🍋🍯本編　第一部第三章　今日はどんな一日だった？（3）

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「ミエルは、夏のお祭りを知っている？」 

　レッスンに一息入れていると、レモーノから夏祭りの話を持ち掛けられる。

「夏のお祭り？　ああ、花火大会のことかな……ごめん、僕は興味がなかった。ほとんどわからない」
「わかった。ボクがこの国に来たとき、夏のお祭りは終わったと聞いた。ボクの仕事の仲間は、夏のお祭りはとても楽しいと、ボクに話す」
「そうだったんだ。確かに、スフィリットのお祭りは、他の国の人も来たいと思うくらい、楽しいみたいだね」
「仕事の仲間に、ボクもお祭りに一緒に行くかと聞かれた。ボクは、ミエルと一緒に行きたいと思う。でも、ミエルは、夏のお祭りが嫌い？　怖いの顔をしたね？」 

　なぜこの前髪と眼鏡をかけている状態で、レモーノは僕の表情の機微を読み取れるのだろう。

「そうだね。レモーノの言う通り、僕は夏のお祭りが苦手だ。夏のお祭りは、夜に開かれる。僕は、夜に家の外にいることは、怖いと思っていた。夏のお祭りで、打ち上げられる花火は、大きな音も出る」
「ミエルは、暗いと大きな音が怖い。それは、行きたくない」
「あの、でも、僕も行ってみたい気持ちは、あるんだ。怖かったのは、子供の頃の話だ。多分、レモーノが一緒にいるなら、僕も大丈夫だと思う」 

　レモーノは、腕を組んで考え事を始める。何を考えているのかと気は急くが、答えを焦らせるのは悪いので、景色に目を逸らして待つ。
　よくレモーノについてくる黒猫が、暑そうにしていたので、ソーサーに水を注いで、目の前に置いた。勢いよく舐めるせいで、跳ねた水が黒い毛の上に玉を作っているのを眺める。

「夏は、夜だけど、少し明るい時間があるね？」
「そうだね。少し明るい時間は、夕方」 

　レモーノの声がしたので、視線を彼の方に戻す。黒猫に与えた分だけ、僕の水は減っていたはずだが、いつの間にか注ぎ足されていた。

「夕方に、お祭りに行って、ミエルは大丈夫と思うか考える。ミエルはお祭りを怖い、帰りたいと思うなら、ボクはミエルと一緒に、ミエルの家に行く。どう思う？」
「それがいいな。夕方にお祭りに行こう。行ってみてから、大丈夫か判断したい。あと、そうだね、もし無理だと思ったら、一緒に帰ってほしい」 

　レモーノは口角を上げて、嬉しそうに頷いた。
　もう少しだけ、多くを求めてもいいだろうか。口に溜まった唾液を飲み込むと、僕はテーブルの下で強く手を握り締めた。

「あと、花火は、僕の家のバルコニーからも、見ることができる。その、レモーノが良かったら、僕の家で、花火は一緒に見よう。どう、思う？」
「ボクは、キミと一緒にいたい。はなびは何？」
「ふふ、秘密。見てから知った方がいい」
「わかった」

　提案が伝わったか怪しいが、一緒にいたいとは言っていたので、きっと付き合ってくれるだろう。

「楽しみだな。いつからだったか、知ってる？」
「いつからだったか？」
「ああ、ごめん、短すぎた。夏のお祭りが始まる日を、僕は知らない。“いつ”は、時間を聞く言葉。”から”は、今日から始まる、夜から始まるのように使う。夏のお祭りがいつから始まるか、レモーノは知ってる？」
「三本の指のわかった。ボクも、いつから始まるか、知らない。帰るときに、ジルバノに聞こう」
「それがいい」 

　ようやく、レモーノと明るい話ができるようになってきた。どうして僕は、最初にあれほど取り乱して、重苦しい個人的な話から彼にしてしまったのだろう。

「あのさ、レモーノ、話を変えてもいい？」
「はい」
「いつも、僕の話を聞いてくれて、ありがとう。えっと、初めて会ったときから、僕は、パニックを起こすし、悲しい話や苦しい話が多いし、君は僕と一緒にいて楽しいのかなって思うけど、レモーノは、今も、僕と会って、話してくれているから、嬉しいなと思った」 

　約束があるからだとわかっていても、やはりこうして一緒にいる時間があるのは、レモーノの気遣いと忍耐があってこそだ。
　しかし、僕の話を聞いたレモーノの表情は、何かを考え込んでいるようだった。僕は変なことを言っただろうか。

「ミエルの気持ちを聞いてもいい？」
「いいよ」
「ボクといるときに、パニックになったことを、キミはとても気にしている？　答えたくないなら、答えたくないと言ってほしい」 

　それは誰だって気にするだろう。あのような醜態を、僕も人に見せたくて見せているわけではない。

「はい。気にしている」
「苦しい？　パニックになるミエルを、キミはダメだと思う？」
「……思う。レモーノに迷惑をかけていると思うと、苦しい」
「めいわく？」
「僕がしたことで、レモーノが苦しいや嫌だ、悲しいと思うこと」 

　レモーノの眉間の皺が深くなる。迷惑には感じていないと言いたいのだろうが、そう言ったところで、僕が信じないことも学習しているようだ。彼は腕を組んで、うーんと小さく唸った。
　なぜそんな質問をしてくるのか。僕はただ、感謝の気持ちを伝えたかっただけだ。問い返そうとするも、レモーノは、まだ何かを悩んでいるようだったので、黙って待つことにした。

「わかった。ボクは、ミエルがたくさんの気持ちを感じるができることを知っている。ミエルは、たくさんの気持ちを感じることが、良いことだとも思っていない。合ってる？」
「合ってる」 
「ボクのわからないの気持ちを話したい。ミエルと話すことは、ボクがしたくてしていることだ。でも、キミは、どこかで、ボクといることや、ボクと話すことに、苦しいを感じている。人が怖いから？　ボクが嫌なことをしているから？　ボクはたくさん考えた。でも、キミが話さないとわからないことだ」
「そうだったんだ。でも、レモーノは悪くないよ」

　相槌を打っただけで、特に何に答えたわけでもないのに、レモーノは目に少し力を込めて、僕の方を見る。

「それだ。その言葉だ。”レモーノは、悪くないよ。”その言葉の本当の意味は、“ミエルは、悪い”だ」

　レモーノが納得の表情を見せる一方で、痛いところを突かれた僕は、狼狽えてしまう。

「でも、キミは悪い人ではない。悪いことをしていない。怖いと感じて、逃げることは、悪いことではない。焦ったり、困ったり、間違えたりは、ボクもすることだ。それを悪い、ダメと言って、キミはどう思う？」

　自分のふるまいを律せないことは、悪い、恥ずかしいと、どうしても僕は思ってしまうが、制御が効かないことや、もう起きてしまったことを、いつまでも責めているのは、レモーノも、僕も、息苦しい。

「厳しい話をした。少し、例え話をする。ボクはミエルを怒りたいではない。ミエルを悪い、と思う必要はないと話したい」
「うん、わかったよ」

　僕は気分を落ち着かせるために、マドラーで炭酸水の中のレモンをつつく。八つ当たりだ。

「たとえば、レモンが、人の気持ちだとする」

　レモーノは、僕のその挙動を見てか、レモンを引用してきた。

「レモンは、一個や二個なら、自分の手だけで持てる。でも、両手にレモンを持っているときに、もう一つのレモンを持つことは、できない。難しいと思う。キミもそう思う？」
「そうだね、難しい」
「ボクは、二個のレモンを持つことができて、三個のレモンを持つことはできない。レモンは、目に見えるから、持つことができる数がわかる。手に持っている数もわかる」 

　レモーノはレモンを両手に持っているかのジェスチャーをしてみせる。その後、何か大きくて、持ちづらいものを抱えているような素振りをした。話の流れからして、たくさんの気持ちのことだろう。

「でも、気持ちは、心の中に何個あるか、どういう大きさか、心は何個の気持ちを持つことができるのか、わからないと思う。わかる？」
「レモーノの話したいことは、わかる。心が持つことができる気持ちの数は、わからない。レモンのように数えられない」
「そう」

　言いたいことはわかる。だが、レモーノの言うように、持ちきれないほどのたくさんの気持ちを抱えているだろうか。世界が色や香りを、食事が味や満腹感を取り戻したのも、彼と出会ってからのことで、そんなに感性が豊かには思えない。 

「ボクは、ミエルのように、嬉しいのに悲しいや、楽しいのに苦しいや、怖いときに怖いではないを思うことができない。キミが苦しいと思うのも、それが理由かと思う。ミエルの本当の気持ちの他に、それを感じるのをダメとか、他の人はこう思うとか、こう感じないといけないとか、色々な気持ちがある。えっと、わかる？」
「わかるよ」

　そうは返すものの、自分の感情と理性をレモーノの言うように考えたことはなかった。確かに、人への恐怖が常に在って、その上に行儀作法が乗っかり、さらに偶発的な感情まで処理するのは、三個目のレモンを持とうとすることと同じだ。

 「悲しい話や苦しい話も、ボクは聞きたいと思って聞いている。楽しい話や嬉しい話だけが、ミエルの思い出にあるわけではない。楽しい時間にしたいと、苦しいにならなくていい。悲しいなら悲しい、怖いなら怖い、苦しいなら苦しいと、ボクは言ってほしい」

　レモーノは哀しげな表情をしていた。僕から悲しみや苦痛を打ち明けられて、彼に何の得があるだろう。僕は楽しい話や嬉しい話がしたい。

「いつも、何を言ってもいいと言っているけど、本当は、ミエルの本当の気持ちが、ボクは知りたい」
「わかった。僕には、自分のことを話すのは、とても難しいことだけど、レモーノが本当のことを言ってほしいと思っていることは、覚えておく」
「それがいい。無理はしないでほしい。キミの心に、ミエルのルールがある、ボクは知っている。でも、楽しい話ができなくてごめん、苦しい話ばかりでごめんと思わないでほしい。ごめんの気持ちが増えても、ボクは嬉しくない」
「うん……それは、僕も、嬉しくないけどさ……でも、君にありがとうって、言いたいんだよ……」
「……今の話は、ボクの、したいの気持ち……やめてほしいの気持ちだ。ミエルの、ごめんの気持ちで、ありがとうの言葉を言うこと」
「ごめんの気持ちでは……」
「本当に？」
「ごめんの気持ちもあるけど、ありがとうの気持ちもある。それは本当」
「うーん、ボクが間違えた。ごめんの気持ちの方ではないかもしれない。ミエルを悪いやダメと思うこと。ボクの大切な人を悪い、ダメだと言う人の、ありがとうは、嬉しくない。ボクは、良いミエルだけと話したいではない。キミが悪いと思うミエルも、ボクの大切な人だ」

　レモーノの真意が、わかりそうでわからない。想いを飲み込めずに、喉に詰まっている感覚がする。とげとげの銀細工のようで、美しく清らかだが、受け取れない。
　理解を示すような言葉を並べていても、本心にあるのは、誰しも本人の信じる正義だ。でも、良い顔をしようとするなと、直接言ってきたのは、レモーノが初めてだ。

「ごめん、強く言い過ぎた」
「大丈夫、僕もすぐには受け取れないけど……話したいことを話してほしい」

　僕の本当の気持ちを言ったって、レモーノには、まず伝わらない。僕らがただの友達でいられたら、もう少しシンプルな関係だったはずだ。その関係になれない理由は、僕の側にあった。
　それで、僕の立場は、言葉を教える仕事をする人に変えてもらった。先生や家庭教師と生徒の関係にしては、今度はレモーノの距離感が近いように思う。
　そこまで考えて、レモーノが僕に伝えたかったことが見えてきた気がした。僕は自分の心を整理できず、過去と今がごちゃごちゃに混ざり合っている。彼との出会いで、さらに混乱が起きていて、今、本当に感じているものが見えなくなっているのかもしれない。

　レモーノと別れ、家に帰ってから、キッチンでなんとなくレモンの実を手に取る。レモンはずっしりと重く、舌に酸味を感じるほどの独特な匂いがする。

「レモンは持てる数がわかる、か」

　感情の山に埋もれた自分の姿を思い描く。腐って、どろどろになって、一個一個の輪郭もない。想像するだに悪臭を放ちそうだったが、手の内にあるレモンの香りは、その山の中でも消えることはなかった。
　眩しいほどに黄色く、香り立つその存在を、記憶に深く深く刻むように、僕は何度もその実を撫でた。