で足を止めた。

「ブローチ。レモーノが持っているのは、スミレの花のブローチ」
「たくさんの違うの花のブローチがある」
「色々な花のブローチ」

　この国では、四月の半ばから、花祭りが開かれる。売りに出されるブローチの花には、それぞれの意味があり、お祭りに参加したい人は、そのブローチを胸元につける習わしがある。
　端的に言えば、人と人との出会いのためのお祭りだ。ブローチの花の種類によって、どのような相手との出会いを求めているかが変わる。
　なぜこのようなお祭りがあるかというと、スフィリットは色んな言語の人々が自由に行き交う国なので、言葉の通じない人同士でも交流ができるように、言葉の代わりに花を贈る文化が醸成された。 
　レモーノが足を止めた花屋は、メルバンカの国旗も飾っていたので、メルバンカの言葉を使える人が働いているようだ。恐らく、はためく国旗を見て、レモーノも興味を引かれたのだろう。

「メルバンカの言葉での説明もあるんじゃないかな。ほら、これ」
「文字を読むは、できない……」
「あ、え？　君は、メルバンカの文字も読めない？」
「はい」

　説明の紙をよく見ると、確かに、その文字は複雑な形をしていた。現在使われているスフィリットの文字は、百種類程度しかないが、メルバンカの文字は、桁が違いそうだ。

「メルバンカの文字は、難しい形をしてるんだね」
「キミも難しいと思う？」

　自然な返しが来て、返答を忘れてしまった。

「違う？」
「ううん、あの、レモーノは、話すのが上手くなったなって……関係のないことを考えていた」
「頑張っている」 

　そう言われて、ここのところ、レモーノが僕と話したいからだと言わなくなったことに気付く。
　最初に話した頃よりも、レモーノは多くの言葉を覚え、僕自身も人と多くのことを話せるようになってきた。しかし、彼を一番近くに感じられたのは、出会った日のように思う。今は、見知らぬ他人以上の厚い壁を感じる。
　理由は、あえて聞かなくてもわかる。むしろ、どうして僕と話したいと言わなくなったのか、そんな気の触れた問いを口に出せるはずもない。

「花祭りのブローチの話を、簡単に話すね。僕も知らないことが多いから、間違えることもあるかもしれない」
「うん。聞きたい」
「四月から五月に、この国では、花祭りが開かれる。お祭りは、たくさんの人が集まって、楽しいことをする。わかる？」
「わかる。ミエルと会って、すぐ、おまつりがひらかれるした？　黄色の花のブローチ、たくさんの人」
「ああ、そうだったね。僕らが出会ってすぐ、タンポポ祭りが開かれていた。黄色の花は、タンポポ。タンポポは、この国では特別で、大切な花なんだ」
「大切の理由は、少し知る。ミエルは？　タンポポは大切と思う？」

　この辺一帯の地域は、気温の変化の幅が一年を通して狭く、雨量に季節の偏りがないため、花の種類が豊富になった。百年ほど前は、広範囲に領地を有する王国があり、現在スフィリットがある辺りは、城下街だったために、農作や牧畜は多く営まれず、教育、研究、芸術が栄えた。 他国と対立していた時代には、鍛冶鋳造も行われていたようだが、今は、硬貨と貴金属の製造所に変わった。花祭りのブローチは、その系譜だろう。
　タンポポの花は、王政が解体された際に、民主制の象徴として選ばれた。雪解けすぐの頃に咲き、太陽のような花を咲かし、綿毛のような身軽さで逞しく生きるその姿が、民衆の心を掴んだようだ。革命軍の筆頭が詩人だったことは、王政が倒れた後も、国の文化から華やかさが途絶えなかった理由の一つだろう。

「レモーノと会ってから、大切だと思うようになったよ」
「ボクと会ってから？」

　レモーノの姿を、まるでタンポポのようだと思ったのは、僕が変革の中にあったからだ。家の重圧から解放され、喪からも明けて、血の繋がらない誰かと共に暮らすことを考え始めた。混乱と焦燥の中で、それが大きな変化だと気付くのには、少し時間を要してしまったが、僕にとってレモーノは、自由と変革の象徴である。
　ただ、これを説明して、レモーノに理解してもらうのには、まだ早すぎるだろう。僕自身が、今気付いたばかりだ。

「君は、花を見るのが好きだ。空や月、星、湖を見るのが好き。僕にはそう見える。君とこうして話すようになるまで、僕は、そういう……気にしなくてもいいことに、興味がなかったんだ。”興味”は、”これは何だろう”と思うことや、知りたい、近くで見たい、どんな匂いやどんな味がすると思うこと。僕は、レモーノと出会うまで、花は、花でしかなかった。美しいとか、可愛いとか思わない。お祭りも、僕はたくさんの人がいる場所が苦手だから、何が楽しいのかわからなかった」
「ああ……きょうみがない……そうだね。ミエルは、空を読まない」

　空を読まない。不思議な表現だが、本の世界に引きこもっていた僕には、どしゃ降りの前に窓を叩く雨音のように、心に響いた。季節も、お祭りも、世の移り変わりにも、今日の天気にすら、僕は興味がなかった。
　花祭りのブローチの話も、最後にしたのは、いつのことだっただろう。そもそもしたことがあるだろうか。妹のサラは、花祭りが好きだったが、我が家では遊興に耽ることが禁じられていた。僕は、我が家の家訓通り、風情のない人間に育った。

「この国には、こんなに、色々なものが、あったんだな」
「ふふっ」
「面白い？」
「面白い。長く住むのミエルが、今、スフィリットのことを知る」 

　レモーノの独特な感性から来る話なので、少しだけ目線を投げるだけで、黙って受け流す。スフィリットの言葉で書かれた説明書きを読みながら、種類の多さに内心驚いた。

「レモーノは、そのブローチが気になるの？」
「はい。スミレの色は、ミエルの目の色と同じ」
「スミレは……ブローチの意味の話をするのは、まだ難しいな。君は、お祭りに参加したいなら、これか、これを買ってつける方がいいよ」

　説明書きを見ながら、僕は緑のクローバーと、青のネモフィラのブローチを手に取った。どうやら、花祭りのブローチは、花の種類よりも、一目でわかる色の方が大切らしい。

「これは、クローバー。お祭りに参加したいけど、ブローチの使い方を知らない人は、クローバーのブローチをつける。お祭りに参加するは、お祭りを一緒に楽しむこと」
「わかった」
「これは、ネモフィラ。仕事や勉強をする仲間を探している人は、この青い花のブローチを付ける。”青”は、覚えてる？　色の名前」
「覚えている。クローバーの色は何？」
「緑」
「探している人が違う、違う花のブローチをつける？」
「そう」
「スミレは？　ボクは、スミレのブローチがほしい。キミと会えな……いや、ごめん……」

　続きを待っても、レモーノが口を開く気配はなかった。
　説明書きによれば、スミレは、誠実を象徴する花らしく、キスやセックスをしない人生のパートナーがほしい人がつけるようだ。僕にもその先入観はあるので、表立って批判はできないが、身体的な接触を欲することは、不誠実なイメージがあるのだろうか。

「他の花は、説明が難しい。お店の人は、メルバンカの言葉を使えるから、お店の人に聞いた方がいい」
「わかった。ごめん、変なことを言った」

　謝りつつも、レモーノは、スミレのブローチを買って行くようだった。
　僕は待ちながら説明書きを読んで、百合の花が純潔を象徴し、結婚相手を探している人がつける花だと知った。花が好きで、庭園に花畑を作っていた母が、なぜ百合だけに強い拒絶反応を示したのか、今になってようやく、その一片を知れたように思う。

　そんなことより、レモーノの”ミエルと会えない”の後に続く言葉は、何だったのだろう。僕の目と同じ色の花のブローチに、レモーノが持たせた意味は、何なのだろう。良い意味だと信じたい気持ちと、何をどこまで知っているのかわからない不安で、僕の心は、風に吹かれる野花よりも、ひ弱に揺れる。
　何を考えているかわからない横顔に、僕は何も問い掛けられなかった。レモーノの指摘通りだ。僕は、この国のことを、世の中のことを、何もわかっていない。

「買い物は終わった。ありがとう」
「うん。僕は、タンポポの話で思い出したことがある。レモーノは、この国に住むの紙は書いた？　この国に長く住む人は、紙を書いて、国の仕事の人に渡す。そのときに、レモーノは、タンポポのブローチをもらう」

　レモーノが花屋から出てきて、再び歩き出す前に、僕は気になったことを話してしまう。彼はなぜか少し驚いた顔をした。

「少し大切な話だ。ミエルの家か、ジルバノのカフェに行きたい。えっと……行く場所を聞くの言葉は？」
「ミエルは、どこに行きたい？　ミエルは、ミエルの家とジルバノのカフェのどちらに行きたい？」
「キミは、どこに行きたい？　レモーノは、キミは落ち着くができるの場所がいい」
「僕は二時半に大学に行く。大学から近いから、カフェの方がいい」
「そうしよう」

　この様子だと、まだ定住は決めていないようだ。曖昧な記憶では、宿泊施設ではない住所が必要だったはずだ。野営生活では書けないだろう。

　公園のカフェに行くと、注文レジに立つ人がジルバノさんでなく、以前僕の質問に答えてくれた人に変わっていた。僕ら、特にレモーノの姿に気付くと、見るからに嬉しそうな笑顔になる。 

「レモーノさん！　こんにちは！」
「ネモフィラのブローチ……」
「えっ、レモーノさん、スフィリットの言葉を話せるようになったんですか！？」 

　胸がズキリと痛む。レモーノが、他の人と、僕の教えた言葉で話している。 

「忘れ物の方も！　そっか、お二人はお友達になったんですね！」
「コスミ。レモーノとはいえ、お客様ですよ。注文を聞いて、お店と相手の様子を見てからお話ししなさい」
「わー！　すみません！　つい嬉しくて！　ご注文をどうぞ！」 

　コーヒーを二杯、サンドイッチのアソートを注文した。幸か不幸か、僕ら以外に注文に並ぶ客はいないので、準備ができるまで、店員さんと話す空気になってしまった。

『あの、私、メルバンカの言葉を覚える、店長から』
『そうか』
『こんにちは！　おまえはコーヒーが好きか？　合ってる？』
『ああ、よく覚えている。コーヒーは好きでも嫌いでもない』 

　しかし、店員さんの方はレモーノと話したいだけのようだった。初めて話したときもそうだが、彼女はレモーノに惚れこんでいるらしい。

「やばーい！　レモーノさんとお話ししちゃった！」
「良かったですね。気が済んだら、仕事に専念してください」
「モリモリ働いちゃう！　お二人はごゆっくり！　ご注文の店長スペシャルブレンドと、サンドイッチの盛り合わせです！」
「ごめんなさいね、やかましくて。元気だけが取り柄の新人なもので」
「ちゃんと仕事もしますよ！」

　元気で明るい人だ。なんとなくレモーノの様子を窺おうとしたが、トレーを持って、とっくに席に向かってしまった。僕も慌てて、彼の後を追いかける。

「もしかして、ジルバノさんは、このカフェの店長？　“店長”は、知ってる？」
「てんちょうは、お店のお金や働く人を……考える……？」
「合ってるよ。店長は、お店のお金や働く人を管理する仕事をする」
「ジルバノは、カフェの店長。あと飲み物を作る。スフィリットとメルバンカ、他の国の言葉も話せる。カフェは夜も開いているけど、食べ物を作るの人は、昼までいる。彼女は……新しい……でもよくこのカフェにいるのを見る……」

　確かに公園の中にあるカフェだ。観光客もよく利用するだろうから、色々な言語を操れるのは強みだろう。
　僕もメルバンカの言葉を覚えようか。しかし、先程見た文字の難解さと、メルバンカの人たちの話し方の圧を考えると、どうにも萎縮してしまう。
　しかし、レモーノにとっても、レジの店員さんは、不思議な存在なのだろうか。よくカフェにいるのを見かけるが、レジに立っているのは初めて見ると言いたかったのだろうか。彼女がレモーノと話すのは、今日が初めてのような雰囲気だった。

「ボクがこの国に来る前、ジルバノは一人で働く。コーヒーの台車？　ジルバノも、ボクと似てる。ずっと外を歩く、たくさんの国に行く、コーヒーやお茶を上手に作る、飲み物を売るの人だった。公園に、喉がかわくの人は、たくさんいる。ジルバノのコーヒーを好きな人、たくさんになる。お金を集める。このカフェを作る」
「そうだったんだ」

　確かに、このカフェのコーヒーは、ずっと美味しいと思っていた。店の内装も雰囲気も、壁と屋根で公園から区切られているとは思えないほど、広々として穏やかだ。ジルバノと、彼の淹れるコーヒーのファンが作り上げた空間だという説明も、納得がいく。周りを遮断しているのかと思えるほど、少し違和感を伴う静けさに包まれているレモーノも、このカフェには溶け込んでいる。
　僕がお礼とお詫びの挨拶に来店した折にも、ジルバノは突っ込んで話を聞き出そうともせず、差し入れを素直に喜んでくれた。頼んだコーヒーに、差し入れだったダコワーズも添えて出してくれて、彼もカウンターの裏で食べているのを見た。彼にしか出せない距離感だと思った。

「レモーノがジルバノさんを知るの時間は長い？」
「うーん、お互い知るのは、ボクがこの国に来たとき。短い。でも、ボクがジルバノを知るのことの方が多いかもしれない。まだ、ジルバノに話していない、ボクの考えがある。メルバンカでボクと一緒に住んでいた家の人は、ジルバノの家族だと思う。顔と声がとても似てる。あと、その家で見た写真の人に似ている。ジルバノは、昔の話をするが、好きではない。ボクもわかる気持ち。話す必要はないと思う」 

　それでレモーノも、このカフェではくつろいでいられるのか。
　メルバンカでは、レモーノも誰かと一緒に暮らしていたようだ。ずっと放浪生活をしていたのではないのだろうか。なぜ僕の家に泊まることには抵抗するのだろう。

「レモーノも、昔の話をするのは、好きではない？」
「わからない。ミエルに話すのは、大丈夫と思う。キミは……」

 　レモーノの表情が曇る。言葉を知らないのか。それとも言うのを躊躇っているのか。
　後者だろう。レモーノは、伝えたい気持ちがあるときは、必ず言葉を聞いてくる。

「話せない？」
「いや、キミが聞きたいと思うか、忘れていた。ごめん」

　ここのところ、会話をしていると、この答えが返ってくることが増えた。僕の心情を慮ってのことだろうが、ただでさえ言葉を覚える負担を負っているレモーノに、僕への気遣いまで強いてしまっていることに、罪悪の念が湧く。

「僕は聞きたいよ、レモーノの話。君の考えていることを知りたい。そのために、僕は君に、言葉を教えているんだ」
「ミエル……」
「君も話したくないことは、話さなくていい。言葉を覚えるのは、大変だと思う。僕も、人と話すことは、大変なことだ。でも、君とは大切なことも、話せるようになりたい」

　レモーノの鋭い視線が向けられる。いつもなら逃げて、眼鏡の後ろで適当なところを見る癖を、僕は意識して抑えて、見詰め返す。

「ミエルは、難しい人だね」
「僕もそう思う」

　レモーノの視線は、コーヒーカップへと逸れたが、彼のカップは既に空だった。ちょうど隣のテーブルに人が座ってきて、どうやら花祭りで出会ったカップルらしく、二人ともピンクのガーベラのブローチをつけていた。レモーノも二人のブローチに興味を持っているようだった。

「何を考えているの？」
「話を変えようと思っている」

　僕は、失敗した。レモーノは話題を選ぶようになってしまった。大切な話があると言っていたのに。

「たくさんの人が、ピンクの花のブローチをつけている。ピンクの花の名前は？　ミエルは知る？」
「ガーベラ。ピンクのガーベラは、恋人を探している人がつける」
「こいびと……前にも聞いた。サラの話……」
「覚えてた？　そう、僕とサラは、よく恋人に間違えられた。いつも一緒にいたからね」

　花屋の店員に、他のブローチの意味を聞かなかったのだろうか。すぐに出てきたから、色々と聞くことはしなかったのか。

「いつも一緒にいる……友達や家族ではない人……ああ、口と口を……」 
「そう、口と口を重ねることは、キスをする。恋人の二人は、キスをする」
「友達はキスをしない？　家族は……父親と母親は、キスをするね？」
「多分……友達はキスしないかな……恋人が結婚すると、家族になる。男性と女性で家族になって、女性が子供を産むと、男性は父親、女性は母親になる。僕とサラは、同じ親から生まれて、僕は兄、サラは妹だ。見た目が似ていない、いつも一緒にいる、男性と女性だから、恋人みたいだと言われた」
「わかった」

　僕の動揺とは裏腹に、レモーノの返事はあっさりと終わる。

「じゃあ、僕も、ブローチの話に戻るね。この国には、たくさんの他の国の人が来る。スフィリットの言葉がわからない人は、たくさんいる。わかる？」
「わかる」
「スフィリットには、たくさんの花も咲く。花のお店もたくさんある。知ってる？」
「知ってる。スフィリットの花は、とても色々で、とてもたくさんだと思う」
「そうだね。花のお店には、スフィリットの言葉と、他の国の言葉を話せる人が働く。スフィリットの言葉を話せない、でも、スフィリットの人に気持ちを伝えたい。言葉の代わりに、花を贈る。緑のクローバーを贈ることは、“あなたに幸運が来ますように”の気持ち。ピンクのガーベラは、“あなたに恋をしています”の気持ち。青のネモフィラは、“私達の成功を願う”の気持ち。わかる？」

　レモーノは、スミレのブローチが入っているであろう紙袋に視線を移した。少し目を瞑って、何か考え事をしているようだ。口が動いているので、花や色の名前を覚えているのかもしれない。

「少しわかる。花の手紙」
「そうそう」
「スミレの色の名前は？」
「紫」
「スミレの花の手紙は？　何を伝える？」

 　こだわるな。赤の薔薇を聞かれるよりは答えやすいか。

「誠実な関係でいましょう」
「せいじつ？」
「嘘をつかないとか、相手のものを奪わないとか、自分ばかり良い思いをする行動をしないとか」

　レモーノは小さく頷いて、何かを納得したようだった。

「スミレは、ミエルの花だ。君は誠実な人だ」

　返答に困る。その褒め言葉は、レモーノが僕のことを何も知らないことがわかるだけだ。

「ボクは悪いことを言った？」
「ううん」
「違う。言った。ミエルは、美しいとか、可愛いとか、言わないでほしいだった……ごめん……誠実も、褒めるの言葉だね？」
「そう」

　僕がこう捻くれた面倒な人間だから、レモーノも自由に話せなくなってしまったのだ。

「レモーノは、悪くないよ……僕は……誠実とは……真逆の人間で……」
『俺はまた同じ過ちを……それにしても、ミエルはどうしてこう、すぐ自分を責めるんだ……』
「ごめん、レモーノは褒めてくれたのに……何と言った？」

　それでも、僕は、レモーノともっと話せるようになると決め、ネックレスに彼と同様に誓ったのだ。自己嫌悪に浸る癖は減らしていこう。

「これは何？」
「蝋燭」
「これは？　ろうそくの光？」
「それは火」

　レモーノに言われてから、僕はテーブルの上に蝋燭があることに気付いた。ゆらゆらと揺れる火を見ながら、僕は自分を落ち着かせるように胸を撫でる。周りに人がいなかったら、手を繋いでもらいたかった。

「ボクはキミの苦しみを考えていた。蝋燭は、キミの苦しみ。火をつける言葉がある。わかる？」
「わかる」
「この火がたくさんになると、ミエルはパニックになる。人と話したくない気持ちは、苦しみの蝋燭に火をつけたくない気持ち。わかる？」
「わかる。例えが上手だね。苦しみを蝋燭と火に例える」

　心の中に苦しみの蝋燭がたくさん詰まっていて、全ての火が点る光景を脳裏に描くと、ゾッと悪寒が走った。しかも、一つの火が隣に飛び移って、どんどん増えて、小さな火がくっついて、大きくなるのまで想像してしまった。一体、僕は何を考えているのだろう。逆に冷静になる。

「僕の苦しみの理由は、ほとんど全て、昔の話なんだ。君と話していて思い出す、火をつける言葉があるけど、レモーノが理由ではない」
「わかった……少し……えっと、大学の時間まで、もう少しある。公園の中を歩く。歩くと、考えが変わる」

　誠実の言葉は、僕ではなくレモーノを表すためにあるようなものだ。

「その前に、レモーノが話したいことは？　大切な話があるって言ったよね。長く住むの紙の話」

 　沈黙が続く。僕がまたレモーノの言葉に、拒否反応を示したからだろうか。

「ボクは焦った。今は、話すときではない」
「何の話だったの？　レモーノが困っているかだけでも、教えてほしい」
「ミエルは、聞きたいと思う？」
「聞きたいよ。僕に何か手伝えることがあるか、考えたい。手伝うは、助けるに似てる」
「わかった。難しいから、言葉を考える時間がほしい」

　これ以上、レモーノを焦らせないように、僕はコーヒーを飲んで待つ。サンドイッチも口に入れるが、大して味を感じることなく、飲み込んでしまった。

「この国に長く住むの紙を、書くか、書かないか。ジルバノは、昨日、ボクに聞く。今日、ミエルもボクに聞いたから、少しパニックになった。ボクがこの国に来たときは、八月。他の国に行くのか、この国に長く住むのか、決めるときは、七月」

　つまり、あと三ヶ月で、レモーノは別の国に行ってしまう。この国に住むと決めるだけの理由がなければ。

「長く住むには、住むの家と、仕事か学校がいる。どれかがない人は、少し離れた町に、家を借りて、学校に行くができる。ボクがスフィリットにいる理由は……」

　レモーノは、一番気になるところで、再び言い淀む。

「ごめん、今は、話したくない。考える時間がほしい」
「……わかった。話してくれてありがとう。何か手伝えることがあるなら、いつでも話してよ」

　僕の存在は、レモーノがスフィリットに残る決定打ではないようだ。悲しいが、僕と共に暮らしたいとは、僕自身も思えない。