信じるってなぁに

私のnote更新を待ち望んでいる女友達から、「信じることについて書いてみてくれ」とLINEが来ました。私もよく考えていることのひとつではありますが、なかなか着地点が見つからなくていつも途中で考えるのをやめてしまう。いい機会をもらったので、やや重い腰をあげて書いてみようと思います。さて、「信じる」って、なんなんでしょうか。

これは今の私の考え。例えば、大切な家族だったり友達が全く突拍子もないこと、極端な話、犯罪とか倫理的によくないこととかをしてしまったとして、それを知ったときに「私が見えていなかっただけで、この人にはこういう一面もあったんだな」と認識して、そこに至るまでの経緯とか思考とかを、まずは受け止めることができる。ここで、「そんなはずない」「何かの間違いだ」と事実を否定したり、「決してあなたは悪くない」と問答無用に擁護したりすることはしないで、ときにはよりよい方向に向かって一緒になって考えたり話し合ったりすることができる。時間のかかるプロセスだけど、それを惜しまずに向き合えるということ、つまり、心をすり減らしてまでも相手と向き合おうとする気持ちのこと、だと思ってます。だから、よくあるけど、信じてたのに裏切られた、という旨の話を聞いたり目にしたりするたびに、しっくり来ないっつーか、よく分からない。だって信じる選択をしたのは、あなた自身では?と思う。いままで気付かなかっただけで、その相手は元々そういう人間なのだから、相手を責めるのは筋違いではないでしょうか、と思うのです。まあもちろん、責めたくなる気持ちも分かるしそうしていないと自分が持たないってのも、とても分かる。でも少なくとも頭では理解していたいよな、というのも同時に思います。

こうやって考えていると、確かに「信じる」選択をとって実行するのは自分だけど、そういうふうに思える相手が周りに存在してるっていうのはとんでもなく素晴らしいことで、ありがたいことだなと。ただ、素晴らしいことではあるけど、信じられないとか疑ってしまうことが「悪いこと」というわけでは全然ないよね、というのも忘れないでいたい。家族だから信じ合わなきゃいけない決まり、とか無いし。関係性に名前がついてしまうと「こうあるべきだ」と囚われてしまいがちですけど、そんなことより一人ひとりの距離感とか温度感を大切にしたいって思う。

それでいうと、たまに目撃する「恋愛関係になった途端に〈絶対に信じ合うべき存在〉になるノリ」って違和感しかないしケッコーきもいよねって話をこの前友だちとして盛り上がっちゃったんですけど、あの感じ、例えるなら顔見知りくらいのおばさんに突然「私は今日からあなたのお母さんです。お母さんだから、あなたを守るわ!」と言われているような気持ち悪さを感じるんですよね。ただ、今日からあなたのお母さんよの場合はさすがに一方的な話すぎるので、待て待て、と冷静になれると思うんだけど、恋愛とかだとさっき書いてたような全部のプロセスが、そのあまりにも短絡的でいい加減な理論によってすっ飛ばされてることにお互いが気づかないまま「恋人なんだから、信じて」「OK」となるパターンが割と普通にあると思ってて、それが怖い。私には一切関係ないのに、そういうの見ると、怖くてなぜかレイムな気持ちになっちゃう。ただこんなふうに外野から見ているときには嫌悪を抱いていても、自分がその当事者になってしまい得るというのが、恋愛のさらに怖いところなんですけどね。haha

少し脱線しましたが、やっぱり信じるって、一朝一夕で簡単にできることじゃないと思うんです。時間もかかるし、体力がいること。簡単に信じるなって言いたいわけじゃ無いけど、急ぐことじゃない。そんでもって、いつか相手に対して、心をすり減らしてまでも向き合おうとする気持ちが芽生えたなら、そんな相手と自分を大切に過ごしていきたいよね〜って思う。所詮は他人同士、お互いのことなど分からなくて当然ですから、そのくらいの意気込みでいたいものです。正直、人付き合いってめんどくさいなと思うことなんて、腐るほどある。だけど、みんなそれを知っていてわざわざ人と関わるんですよ。それはやっぱりね、めんどくさい以上に、素晴らしいことがありすぎるからだと私は思う。何もかも投げ出して山でひとり暮らしたい日だってありますけど、今までも、どうせこれからも人里に居続けるのは、その素晴らしさを知ってしまっているからで、結局人はみんな、諦めが悪い生き物なんだろうな、なんてボーッと考えたりしてる2023年夏です。ぷにょ


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