🍋🍯本編　第一部第八章　ありがとう、いつも（2）

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初めてお越しの方は、下記の記事をご一読ください。

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「結婚祝いと、この家のことで、レモーノと話したいことがある。今日は、あまり疲れないように働いて、帰ってきてくれる？」
「はい。でも、次の休日ではない方がいい理由がある？　急ぐなら、働く時間も短くする」
「今日は、話すだけだから、時間は、いつも通りで大丈夫。次の休日は、他のことに使いたい。休日にしたいことの話も、今夜したいんだ」
「わかった。気を付けて働く」

　同窓のキアラが、出版社を創立したいと考えていると聞き、彼女に蔵書ごと僕の家を譲り渡す話を持ち掛けた。その会社の株式を僕も所有するので、間接的に利用権はあり、資料庫として管理してもらう予定だ。妹のサラもようやく手放す気になったかと快諾してくれた。
　残るは、レモーノだ。新居を見つけるかどうかと、どこで結婚祝いをするかである。体力があるうちに旅に出たいと思っているが、夜な夜なウェディングドレスを作っている彼を見ていると、二人だけがいられる場所があった方がいいようにも思う。

「君は、キアラのことを覚えている？」
「はい。ミエルの同じ大学の人。ボクはカフェで彼女と話したことがある」
「そう。昨日、キアラは、本を作る会社を作りたいと、僕と大学で話した。会社は、お店と似ている。大きくて、たくさんの人が働くお店」
「キアラは、本を作る会社を作りたい。ミエルもその会社で働く？　キミは本が好きだから、本を作るのは、きっと楽しいね？」
「うーん、まだ決めてない。でも、そう、仕事は面白そうだから、キアラを手伝いたいなと思う」
「わかった。とてもいいと思う」

　前に旅行をした際に、二人で働くかという提案をされたが、僕はそちらの仕事の方が魅力的だ。大きなキッチンがあるのだし、社員向けに飲食を提供するスペースにすればいいのではないだろうか。

「レモーノに話したいのは、仕事のことではなくて、この家のこと」
「キアラも住む？」
「半分、そうかな。この家を、キアラの会社の持ち物にする。わかる？」
「人が仕事をする場所にする？」
「そうそう。人が来て、本を書いたり、読めたりする場所にしたいんだ。僕らは、この家に住むのをやめて、他の家を探すか、旅に出たいなと思う。キアラの会社の持ち物になったら、僕とレモーノは、この家で仕事をしたり、湖に行ったりはできるけど、住むはできない」
「ミエルのしたいことはわかった」
「うん、でも、まだ決まった話ではない。レモーノの”いいよ”が必要」

「あと、僕は、もう少し小さい家に住んで、掃除の時間を減らしたい。掃除の時間が減ったら、レモーノと他のことができる。僕と会う前の君のように、長い旅もしてもいいかなと思う。でも、ウェディングドレスを置いておいたり、いつでも帰ることができる場所は、必要かと思う。たくさんのことを考えないといけないから、すぐに答えを言わなくていい」
「確かに。たくさんだね。少し考えさせてほしい」

「でも、この家を出ることは、ボクも”いいよ”と思う。ボクの考えることは、家を出る、結婚祝いをする、旅をするの順番？　多分、ミエルもそれを考えないといけないと言っている？」
「そう。新しい二人の家で、結婚祝いをするのもいいかなあと思った。この家は、レモーノの考える”こういう家がいいなあ”がないでしょ？」
「それもいいかもしれない。この家は、綺麗で、大きいけど……確かに、”ミエルの家”で、”ボクの家”とは思ってなかった。ミエルが休日にしたいと言ったのは、家を出る準備？　新しい家を探す？」
「うん。でも、今すぐって話ではない。レモーノに話してからだけど、キアラが仕事をするのに、この家を使ったらいいのではないかと話をしたと知らせたかった」

　レモーノが住むようになって、もうすぐ五年が経つが、自分の住まいだという感覚は薄かったようだ。生まれ育った僕ですら、違和感を覚えている。やはり二人で生活するのに心地のいい家がほしい。

「お祝いは、何回でもできるから、ドレスが完成したら、お祝いしよう。この家でも、新しい家でも、お祝いをするといいと思う。でも、一度にたくさんのことをすると、全部ダメになることがある。今、ボクの一番大切なことは、ミエルと一緒にいるお祝いをすること。他の人が来るの前に、お祝いがしたい」
「確かに。僕は家を出たい、自由になりたいという気持ちが強かった。でも、レモーノが一緒にいてくれるから、僕も色々なことができるんだと思えるようになった。そのことのお祝いは、とても大切だ。一番先にしよう」

「ドレスは、今度の感謝祭には完成すると思う。少し、ジルバノにお願いして、仕事の時間を減らす」
「いいの？」
「大丈夫。料理の仕事は、ボクでなくてもできるし、カフェでは誰もたくさん食べない」

「結婚のお祝いで、一つ、お願いしたいことがあった」
「何？」
「二人で、写真を撮りたい。でも、人に頼まないと、写真は撮れない」
「ああ、えっと、僕らがドレスを着ている写真がいい？」
「……ミエルが嫌なら、違う服でもいい。ボクも、二人の写真がほしいだけだから」

「せっかくレモーノが作ってくれてるんだ。ドレスを着て、写真を撮ろう。でも、カメラを使える人を僕は知らない。信用できる人もいない」
「写真を撮る仕事の人を、ボクは知る。結婚式の仕事の仲間で、仕事でよく会う。仕事のルールをよく守る人。とても綺麗な写真を撮る。でも、キミもその人に一度会って、話してから、写真を撮ってもいいか、考えてほしい」

　レモーノが仕事ぶりを尊敬するような相手だったら、一度会って話せば、大丈夫だろう。僕も記念の写真は撮りたい。

　家を出て、身分を捨てて、過去と決別しよう。

　まるで、僕のその決断を試すように、その出来事は起きた。

　新しい家を探しに行く前に、僕はどの本を持って行きたいか、本棚一つ分ほどに選ぶことにした。何度も読んでいるものは、十冊程度なので、どちらかと言うと、この家に残しておく本を考えることにした。
　キアラは、女性向けの新聞と雑誌を刊行すると話していたように思うが、歴史や帝王学、哲学といった難読な本か、冒険譚や図鑑といった子供向けの本しかない。女性は、何を好むものなのだろう。
　昔、読書を好む女性が、一人だけ付き合いがあった。そのことを思い出すと、血の気が引いてくる。”噂をすれば影”とは、口に出さずとも起こるようで、そのとき手にしていた本から、一枚の写真が落ちてきた。

「う……あ……いやだ……」

　僕は足の上に落ちてきた写真を払うように足を引いて、持っていた本で覆い隠してしまう。無意味にウロウロと歩き回った後、水でも飲んで落ち着こうと、部屋を出る。キッチンに向かおうとするが、足が竦んでしまう。
　ふらつく意識だけでも止められないかと、ソファーのある部屋に向かうと、ちょうどレモーノが窓を拭いているところだった。

「レモーノ、あのさ、それ終わったら、話せる？」 

　声をかけると、レモーノはハッとした表情で振り返る。ちょっと待ってという声はかろうじて聞こえたが、何やら慌ただしく脚立から降りてきて、キッチンの方へと行ってしまった。顔と手を洗う彼を、僕はこわごわキッチンの外から眺める。

「お、終わってからで、いいけど」
「ミエルの話より大切ではない」 

　僕の話も、そんなに真面目に受け取られる必要があるものだろうか。家事よりも、大事だろうか。邪魔しないで、後にして、そう告げる母の冷たい声が蘇る。 

「ミエル、大丈夫？」
「う……あの……今から言うこと、僕に、してほしい」
「ボクに何をしてほしい？」 

　シャツを握り締める。もう、キッチンに母はいない。あの人もいない。この家にいるのは、僕とレモーノだけ。僕の、自由だ。

「愛してるって言って、僕にキスをして、僕をベッドに連れてって」

　レモーノは僕の顔を覗き込んだ後、ふれてもいいかと尋ねた。小さく頷くと、そっと右手を取られる。彼の手も冷え切って、小さく震えていた。

「……今すぐは、できないよ」
「いいからやって！」
「できない。今はやりたくない」

  

「でも、その代わり、キミを抱きしめていい？　ハグしよう。先に落ち着いてほしい。確かめたいことがある」

　というより、僕が抱きついているようなものだった。

「ボクの話を、先にしていい？　ミエルのお願いを確認したい」
「いいよ」
「キミは、今、とても怖いと思っているのに、ボクに“あいしてる”と言ってほしいと言う。キミは“あいしてる”を言われると、苦しいことがある。ボクはキミが苦しいことは、したくない。ボクがさっきのお願いを叶えて、キミは喜んでくれる？」
「……ごめん」
「ごめんではない。はいか、いいえか、わからないで答えてほしい」
「わからない」
「わかった。じゃあ、今、何を怖いと思ってるか。それから、教えてほしい」 

　少し落ち着いたところで、レモーノは体を離して、僕に問いかける。

「怖いんだ、レモーノ、僕は、人に好きだ、愛してると言われるのが、怖い」
「そうだね、覚えている」
「でも、君に、愛してるって言ってほしい。レモーノの、愛してるが、聞きたい」
「うーん……ミエルの難しい話だ……なぜそう言うのか、ボクはわからない……キミの気持ちを考えているから、ちょっと待って……」

 

「もう少しだけ、ここでミエルの話を聞いてもいい？」
「うん……」
「お昼を食べてから、今までの時間に、何か、嫌なことがあった？　お昼を食べたときと、今のキミは、顔がとても違う」

「……あった」
「それは、今も危ないこと？」
「危なくは、ない。昔の、こと。今は、今は、僕の嫌だって気持ちだけが、ある」
「そう。そのことと、“あいしてる”の言葉は、関係がある？」
「……ある」

「そしたら、それは、とても大切な話だ。ゆっくり聞きたい。ミエルは？　ボクから“あいしてる”と言われるのと、嫌な気持ちをボクに話すの、どっちを先にしたい？」 

　落ちた涙が、足の甲まで滲みてくる。

「嫌な気持ちを、話すの。レモーノに、話したい」
「うん、ボクも。先にミエルの話が聞きたい。嫌な気持ちを減らすことをしよう。その後で、ミエルのお願いを、もう一度聞く。それでいい？」
「それがいい」

 

「でも、君は、いいの？」
「何が？」
「掃除、途中で……」
「掃除は大丈夫。夜の星を見る時間、そろそろ寒いから、窓を閉めた方がいいと思った。窓を閉めても、星が見えるように、掃除をしていた。もっと後でもいいこと」

 

「キミは何か飲みたい？　ボクは少し寒いから、あたたかいものを飲もうと思う」
「レモネードがいい。温かいレモネード、はちみつ、いっぱい入れて」
「わかった。じゃあ、今、ミエルはお湯を用意してくれる？　ボクはレモンを搾るから」

 

「大丈夫だよ、ミエル。ボクはキミの傍にいる。時間はかかるけど、話も聞ける。大切な話は、ゆっくり聞きたいから、リビングでレモネードを飲みながら話そう」 

　レモーノは一度強く抱きしめた後、片手は僕の手を取った。冷たくなっている、と優しく囁く声に、抱き付く代わりに手を握り締める。

「僕は、お湯をわかす。レモーノは、レモンを搾る」
「うん、二人で、あたたかいレモネードを作る」 

　やかんを火にかけた後、僕は暫くレモーノの背に顔をうずめていたが、彼は邪険にすることなく、レモネードの用意を終えた。

「できたよ、ミエル」
「はちみつたくさん入れてくれた？」
「カップの半分は入れた」
「さすがに嘘でしょ」
「ふふ、わかった？　半分の半分」　

 

「すぐに話せる？　ボクから話す？」
「突然、変なことを言って、ごめんね……先に、レモーノが話して……飲んで落ち着く……」
「それがいい。ちょっと驚いた。でも、ボクは大丈夫。えっと、嫌な気持ちの話は、後にしよう。言葉の確認がしたい。ミエルは、ボクらの会話で、“あいしてる”の言葉を使えるようになりたい？」

 

「わからない……ただ、レモーノの声で、“愛してる”の言葉が、聞きたかった……」

 

「ボクの声？　その言葉を言うことはできる。でも、ミエルはさっき、“あいしてる”と言ってから、キスをして、ベッドに連れて行って、と言ったね？　キスをする前に言う？」
「うん……たぶん……」
「うーん、違うのかな……キミは眠い？　掃除と嫌な気持ちは疲れる。眠るまで傍にいてほしいの気持ちだった？」 

　”愛してる”と”おやすみ”が、レモーノの中では同義なのがわかる。自分が彼に向けている感情との違いが、唇も体も重ねた関係になった今もなお、天と地ほどの差があるように思えて、体中に痛みが走る。
　僕もレモーノのように、純真無垢な愛を抱けたらよかったのに。

「……僕は、君と、セックスしたかったんだよ……」

　どうしてこの声だけは聞き分けてくれないのか。 

「そっか……それは、全然わからなかった。さっきは突然のことで、ミエルも怯えてて……キミのお願いを叶えるのは、怖いの理由を知ってからの方がいいと思った。キスもセックスも、したくないの意味ではない……でも、今はしたいの意味でも……」
「うん、大丈夫、君の言いたいことはわかってる。僕も、断ってほしくて、言った」 

　レモーノの眉間に深い皺が寄る。唇を内に巻いたので、僕の言葉が本心でないことを察している。

「断ってほしい？　本当に？」
「容赦ないね。半分だけ」 

 

「混乱、するよね。僕は、掃除をしていて、昔あった嫌なことを思い出して、パニックになった。君とセックスして、その記憶を消してしまいたかったんだ」
「そ、いうこと……か……ごめん……待って……」 

　レモーノはマグカップを手に取り、暖を取っているようだった。水面が揺らめいていて、彼が震えているのがわかる。大丈夫かと問うと、すぐに返事はなかった。
　それはそうだ。レモーノの生まれた国では、相手の嫌がることをし続ければ、逆さ吊りの重罪だ。涙も凍る地で、汚水をかけられたまま野晒しにされる。死に等しいのだろう。 

「今まで、黙ってて、ごめん。レモーノに、散々、他の人のことを好きになるなと言ったのに、僕には、その、恋人になるのを強いられた経験があるんだ」

　詳細がわからない方が、レモーノも苦しいだろうと、僕は話を続けた。

「恋人になるのをしいられた？」
「僕は嫌だけど、断ることができなくて、誰かの恋人になったことがある」
「……えっと、キミは、嫌な人の恋人になった？」 

　確かに、キスをするのは嫌だった。ベタベタとさわられるのも、恋人になったかのように話されるのも。三回目のキスで、本を間に挟んで思いきり叫んでなかったら、僕はその先も強要されただろうか。

「嫌だったかは、わからない。友達としては、本の話ができて、楽しかった。さっき、古い本を片付けてるときに、その人の、写真が、っ……う……うあ……」

　全身に虫が這い回るような感触に、僕は思わず金切り声を上げた。目の前が真っ暗になって、ぷつんと何かが切れた。