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[小説] おだやな暮らしを求めて

【ストーリー概要】
憧れていていた編集者のもとで働くべく、東京から田舎町へ移住した鹿子。しかし、そのカリスマ編集者の紹介で半ば強制的に行かされたスピリチュアル系リトリートはまるで詐欺。のちにクビに追い込まれるも、そうした元スタッフ達が何百人とのぼりこの町が出来ていることが判明。それでもこの町の者は、この著名な編集者を持ち上げるばかり。40歳を目前に、田舎で職なし村八分、ひとり暮らしを続ける鹿子は、どのようにしてこの地獄から立ち上がるのか。スピリチュアル洗脳が溶けていくさまを描いた、ほんとうにあった物語。

【登場人物】
鹿子…主人公 39歳の独身女性
芙美恵…ていねいな暮らしをお届けする有名編集者、つるばら舎経営者。
一帆…芙美恵さんの右腕的存在
はな…つるばら舎の同僚でスピリチュアルジプシー
ハッちゃん…喫茶店のマスター
スニフさん…ヤギとふたり暮らし
仁美さん…オーガニックスーパーの同僚、芙美恵さんのファン。


第一章 王女

 鹿子は、だめになってしまわないように喫茶店に入る。つい、「なんでこの町にやってきてしまったんだろう」などと思ってしまうと、泣き出しそうになるから、モーニングに出てきたあずき食パンを喉に押し込み「うん」と飲み込む。 
 つるばら舎で一緒に働いていた、はなさんと連絡が取れなくなった。この町を出ていった、と噂話を聞く。あるいは、あれから一歩も家から出ていないのか。

 鹿子は、喫茶ハッちゃんの赤いシートに座っている。喫茶店のマスター、ハッちゃんは、町のさまざまな最新情報を知っている。倉庫を改装した店内、地元の木でつくられた、つやつやのキッチンカウンターが、ハッちゃんの自慢だ。
 鹿子は木の目と目が合い考えこむ。
 なんで、この町にやってきてしまったんだろう。いや、そんな風な無責任な考えは、捨てなければいけない。私が選んで、この町に来たのだ。でも、どうして。原因さぐりばかりしてるから、私はだめなのか。そう思うのに、思ってはいけないって何なのだろうか。私は。誰にそう思わされているのだろう。私が大丈夫って思える場所ってどこにあるんだろう。

あこがれ

 昨年の冬まで、鹿子は東京のオーガニックスーパーで働いていた。40歳を目前に、この先どうなっていくんだろうと不安に思っていた。
 3年前には、離婚も経験した。ある日家に帰ると、家事道具がすっかりなくなっていた。のちに彼は、
「お皿を洗う用のスポンジと、シンクを洗う用を一緒にしていたんだ」とか「毎日あたらしいバスタオルを使わなせてもらえないんだ」と、共通の友人に話していたらしい。
「そんなの、話し合えば済む話じゃない」と、鹿子はひとりごちた。
「ベルリンだと、洗った皿を水ですすがないのに」

 鹿子はエコでエシカルなていねいな暮らしにあこがれた。離婚して間もない頃、オーガニックスーパーで同僚の仁美さんから、一冊の本を手渡された。
「鹿子さん、好きかもと思って」
ぴんときた、と仁美さんは微笑んだ。

 本の著者は、市村芙美恵、有名な編集者だった。東京から島根の田舎へ移住し、つるばら舎というちいさな出版社を立ち上げたと、雑誌で読んだことがあった。本ではハーブを使った暮らしの知恵や、女性が楽に生きるノウハウを紹介していた。
「これからは、からだとこころを解放することが大切です」と芙美恵さんは語った。

 カバーの袖に掲載されたプロフィール写真は、天真爛漫で、快活で、やさしそう。農作業着のもんぺにねんねこ半纏という姿でも、どこか都会的な雰囲気を漂わせていた。田舎生活をしながら、会社を運営する芙美恵さんは、世の中にとって「何か正しいこと」をしているように、鹿子には思えた。

「風の時代を生きる女性たちへ
周囲のことよりもまず自分のことを大切にしてください。それからではないと、他人に愛を与えることはできません」
本の巻末に、そう書かれていた。
 鹿子は「この人は、本当のことを言っている」と思った。光みたいな人だ、と。それからと言うもの、鹿子は芙美恵さんの本を読み漁った。仁美さんと一緒に、オーガニックスーパーの上司に、芙美恵の本を置いてもらうよう説得もした。

 そんなある日、鹿子はインスタグラムで、芙美恵さんの求人を見つけた。
「私の弟子を募集します。私たちのつくる本が大好きで、感性を磨きたい方。島根の山奥で暮らせる方。私たちの取り組みを学びたい方。お手伝いしていただく業務内容は、編集アシスタント、デザイン、田んぼや畑、犬の散歩も、大切なお仕事です。私たちと一緒に成長していきたいという方、ふるって応募ください。年齢、経験は不問です。運転ができること。いままでの略歴を、顔写真付きでメールください」 

 面接で、芙美恵さんは
「うちはエクセルのスキルがあるとかはどうでもいいんだけど、鹿子さんは何か得意なことはありますか?」と訊ねた。鹿子は、
「スープをつくることです。あと動物と子どもには、好かれる自信があります」と、一見的外れに思える回答をした。秘かに書き綴っていた詩やイラストも見せた。離婚した経験についても語った。
芙美恵さんは、
「たとえ今、人生がどん底だって思っても、意味のない経験なんて、ありません。絶対に、這い上がれます」と言い、ニカッと笑った。

 そして「合格です!ぜひ、うちにきてください」と芙美恵さんは言った。
 なぜか、私は、受かった。あこがれの芙美恵さんの元で、つるばら舎で働けるのだ。
 鹿子は、同僚の仁美さんにも真っ先に伝えた。
「私ね、私ね、受かったの!」
「すごい、すごい! やっぱり鹿子さんは才能があるんだよ」
同僚の仁美さんも喜んでくれた。

 鹿子は高揚しながら、島根の山奥にある澪の町に引っ越しをした。正式には「みおのちょう」だが、町の中の人は「みおのまち」と呼んだ。
 澪の町には大きな石の神様がいて、角度によってはジョンレノンに似ているようにも見えた。鹿子は挨拶をして、澪の町での生活をスタートさせた。

 つるばら舎には、既に芙美恵さんの右腕的存在の一帆さんと、はなさんの2名のスタッフがいた。ふたりとも、30代後半の同年代の女性だ。
 まず初日に、芙美恵さんは訊いた。
「鹿子さんは、ここでどんなお仕事をしていきたいですか?」
「編集のお仕事を学びたいです」
社内に「ふふふっ」という小さな笑いが起こった。  
 鹿子は「元スーパーの店員さんが、そんなこと本気で出来ると思っているの?」と言われたようで、顔を真っ赤にした。芙美恵さんも言った。
「編集の仕事をなめないでくれるかな」
「いえ、私、芙美恵さんの元でなら、何でもやりたいです」

 つるばら舎では、昼食を皆で用意してテーブルを囲んで食べる。ひとまず鹿子は、毎日の昼食のスープ係となった。あとは、芙美恵さんの飼っている犬の散歩と、ハーブ畑の世話、そして発送だ。つるばら舎では、芙美恵さんの本で取り上げた商品などを販売する、ネットショップも運営していた。

 商品を梱包をしながら、3人はおしゃべりに興じた。鹿子は月並みに、訊いてみた。
「みなさん、彼氏とかいるんですか?」
「私は、うん。まあ、かっこよくないですけど」と、照れ臭そうに一帆さん。
「今日、7時に迎えに来てくれるんですよね」
はながバラした。
「じゃあ、今日見られるんだ」
一帆さんは「見せもんちゃいますー」と、関西弁で返した。
そして「イントネーションちがうから!」と、はなさんの関西弁講座がはじまる。私たちは、サンタのおもちゃ工場の小人たちのようでもあった。

 その夜、芙美恵さんが「今から皆でご飯に行くよ!」と皆を呼んだ。鹿子が、一帆さんの方を見る。一帆さんは「じゃ、車出してきます」と言って、そそくさと部屋を出た。
 はなさんがこっそり、
「ここではそんな風でないと、やっていけないよ」
と、耳打ちをしてくれる。たとえ恋人との約束があっても、つるばら舎のお仕事が第一優先。それが重要な会議などではなくても、だ。

 はなさんは、芙美恵さんの熱狂的なファンだった。ボランティアとして、WEBサイトの更新やチラシの作成を「経験になるから」と請負った。世間から「それって実質、タダ働きさせられているだけじゃね?」と、言われてしまいそうなこと、ハーブ畑のお世話や、田んぼの田植えから収穫までも率先して行った。今では、芙美恵さんから『畑リーダー』の称号を貰い、休日返上でありとあらゆる仕事をこなしている。
「だって田舎に住まんとできんことやん。畑やるの気持ちええよ」

 鹿子も、畑チームに加わった。鍬や鋤、空の背負い篭を担いで、週に3度は芙美恵さんのハーブ畑へ出向いた。
 遠くのあぜ道に、ヤギを散歩させている男が通った。鹿子ははなさんに訊いた。
「ねぇ、あの人、たまに見かけるんだけど」
「ああ、スニフさんやね」
「何の仕事をしてるひと?」
「会う度にちがう仕事してはる」
ヤギはむしゃむしゃと他人の家の畑の草を食べていた。
「何げに、おしゃれやんな?」
 スニフさんは、藍染めのもんぺを着ている。麦わら帽子も草履も、その辺のホームセンターで売っているものとはわけがちがう。芙美恵さんも気づき「おーい」と言って、手をふる。
「あたらしい子、入ったのー!」
鹿子は会釈する。
スニフさんは「おー」と答える。
しかし鹿子には、遠くからでも顔が曇るのが分かった。スニフさんは「また新しいのがきたな」という顔をした。

はなさんの失敗

 ある日、はなさんが本の配送先を間違えた。太田書店グループセンター店へ出すところ、グループセンターコスモ大田店へ、出してしまった。
 その夜は、緊急の会議をするということになり、テーブルにはワインが並んでいた。
「今日のことだけど……」
芙美恵さんは切り出した。
鹿子が薬缶に手を伸ばそうとすると、
「今、話してる途中なんだけど」と、芙美恵さんは鹿子をキツく睨みつけた。
「今回はたまたま、電話をいただけて分かったけど、こんな間違い、あってはならないことなの」
はなさんは蚊の鳴くような声で、「はい」と返事した。

「本当にはなさん、これがどういうことか分かっていますか」
「わざわざ落ち度のある側へ、わざわざ電話してきてくれたんですよ。本来送るべき書店さんにも、大丈夫ですよ、なんて快く了承してもらえて」
「こんなの、奇跡なの!奇跡」
芙美恵さんは声を荒げた。
「配送料だって、三重にかかりますしね」と、一帆さんが口を挟んだ。
「はなさん、あなたはどう責任を取ってくれるの?!」

「今月のお給料から抜いてください」
はなさんは、言った。
「お金とか、そういうことじゃなくて」
はなさんは泣きだした。
「なんで泣くの? 会議中に泣く人とかほんと嫌い」
呆れたように、芙美恵さんは一帆さんに目をやった。一帆さんは合図に答えるように、口を一文字に結び
「涙の意味が分からない、ですね」と言った。
「どうする? 私の下で働きたい人は他にもいっぱいいるんだけど」
芙美恵さんが、展開を促した。
「つるばら舎で、もっとがんばりたいです!」
はなさんは、絞り出すような声で言った。

 芙美恵さんのワインもまわり、お説教は深夜になっても続いた。鹿子たちは一口も、口をつけなかった。「何が原因でミスが起こったか、一から考えましょう」とか、「どうすれば次のミスが起こらないようにするか考えましょう」といった風には、話は進まなかった。
 はなさんは混乱していた。「責任を取るとは」という問いを数時間、解き続けているようにも見えた。

「ちゃらちゃらちゃらちゃらインスタなんかやってるから、こんなことになるんだよ」と、芙美恵さんは言った。はなさんのインスタは、つるばら舎で働けている自分という自意識が爆発した、きらきら成長ストーリーで溢れていたけれど。はなさんは、夜のうちにアカウントを削除した。
 最終的に、芙美恵さんは「髪を、ピンクに染めて来なよ」と言った。
「それくらいの改革が必要だよ。そうすればはなさん、あなたは変われる気がする」
と言った。

 空が白み始めた頃、ようやく解散となった。
 鹿子は、帰り道が一緒になったはなさんに声をかけた。
「苦しい時間でしたね」
「うん」
「私、芙美恵さんも、一帆さんの同調する感じも、ちょっといじわるだと感じました」
「たまにあるんよね、火がついちゃうと」
はなさんは、芙美恵さんを庇うように話をした。だって不平不満を言うなんてゆるされないことだから。私たちは、愛のコミュニティの中で暮らしているのだから。

 翌日、はなさんは会社を休み、街で髪をピンク色に染めて出社した。ピンク頭のはなさんを、みんなで「かわいい、かわいい」と囃し立てた。
 はなさんは「芙美恵さんに余計なエネルギーを使わせてしまって、申し訳なかったです」と言った。「これからは、あたらしい自分として生きようね!」
芙美恵さんが言った
「はい!これからは、生まれ変わった私として生きていきます」
とはなさんは皆の前で宣言した。

鹿子の失敗

 つるばら舎はチャットは禁止、社内メールが行き交う。「メールが定型文だと、芙美恵さん怒るから気をつけなよ」と一帆さんが、忠告してくれていた。「お疲れ様です、宜しくお願い申し上げます」なんて、以ての外だ。
 きっと鹿子が「よ」と打てば「よろしくお願い致します」と入力されるように設定していたことも、お見通しだったのだろう。芙美恵さんからもメールが届いた。
「鹿子さんメールからは、愛が感じられません。私、そういうの、ほんっとうにだめなの。そういう人と一緒にはたらきたくない、と思う。
うそでもいいの。いっしょにはたらく仲間へのメールには、愛のある一文を入れるように。相手の気持ちを盛りあげるように。
人々が円滑にコミュニケーションするために必要なことです」

 もっともだと思うが、どうも鼻白んでしまうような大仰なメール文が、それから飛び交うようになった。
「芙美恵さん、さすがです」
「芙美恵さんのおかげで、こんな貴重な経験ができました」等。
 鹿子は、つるばら舎には目には見えない、独自のルールがたくさんあることを、理解した。

はなさんの失敗2

 その後も、はなさんのミスは続いた。
 芙美恵さんは、
「前回、生まれ変わったんじゃなかったっけ?」
と茶化した。そしてまた、独壇場で話を続けた。
「ほんとうはやりたいことが別にあるんじゃない?」
「何か別にやりたいことがあるから、仕事に身が入らないんだよ」
「ウチがいちばんじゃないんだ!」
はなさんは、何も答えられずにいた。
 月末に、はなさんは「今月はミスばかりで、今月のお給与は芙美恵さんの言い値でいいです」と言い放った。

 はなさんは芙美恵さんの紹介で、インナーチャイルド・セラピーというものに通い始めた。
「ミスが起こるのは、はなさんの中の、ちいさな子どもが、傷ついたままだからなんじゃないか」と、芙美恵さんは、知人のインナーチャイルド・セラピストセラピストをはなさんに紹介した。
「すべての根本原因は幼少期にある。大人になってから起こる問題は、幼少期からの未消化のパターンを繰り返している」
セラピーを通して、はなさんの中の小さな子ども、インナーチャイルドを癒し、潜在意識をさぐることで「はなさんの、ほんとうにやりたいことをみつけよう」というのだ。
 芙美恵さんは提案した。
「あとね、はなさんのインナーチャイルドが癒えるまで、ご両親との連絡は、絶った方がいいと思うの」
芙美恵さんは言い、はなさんはご両親と距離を置いた。

 初め、はなさんも鍼灸や整体、心療カウンセリングに通うだけだった。それから占いにハマり、占星術、タロットリーディングを自分で勉強するようにもなった。レイキ、アファメーション、アーユルヴェーダ、フラワーエッセンス、ホメオパシーだって試した。これは、はなさんだけに言えたことではなかった。
 一帆さんだって、これまで貯金をきりくずしながら、芙美恵さんがおすすめするヒーリングなら何だって、講座だって何だって出向いて行った。ホ・オポノポノ講座、ライフコーチ、ヒプノセラピー、アカシックレコードリーディング、夢療法、クラニオセイクラル、音楽療法、気功、断食合宿、砂浴合宿、神聖幾何学、TM瞑想、ヴィパッサナー瞑想、トランスフォーメーションゲーム、クリスタルヒーリング、オーラソーマ、メタトロン、タイムウェーバー、ゴッドクリーナー、CS60、クンダリーニ覚醒、自動書記、メンタルブロック解除、宇宙語、だの、なんだのなんだの。それからセラピスト養成講座に通い、即席的なセラピストとしての資格も取った。

 喫茶店のハッちゃんが、感心したように言う。
「よくみんな、あそこまでできるよねぇ」
「芙美恵さん、自分の顔を立てられたいだけじゃないかなぁ」
カウンターの女が話す。
「何者かになりたい人には、うってつけなのかもしれないな」
立ち寄ったスニフさんが
「みんな、自分がないからじゃないかなぁ」
と言って、鹿子の方へ目線をやった。

 今日も、芙美恵さんのハーブ畑で雑草抜きだった。畑リーダーのはなさんは、欠席だった。鹿子が「はなさん、今日も体調がすぐれないんですか?」と聞くと、
「今日は、インテグレード・ヒーリングの日だそうです」と一帆さんが言う。
 芙美恵さんは、息を吐き捨てながら言う。
「はなさんって、いつも他人に同情してもらいたがっているみたいに見える」
センダングサやヌスビトハギを、高級なパンツいっぱいにくっつけて、ケラケラと言う。
「常に、かわいそうな立場にいたがる、というか……」

一帆さんも同調する。
「まるで、自己憐憫の達人みたい」
「ちょっと、分かる気がします」
ふたりは、すべて見通しているかのように話す。
 鹿子は最近、一帆さんとの間に、溝を感じるようになった。一帆さんの、表面的ななりふりが、いちいち気に障るようになっていた。
「からっぽだから、ああなるの。スピリチュアルジプシー!」
 芙美恵さんは、
「まったく、自分で掘った穴に、私のことを埋めないで欲しいよ」
と、ばっさばっさと豪快に草を抜いた。
「紹介したのは、芙美恵さんじゃないか」と鹿子は思ったが、「ハマる方もハマる方だ」とも思った。そして「私はまだ、大丈夫」と思う。鹿子は、採れた野菜を、はなの家の前に置きに行く。

鹿子の失敗2

 鹿子が、澪の町に引っ越して、2ヶ月経った頃、鹿子が発送した数冊の角が、折れ曲がっているとクレームの電話が入った。

 鹿子は、喫茶ハッちゃんに呼び出された。芙美恵さんの隣には、一帆さんも座っていた。
「起きたことはしようがないけれど、もう、こんなことになって!」
鹿子は顔を上げられなかった。
「鹿子さん、ちゃんと検品しました?」
「はい、本当にもうしわけありません……」
毎日何十件と発送する中で、鹿子はその本を梱包した瞬間など、覚えているわけもなかったが、平謝りし『これは、朝までコースだろうか』と考えた。
 芙美恵さんは、その思いを読み取ったかのように、鹿子の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、ちゃんと目を見て話してくれる?」
「私、ときどき思うのよ」
身構える、何か言われる、と。
「鹿子さんが、私たちの調和を壊してるって」
鹿子は声にならない声で、「え」と言う。
「一帆さん、どう思う?」
「あいさつする時に、こっちを向いてくれない時があって」
確かにそんな時も、あったかもしれない。
芙美恵さんはまばたきもせず、
「はっきり言って、そんな人はつるばら舎には、いらないって思ってる」
と言った。鹿子は、心臓が刺されたような感覚になる。ひょっとして、クビだろうか。以前一週間でクビになった元大手出版社のスタッフがいた、という話も聞いていた。

「別に、鹿子さんのことを責めたいとかじゃないのよ」
 芙美恵さんは、コーヒーをガブっと飲んだ。
「これはあくまで、そう見えるって話なんだけど」
「鹿子さんは、底なし沼に自分がなくて、自信もないみたいに見えるの」
「呼吸も、ちゃんとできていないですよね」
と、一帆さんが口を挟む。
「呼吸が深くないと、ちゃんとした仕事はできません」
そう言われると、余計に鹿子の息は浅くなった。
「だから仕事で失敗ばかりするし、社内でもいい人間関係がつくれないし、恋人もできないんだよ」
鹿子は、呆然とする。
「不思議ね、私があなた達の歳の頃は、モテたけどな」
と言って、がははと笑う。

「それでね」と、芙美恵さんはリトリートに行ってはどうかって、思っているの」
 八丈島に、谷口という芙美恵さんのよく知るセラピストがいる。そこでは呼吸法も教えてくれる。スピリチュアルなセラピーもしてくれる。八丈島で、こころもからだも解放できれば、あなたはうつくしく輝いて、仕事でも大活躍できるようになる、と芙美恵さんは話す。

「安心して! 鹿子さんのためだけの、スペシャルプログラムを考えたから!」
そして「お金はエネルギーだから、どんどん使って循環していけば、入ってくるのだ」という理論を展開した。リトリート費用は、自費で40万円。交通費は別。芙美恵さんはまんべんの笑みを放つ。
「大丈夫、からだとこころが、どっしりしたら、幸運が舞い込むよ!」

 「八丈島 谷口」で検索する。
谷口真子。スピリチュアル・セラピスト。 2011年の震災を機に覚醒体験をし、セラピストとしての活動を始める。伊豆諸島の最南端、八丈島で個人カウンセリング、セラピスト養成講座の講師として活動。ハーブに精通し、現在は八丈島の自宅でパートナーとおだやかな毎日を暮らす。
「何かが、変わるかもしれない」と期待した鹿子が、ばかだったのであろうか。

第二章 島流し

 八丈島行きの船の中、芙美恵さんからメールが届く。
「鹿子さんへ
このリトリートで、鹿子さんがほんとうの自分を知る機会になったら、どんなにすてきなことでしょうか。本当に鹿子さんが、谷ちゃんとのご縁ができたことの素晴らしさを感じています。
まさに鹿子さんにとって、かけがえのない得々貯金ですね! 
これまでのことを一旦リセットして、楽しんできてください。尽力してくださっている谷ちゃんに、本当に感謝だなと思います」

 谷口は、腰まで伸びた髪を揺らし、いかにも繊細そうな体格で、首に大きなクリスタルをぶら下げ、港まで出迎えてくれた。ジャングルみたいな道をふたりで歩いて行くと、目の前を鳥たちが颯爽と通り、風にくすぐられたオオタニワタリの葉がくるくると手を振った。
「ほら見て、鳥や植物たちも、鹿子さんを歓迎してくれているよ!」
木漏れ日の光が、何か特別な時間がはじまる演出をする。
「それにしても鹿子さんって、芙美恵ちゃんが言ってた通り、足から下がぐっにゃぐにゃね。丹田呼吸がぜんっぜんなってないわ」
鹿子は、足元を見下ろす。
「でも大丈夫。芙美恵ちゃんから、ちゃんと一から百まで教えて、鍛え上げろって、言われてるから」とウィンクした。

 谷口の自宅に到着し、鹿子は、馬小屋のような一室に通される。そこは電気も通っていなければ、トイレットペーパーもない。
「トイレの時は、この麻の布を洗って使ってね」 
 食事は、朝のうちに野草を採りに行き、夜になる前にガスで自炊すること。魚は近所の方が、シマアジを分けてくれる。

 二日目、リトリートは谷口のセラピーから始まる。
「まずは、鹿子さんの体の状態を見ていくね」
ベッドに寝かされた、鹿子は薄目を開ける。『宇宙とつながった』状態の谷口が神妙な面持ちで、鹿子の体に手をかざす。そして「オエッ」と嗚咽する。「波動がずれていたりするとこうなるの」と谷口は言い、鹿子は一瞬、申し訳ないような気持ちになる。
「安心して、今からチャクラを整えていくからね」
と谷口は言いながら、今度はゴホゴホと咳込む。そしていくつもの鉱石を、鹿子の体の上に置く。最後にチーンと音叉を鳴らし、何か唱えている。

セラピー後、谷口は聞いた。
「どうだった?」
何も感じませんでした、と思ったが、鹿子は「体がぽかぽかしてきたような……」と答えた。
「うふふ、体の細胞がよろこんでいる証だね」と谷口が笑う。
鹿子も、はははと笑う。

 それから、呼吸法やヨガを習う。谷口とは、毎日一時間ほど話をする。父にされていやだったこと、母にされて傷ついたこと、洗いざらい紙に書くように言われる。紙を破り捨てる。遠くの海でクジラが跳ねるのを見る。

 浜辺で卒業セレモニーが行われる。まるで見せ物かのように、谷口のパートナーや、村の住民がゾロゾロと集まる。谷口は海水を鹿子の頭にかけて、浄化の儀式を執り行う。

夜は、キャンプファイヤーだ。谷口のパートナーから
「八丈島、どうだった?」と聞かれる。
 影にゆれるビロウの木をぼんやり眺めながら、
「いいところでした」と、答えるしかないじゃない、と思う。谷口と、谷口のパートナーは、「鹿子さんも、引っ越してきなよ」と、キャッキャッと話す。谷口は「これからホームページに『リトリート』のメニューを追加しようと思うんだ」と言う。知らんがな。

 鹿子は、『悠々自適な島生活体験、リトリートのおかげで変われた私』ストーリーに組み込まれてる、と自覚している。
 谷口は
「鹿子さんは、はじめ人からの影響ばかり受けて、自分の足で立てていなかった。でも、変わったね! 私、鹿子さんの成長をそばで見届けられて、とっても嬉しかった」と涙ぐむ。
「一週間そこらで『成長』なんて、できましたかね……」
「できてるよ! 顔つきが、全然ちがう」
と谷口は、言う。そして
「何度倒れても、この草花のようにまた咲けばいいんだよ」
と鹿子をハグをし、両手をうんと握ってくる。
もうやめてくれ、もう私にさわらないでくれ。

 帰りの船の中、甲板から噴き上げる泡を見下ろす。
 鹿子は「40万円!」と、泣く。あまりに稚拙で、適当なスペシャル・プログラム。こんなの、『ヒーラー』になりたい誰かの自己実現に付き合わされただけだ。
 鹿子は、芙美恵さんに火をつけられた、と思う。ドカドカと不躾に、心の中の「お前ってほんとダメなやつ」着火点にシュッ、ポッと。火は、目の前の荒波と重なり噴き荒れていた。それに乗ってしまった自分が不甲斐なくて、恥ずかしかった。

 甲板には、鹿子以外に、卒業旅行帰りの学生カップル、病院に通う親子、ぶかぶかのパーカーを羽織ったおじさんがいた。みんな、通り過ぎていく人たちを、鹿子はぼんやり見た。
 鹿子は甲板の柵一段目に足をかけ、人目も気にせず、
「ふざけんなーー!」
と叫んだ。
「金を返せー!」

 親子は船室へと戻り、おじさんとカップルが、驚きながら鹿子を凝視した。
「ちょっ、どうかされたの?」
おじさんは興味津々といった感じで訊ねてくる。若者も暇を持て余し、恐る恐る鹿子へ近づく。
「だって、みかん買うのだって、4個入り399円、オーケーって、納得して買うでしょう? それなのに、私、40万円も払っちゃった」
おじさんは訊く。
「はじめに、どんな内容か確認せんかったんのか?」
「しなかった。でも『私のためにスペシャル・プログラムを考えた』って、芙美恵さんが……」
「誰?」
カップルの彼氏が、彼女のほうに訊く。
「さあ」
誰ひとり、芙美恵さんのことを知らないようだ。
「払う方も払う方じゃん?」
と、彼女のほうが冷淡に言う。もはや世界じゅうから笑われている気がする。彼氏のほうが、スマホで芙美恵さんを検索をして
「こういうのに騙される人がいるんだな」
と呆れ気味に、画面を見せる。
「上辺だけ上品にみせていても、毒は毒だ」
おじさんが若者たちに説くように言う。
「私は、私のことを守れなかった」
鹿子は、地面につく。
「私は、私のお金も守れなかった」
「それで、飛行機じゃなくて船を使っているの?」
彼氏のほうが笑う。
「そういうことです」
おじさんが「中で甘いお茶でも飲んで温まろう」と言う。
私たちは船の中に戻り、ぐっすり眠る。
めでたしめでたし。

 鹿子は実際に、そんなことはしていない。実際は、朝方までぎんぎんで、竹芝桟橋に着くまで眠れずにいる。だけどもし、それをできていたなら、「ふざけんな!」と口に出せていたのなら、少しはマシだったかもしれない。甲板の連中に手をふる。
 鹿子は知る。こんなことで人生は変わらない。そりゃそうだ。っていうか、そもそも、何で私は変わらないと、いけないんだっけ。

 鹿子は澪の町に戻る。
 つるばら舎の扉の前で、鹿子は船の時みたいに、妄想する。
芙美恵さんは「がんばったね」とか何とか言って、ハグをしてこようとするはずだ。鹿子は、伸びた手をはらいのける。
「こんなのおかしい!」と、はっきり皆の前で言うのだ。
皆がぽかんと口を開ける。それでも言うのだ。
 しかし、体が硬直する。ここで「ふざけんな!」と言ってしまえば、つるばら舎に受かったことも、澪の町に来たことも、リトリート費用40万円も、すべてがおじゃんになってしまう。

 結局、鹿子は損得勘定に負ける。
「ださ」
息を呑み、ドアを開ける。
「おかえりなさい!」
鹿子はやっぱり、何も言うことが出来ずに、芙美恵さんに抱きしめられる。

くやしい、くやしい、くやしい!
なんでこんなことで、人を騙せると思った?
それとも本当にいいことをしたって思っている?
人々にすばらしい経験を与えたって?
 怒りが、ある。
 それなのに、芙美恵さんの体温に包まれ、鹿子は「こんな風に思う私のほうがおかしいのだろうか」という、気持ちでないまぜになる。鹿子も鹿子で、感謝と気づきの成長物語をべらべらと喋り出す。「なんだこれ」と思いながら。
「芙美恵さんと谷口さんのおかげで、とてもいい経験ができました!」
芙美恵さんはカラカラに乾いた瞼で言う。
「鹿子さんの成長っぷりに、涙が流れます!」

 翌日、芙美恵さんは
「うちでも、リトリートしよう」と言い出す。
芙美恵さんは、一儲けしようとか、以前から計画した上で発言しているのではない。ただ、思いついたから言っているのだと、三人目を見合わせる。
「鹿子さんも、八丈島でスキルを身につけてきたわけだし!」
と言う。鹿子の背筋が、ぞくっとする。

第三章 同じ穴のむじな

 澪の町リトリート計画がすすむ。
 この町に、芙美恵さんの読者を集めて、こころとからだを解放する、7日間の養生プログラム。芙美恵さんが意気揚々とプランを描く。澪の町の観光ホテルにも協力を仰ぐ。

『あたらしい自分に生まれ変わるとっておきの一週間』
自然の中でのんびり過ごすことで、自分を見つめ直し、市村芙美恵が考案した解放ワークに取り組んでいただきます。

7時 目覚めのヨガ・瞑想
9時 朝食
10時 トレイルウォーク
15時 芙美恵さんのセルフケア講座
16時 マッサージ
17時 瞑想
18時 夕食

 費用はお一人様、22万円。20名集められれば、6泊7日のホテル代を差し引いても、一週間で300万以上の儲けとなる。
 鹿子は食事の準備、はなさんはトレイルウォーク、一帆さんはマッサージを受け持つ。マッサージと言っても、一帆さんは「一週間で在宅で学べるアロマ・セラピスト講座」を受講しただけで、実地経験はほぼない。皆、不安そうな顔を浮かべている。
 鹿子が「24名分の食事をいっぺんに作った経験などない」と訴えると、「それは、私たちだって同じだ」と、一帆さんが言う。最終日には、芙美恵さんの知り合いを呼んで、ライアー演奏会が行われる。芙美恵さんは、卒業証書を発注する。

 芙美恵さんがインスタで告知をすると、全国から19名の応募が集まる。
「あとひとり、誰か知り合いにいない?」と皆に訊く。
 芙美恵さんは、つるばら舎に届いていた、一枚のファンレターを手に取る。
「こんにちは! 私、橋口仁美と申します。実はそちらで働かれている鹿子さんの元同僚で、当時はふたりで芙美恵さんの本をよく追っかけていたんです。今回は鹿子さんに勇気づけられて、生まれてはじめてファンレターを書きます。芙美恵さんの活動にいつも元気をもらっています……」
「この人、呼べないかな?」
いやな予感がする。

 初夏のような暑さの四月、約一ヶ月の準備期間を経て、見切り発車のまま、ついにつるばら舎主催、澪の町リトリートが開催される。 
 直前にトレイルウォーキングに使用するはなさんの自作マップに誤植があったり、ウォーキングポールがカートに入ったまま注文できていなかったり
お皿やお箸が足りなかったり、ドタバタはあれど、リトリートは敢行される。

 鹿子は、養生食メニューを考えた。朝はバイタミックスで新鮮な野菜ジュース。お粥と味噌汁。無農薬の梅干しとお漬物は、ご近所から分けてもらった。夕飯は、玄米は六分づきで炊く。毎日異なるスープやポタージュを煮込む。昼間のうちに、にんじんラペや、玉ねぎペーストを準備しておけば何とかなる。蒸し野菜には、塩麹を添えて。味噌も甘酒も手作りだ。盛り付けは、皆が手伝ってくれる。

 仁美と会うのも、久しぶりだった。
「がんばってるね、スープたのしみにしてるね」
そう言われると、鼻が高いような、変な気分に陥った。
 つい先日、鹿子はよくわからないリトリートに行ったばかりなのに、今度はする側になっている。鹿子は確かめるように、つぶやく。
「私、友だちを騙したりなんかしていないよね」

 三日目に、事件は起きた。トレイルウォーキングの直後、お客さまのひとりが山道で転げ落ちてしまった。歩くのもままならず、一帆さんが車で山へ迎えに行った。一向はつるばら舎に戻り、その日の予定はすべて中断となった。
 芙美恵さん、はなさん、一帆さんでしばらくレイキをあてたが、痛みはおさまらず、病院へ連れて行くと「骨が折れている」との診断だった。結局、その方は帰宅を余儀なくされた。
 ほどなくして、一週間の澪の町リトリートは終了し、20名のお客さまは帰って行った。

 芙美恵さんは、はなを問い詰めた。
「はなさんが、ほんとうにやりたいことって何?」
「うちのことがいちばんに考えていないから、ああいうことが起こったんだよ」という理論だった。
「ねえ、はなさんの、ほんとうにしたいことって何?」
「……絵を描いて、暮らしていくことでしょうか」
「どうして、それをやらないの?」
芙美恵さんは、いらいらしながら訊いた。
「それだと食えないですし」
「結局、お金?!」
「そういうことではなくて……」
「じゃあ、何?!」
怒りの矛先は、鹿子にも向かった。
「鹿子さんが、ほんとうにやりたいことは?」
「私は、スープづくりです」
「編集の仕事じゃないの?!」
 鹿子がつるばら舎に来てから、編集の仕事などたったの一度も、携わらせてもらえたことはなかった。鹿子の仕事は、発送と、芙美恵さんの犬の散歩と、スープづくりだけだった。
「はなさん、うちに来てからどれくらい経つの?」
「今年で3年でしょうか……」
「鹿子さんは?」
「3ヶ月です……」
社内は静まり返った。
「今は風の時代だよ、ほんとうにやりたいことをやらなくてどうするのって思うの」
「でも」
「そろそろ、巣立ちをする時じゃないかなぁ」
「私、もっとがんばりたいです」と鹿子が言う
「私も、もっとがんばります」とはなが言う
「がんばらなくていい! がんばるって何?!」
芙美恵さんは憤慨し
「あなたがたがいなくても、つるばら舎はまわります!」
と叫んだ。
ふたりは黙り込んでしまう。

「明日から、ふたりとももう来なくていいよ」
芙美恵さんは声を整え、仕切り直す。
「今は決して逃げたりしないで、自分で自分を越えなければいけない時。自分の足で立たなくちゃ」
「はなさんは大丈夫、今まで色んなセルフケアやセラピーに取り組んで来たんだもの」
「鹿子さんだって。生活なんて何とでもなるよ、隣町のイオンで働いたらいいじゃん!」
芙美恵さんは続けた。
「もう、そんなふたりともしょげないでよ。私の人生でドン底だった時は、こんなもんじゃなかったよ」
芙美恵さんは、その後も「自分はどのようにドン底から這い上がったか」ストーリーを続けた。

 結局はクビ、ということ。武勇伝も、もう聞き飽きたよ。誰がもう、あなたの本を読むのだろう。ふたりは思った。耳元の音声が、遠くなっていく。一帆さんが
「芙美恵さんは、はなさんのことを想って、愛から言ってくれていたんだよ」と真顔で言うから、余計に頭がくらくらとする。

第四章 喫茶店にて

 鹿子は、喫茶ハッちゃんの赤いシートに座り、呆然と空白を見る。追い討ちをかけるように、オーガニックスーパーで同僚だった仁美さんからLINEが届く。

「実は、リトリートの後で芙美恵さんから連絡が来て。なんと、芙美恵さんから引き抜きで、うちで働きませんか、って言われたの!」
鹿子の中に、嫉妬のような感情が現れたが、ふっと消すように努める。「ワォびっくり」とおちゃらけたスタンプで返す。
「芙美恵さんから、鹿子さんはつるばら舎辞められたって、聞いたんですけど」
「うん、色々あってネ」
「私は最初の一ヶ月は、インターンシップ的な扱いで、ボランティアって形なんですけど」
「ちなみに、福利厚生もないよ」
「でもこんなチャンス、二度とないから」
「色々あったから、おすすめは……」
と打ったところで、鹿子は数ヵ月前の自分を思い起こす。誰かに止められても、私は澪の町に来たと思う。
「鹿子さんと、また一緒に働きたかったです」
「私も。引っ越しきまったら教えてね」
 鹿子はコジコジのスタンプを送る。仁美さんは、ウィスット・ポンニミットくんのスタンプで返す。

 そこへカウンターの男が、昼間からウィスキーを飲みながら、絡んでくる。以前、畑でヤギを散歩させていた男だ。
「あー、自分、40万! 40万払ってクビにされたんやて?」
噂は既に町じゅうに広がっていた。

「よく40万も払えるよなぁ」
スニフさんが大声で、周囲に同意を求める。他にも10名ほどお客さんがいたから、やめて欲しかった。
「まぁ、芙美恵さん、口だけは上手だからねぇ」
と、カウンターの女が話に入ってくる。
「で、今度はリトリートやる側に回ったら、お前さんも同じ穴の穴のムジナやん」
思わず、鹿子は下を向く。
「ちょっと!スニフさん」とハッちゃんが嗜める。

 カウンター越しに鹿子は訊く。
「ハッちゃんって、お酒も出していたの?」
ハッちゃんは「と、く、べ、つ」と唇を動かす。
鹿子は「私もください!」とオーダーする。ハッちゃんは、いつもはアイスコーヒーに入れるガラスコップいっぱいに、ウィスキーの水割りを差し出す。
「私、芙美恵さんには感謝しているんです!」
「えー、それは嘘」
「こんな、経験をさせてくれて。この町にも来れて」
「本気で言うてるん?」
スニフさんは、マスターと目を合わせる。
「俺やったら、なめとんのかって言うけどな」
それ、口に出していいの? と鹿子は思う。
「自分、ほんとはめちゃめちゃ怒ってるやん?」
「そーゆー気持ちにさせられたってこと、自分のために認めてあげたらええのに」
鹿子は押し黙った。
「詐欺に遭ったのに、詐欺に遭ったって言えないとか、傷ついたのに傷つきましたと言えないとか、そんなん体に悪いだけやん」
スニフさんは付け加える。
「自分でつくった地獄を生きるなよな」
「そうかもしれない。私はとんでもない嘘を自分についてしまったのかもしれない」

 そして、鹿子は吐くように言う。
「でも、ああするしかなかったんです。皆さんにはわからないですよ!」
 辺りがしんと静まり返る。
ハッちゃんは驚いた顔で、鹿子に言う。
「鹿子ちゃん、知らなかったの?」
「え」
「ここにいるお客さん全員、つるばら舎の元スタッフだよ」とハッちゃんは言う。「皆、芙美恵さんがどんな人か、よーく知ってるよ」

 鹿子の顔色が、徐々に青く染まっていくのを、皆が静かに見つめた。スニフさんは、こともなげに笑った。
「知らなかったの。俺も、あの方も、あの方も、あそこのご夫婦も、あの若者も、窓の外のあの人も、あの人も、あの人も、あの人も、あの人も、あの人も、あの人も、あの人も、あとハッちゃんもバイトしてたことあるよね」
カウンターの女も、みんな順々に、にこやかに頷いた。
「うん、僕と奥さん、つるばら舎で知り合ったもん」
 小さな子どもが窓の外から、摘んでいたお花をひらひらと見せた。

 つまり、澪の町に元つるばら舎のスタッフが大勢いる。この小さな町は、もはや元スタッフだけでできていると言っても過言ではないのだ。
 たとえ芙美恵さんの思いつきひとつで、人をクビにして、人が町を去って行っても残っても、芙美恵さんが新たに求人を出せば、はるか遠くからでも人が集まってくる。そういえば、芙美恵さんは以前、雑誌のインタビュー記事で「同じ人と3ヶ月一緒に働いたら飽きてしまう」と言っていた。
「そのスパンでいけば……」鹿子は、客席を見渡した。

 鹿子は、はじめてスニフさんに会った時、スニフさんの顔が曇ったことを思い出した。「また新しいのがきたな」という顔、「またすぐに去っていくんだろうな」という苦々しい顔。
「なんだ、町の人たちはみんな、このパターンを知っていたのか」と、鹿子は肩を落とした。あの時、確か鹿子だって、その「顔」を認めていながら「それでもいい」と思ったのも事実だった。

「収入や住む家を失っても、ありがとうって思えって、そんなわけないよね」
「ったく、湯水のように人が沸いて出てくると思っているのかねぇ」
「ボランティアって、実質タダ働きやん」
「それで、あとは自己責任でって」
「それが、お前のやり方かー」
みんな笑ったが、笑えなかった。
 鹿子とよく似た人々が磁石みたいな引き寄せらせては、辞めていくサークル。芙美恵さんは、どこかその渦に、会社としての求心力が生まれると信じている。

「それでも、人気はあるからねぇ」
とカウンターの女が言った。
人気があれば、見逃されるのだろうか。言葉で人を切り付けても、突然人を解雇しても、人の生活を窮地に追い込んでも。
「それって、口がでかい人だけが勝つみたいじゃないですか」
「それが世の常かもしれないね」

 酒がまわりはじめていた。
みんな、どうして迎合し続けるのだろう。
みんな、どうしてこの町を出て行かないのだろう。
ぬるま湯のコミュニティで、弱々しく束ねられているのだろう。芙美恵さんを軽蔑しないでいられるのだろう。雑誌をめくり、自分は一生住むことはない素敵な建築に住む人に憧れ続けて、上から目線の暮らしのノウハウを聞き続けているのだろう。

 みんな、ひょっとして面白がっているだけなのかもしれない。この世でいちばん優しいみたいな顔をする矛盾だらけの芙美恵さんを。
「一日中、私、私、私」の芙美恵さんを。芙美恵さんが人を傷つけてまわっても、自分は安全な場所にいて、何て、魅力的でエンターテイメント的で、面白い人なんだって、感嘆し手を叩く。

「僕らは、得ているものがあるからね」
ハッちゃんが言う。芙美恵さんの知名度で、少なからず町にも人が来るし、インスタでお店を紹介してもらったりもする。
「私も、今でも芙美恵さんのこと嫌いじゃないですよ」
カウンターの女も言う。みんな町を出られなくなった人たちなのだ。

 鹿子は思う。私もさっさとこの町を出て、あたらしい仕事を見つけたらいい。健全な判断だ。だけどリトリートにお金を使い果たして、仕事まで失ってしまった。
 鹿子は涙ぐみ、
「なんで、こんな所に来ちゃったんだろ」
と、口に出した。それでも町や畑を好きになり始めていたから、喉がキュッと詰まるのをおぼえた。
「それは町に失礼やろ」
と、スニフさんは叱った。

「地縁やからね、辞めたからって、別に無理矢理に出て行かんでもいいんよ」
「それにさアンタだって、つるばら舎で働いてたらさ、芙美恵さんに選ばれたって、思い上がっとったんとちゃうの?」
確かに、優越感、ぶっこいて。正義感、ぶっこいていた。
「何を今さら、愚痴こぼしてんねんな」

 スニフさんは意気揚々と話を続けた。
「なぁなぁ知っとる? 昔々農耕時代の頃な、人は伝染病とかで死ぬよりも、仲間に殺されることの方が多かったんやて。奴隷として『コイツ、使えへんなー』って思われたら最後。石で、バチコーンて、頭を殴られたんや」
「生き残れたんは、同調したやつのみ。まぁ、アンタらもそういう生存戦略に、乗れんかったってだけや。まぁ、乗れんよな、普通。農耕時代ちゃうし」
と鹿子は、力なくうなずく。

 スニフさんは、いじわるそうな笑顔を浮かべる。
「くやしかったら鹿子ちゃん、今度は支配する側にまわったらええやん」
と提案した。
「支配する側にまわるって?」
「鹿子ちゃんにだけ、こっそりやり方、教えたるわ」
そう言って、スニフさんは大声で喋り始めた。
周りのお客さんも興味津々に、前のめりになった。

「まずは親密そうに相手の悩み事を聞くねん。悩み事ない奴はおらん。恋愛、結婚、お金、仕事、家族、つついたら何でも出てくる」
「ふんふん」
「そんで相手に何か落ち度があるから、そういう問題が起こってるんやって、話をする」
「あなたがADHDだから、仕事でミスが起こるんだ、とか?」
「HSPだからどう、とか?」
「あなたのインナーチャイルドが癒えていないから、恋愛がうまくいかないんだ、とか?」
「あなたのスピリチュアルな浄化が進んでないから、家族の問題が解決されないんだ、とか?」
どこかで聞いた話である。

「そうやって、相手に『恥』の意識を持たせて、自信と尊厳を奪うんや」
「ふむむ」
「合間に合間に、さも自分は辛い期間を乗り越えて、今はすばらしい毎日を送っていますって話も自信満々に盛り込んでな。常に自分が優位であることを示すんが大事や。犬のマーキングみたいやなぁ」

「そんで、アナタの問題を解決するためには、これが必要ですよーって、商品を差し出す」
「アロマとか鍋とか?」
「リトリートとか」
カウンターの女が経験があるみたいに口を挟む。
「商品がなければ、講座とかセミナーとか」
「あとは私という人がいれば大丈夫よー、とか」
ハッちゃんが「ひー」と、悲鳴をあげる。

「そうやって自分にあこがれが向くようなシステムをつくる。できれば外部との接触は絶たせて、囲い込みたいからな。で、そのピラミッドを色んな場所で無限にぽんぽん作ってく。あなただってできますよ、私みたいになれますよーって」
「どう、できそう?」
「無理」
「ま、こういうこと知らんくても、スルッとできちゃう人っておるんよね」
「詐欺師だねぇ」
ハッちゃんが眉をひそめながら言った。
「この店でそんなんするのやめてや」

「まぁ、40万も払っちゃうもんな。あんた、世間知らずもいいとこ。この先も気ぃつけや」
「あと、一度、芙美恵さんの言葉じゃない言葉で喋ってみなよ」
とスニフさんは言い、喫茶店を出て行った。
「大丈夫だよ、なんとかなるよ」
とハッちゃんがなぐさめる。

 三週間ぶりに芙美恵さんからメールがくる。
「なんかメーラーの調子がおかしいから、申し訳ないけれど、見に来てくれない? お給料お支払いしますから」とある。
 つるばら舎を辞めてから数週間ぶりに、鹿子はつるばら舎を訪れる。芙美恵さんは天真爛漫に話す。
「そうそう、そういえば、仁美さん、つないでくれてありがとね!」
「いえいえ、そんな」
「鹿子さんもはなさんもいなくなって、どうしようかと思ってたの。でも。いい人がみつかってホントよかった」
「そうですか」
「でもね、なかなか新しいアパートが見つからないって話をしてて」
芙美恵さんは、まじまじと鹿子の目を見つめる。
「鹿子さん、近々空くところ知らないかな?」

 鹿子は「出て行けってことか」と、受け取る。出て行きたいけど、先立つものがないんですよ、と思う。「芙美恵さんに嫌われたら最後」みたいな町で、目に怯えながら、これからも暮らさねばならないのだろうか。
 メーラーの不具合の原因をネットで調べた挙句、実際に設定にかかった工数計算をして、本日の収入は、1500円。
 鹿子には、芙美恵さんが「世間に訴えるとか、そんな次元の低いことするわけないよね」という盾を持って、ぶっ刺してきているように思える。

 帰り際、一帆さんの姿を認めて鹿子はふっと手を上げようとする。しかし一帆さんは、目があったのに「マッタク気づきませんでした」という風に、引き戸をサッと閉める。それから、一帆さんは鹿子のインスタのフォローを外した。鹿子は、そんなしょうもないことにも深く傷ついた。村八分ってこんな感じか、と思った。輪からあぶれた異端児。無視は腹を殴られるより痛い。

第五章 憎しみを一切やめる

 六月、鹿子とはなさんは、喫茶ハッちゃんにいる。
あの日以降「この町を出ていった」とか「引きこもりになっている」と噂話を聞いていたはなさんから、LINEが来た。鹿子は、誰かが自分を気にかけてくれることで嬉しがった。

「久しぶり! どうしてたの?!」
「久しぶり、あれからどうしてたん?」
「同じこと聞いてる、あはは」

「表向きには、いい経験ができました。全ては芙美恵さんのおかげです。芙美恵さんの考えに触れて、私変われました。ありがとうございました、さようならって、去るのが正解なんやろうけどね」
はなさんは言った。
 窓からの太陽の光が、ガラスコップの光のスカートをつくっている。表面的に笑ってはいるけれど、私たちはぞんざいに扱われて傷ついていた。

「毎晩毎晩、つるばら舎のこと思い返すねん」
「うん」
「そんな風に思ったらあかん思っても、どうしても浮かび上がる」
「むかつくぅって?」
「でもありがとうって思わなきゃって」
はなさんは、続けた。
「抑圧したら余計にね。ふつふつふつふつ、沸いてくんねん。ひどい扱いを受けた、こんなん理不尽だ!あんなにもやってあげたのに!って」
「感謝が足りない、波動が低い、怒りは幼稚だ、感情レベルが下だって、言われるもんね」
「怒りはいけないことだからこうしなさいって、ただの感情操作やん」
「誰より、自分を傷つけるよね」
「混乱のまま、ありがとう愛してますって、唱えまくって」
「鹿子さんもそういうのあった?」
「反すうダメ!ゼッタイ!とか言われても、思うもんは思うもん」
「気持ちは、なかったことにできないよね」
「いったい何にそう思わされて来たんだろ、私たち……」
はなさんは、カップで手を温める。
「ウチら、怒っていいやんな?」
「うん。ふざけんな、だよ」

「ほんま、なんで自分を傷つけてくる人のこと、毎晩のように思い出さなあかんのやろな」
「あんなん、裸の王様やんな」
「なんでこんなことになっちゃったんだろ……」
「きっと、試練は乗り越えられる人にしかやってこない」
鹿子はどこかで聞いた台詞口調で冗談っぽく、はなさんに言った。
はなさんも続けた。
「すべては、善きことのために!」
「人生に無駄な経験はないから!」
はははと、ふたり笑って肩を落とした。

はなさんは、
「正直、私どこか、芙美恵さんを断罪したい気持ちでおってん」
と告白した。
「お金もすっからかんになくなって、こんなことになったの芙美恵さんのせいにもしててん。こんなことになるなら、こんな山奥に、『合格です、採用です』なんて言って、呼ばないで欲しかったって」
「私も思う。あなたを傷つけてごめんなさいって、謝ってほしいって」
鹿子も告白した。
「でもな、そういう思いが、本当に病気の芽を生む。自分の体をぼろぼろに痛めつけてしまうねん」

「うち、がんが見つかって」
「え」
「言ってなかったけど」
はなさんは、言った。
「ご両親には言ったの?」
「うち、親離婚してるからな」
はなさんの声が詰まった。
「まず、父親に言ったら『困った時だけ頼って来て』って。母は『なんでお父さんに先に言うの?』だって。大丈夫?とか心配よりも、先に」
「そんな……!」
はなさんは、眉を上げて言った。
「ほんと、講座とかセラピーとかいっぱい受けて来たけど、何にもならんかったわ」

「誰かに救われようとした、私があかんかったな」
「そんなことない」
「そんなことある」
今の状況は、他人にワーとかキャーとか、好きとか嫌いとか、謝って欲しいとか、償って欲しいとか、やってしまった結果なのだ。地に足をつけていなかったから、こうなった。私たちは、自分で自分のたいせつな体も、お金を守れていなかった。
「あーあ、どんなに怒りで頭がおかしくなりそうでも、タタリ神にだけはなってはいけないって、ジブリで学んできてたのにな」

「別に、ゆるそうとか、思ってないで。
でもどういう気持ちが、自分を痛めつけてしまうのかは、ちょっとは、分かった。自分がいつも可哀想で、自分をしあわせにすることをいちばんに考えんと、私何してんねんって、流石にね、思ったよ」
 はなさんは、美しく諦めながら、生きていく。
 誰かが謝ってくれるとか、過ちに気づいてくれるとか、変わってくれるとか、もう、そんなこと期待したり、考えたりしない。自分のためにその選択をする。

「これから私たちどうなるんやろね」
鹿子は何も言えない。
「大丈夫、なんとかなる」なんて、いちばんに言えない。
「鹿子さんに、自分の話できるようになるのにも、こんな時間かかってしまったや」

 ふたりは店を出て、石の神様に会いに行った。ジョンレノンによく似た石が
「笑っていなさい、笑ってないなさいよ」
と、語りかけた。

「これもきっと、私がやりたくてやっていることなんやろう。うちが元気なのも、病気になってしんどくなるのも、経験したかったんやろう」
はなさんは言った。
 鹿子はこれまで、自分だけがうつくしいと思うものを選び、いらないものは捨てていく、そんな生き方をしていたように思う。それでいい、と思っていた。
 鹿子は思った。私は別に、芙美恵さんを「悪」の箱に入れなくても、リトリートに加担した申し訳なさから、自分を「恥」の箱に入れなくてもよかったのだ。私はグレーの色合いを全部見たかったのだ。鹿子は言った。
「あこがれだった芙美恵さんの、太陽みたいな部分も、真っ暗闇な部分も、私も全部見てみたかった」
「見てみたかったし、経験したかった」
「でもコスパも悪いし、そういうのもうやめよう」
「うん」
はなさんが返事した。

 自宅に戻ると、母から小包が届いていた。
りんごや大豆が詰め込まれた隙間に、熨斗袋が挟まれてある。熨斗袋には「おたんじょじおめでとう」と祖母の子どもみたい字で書いてあり、中には澪の町を出るためには、じゅうぶんなお金が入っている。
「何、やってるんだろう」
鹿子は思う。「40にもなって」と、じめっとした気持ちが滲み出る。
 ベッドに入り、鹿子は自分の頭をなで、肩をさする。抱きしめてくれる、そんな都合のいい誰かの手など、ここには無い。両親の手も、祖母の手も、恋人の手も無い。鹿子は、白い腕を天井にすっと伸ばした。
 私たちは、芙美恵さんが正しいと思う信仰を棄てた。

第六章 笑っていなさいよ

「こうなったら!」
翌日、喫茶ハッちゃんで、はなさんは前のめりになって、鹿子に切り出した。
「うちら、もうコントにするしかないと思うねん」
「コント?」
「漫才でもええけど」
「どゆこと」
「私たちの経験をネタにすんねん」
「うち、この間、リトリート詐欺にあいましてん、とか?」
「そりゃひどいなぁ、言うて」
「なぁ、八月に澪のお祭りがあるやろ。あそこで漫才しよ」
「しない」鹿子は、即答する。
「うちらがこれから、まっとうに生きていくには、必要なことやと思うねんけどなぁ!」
めげずに、はなさんは一冊のノートを取り出す。
そこには(A:ツッコミ、B:ボケ)と書かれた、ネタがひとつ出来上がっている。タイトルは『ていねいな暮らし』だ。

「これまだまだ試供品」
はながニヤッとする。
「うちらネタはいっぱいあるやん。カリスマ編集者とか、占いにズブズブに嵌っていく人、とか。鹿子さん、他にアイディアない?」
「煩悩が強すぎるスピリチュアル・カウンセラーとか」
「他には?」
「リトリートに行って一瞬高揚し、自分が変わったような気分になるけど、何も変わっていない人、とか。外っ面ばかり気にしてきらきら女子やりながら屈辱に耐え続ける人、とか」
「うっ、耳が痛いね」
「はなさんは?」
「お金を巻き上げていったライフコーチに逆依存させてリベンジするコントとか、騙された人が結局は騙す側になってるコントとか」
「……笑えないよう」
「笑いにしよ」
はなさんの、目は真剣だった。

「でもやっぱり、舞台はな……私、記憶力に自信無いし」
「必要なのはむしろ演技力だよ」
「もっと無いよう」
「わかった。舞台に抵抗あるなら、ラジオコントにするのはどう?」
「台本見ながらならいけるかも?」
「ふたりのポッドキャスト番組もつくろうよ」
鹿子も、だんだんうきうきとしてくる。
「ゴッサム・シスターズのスピリチュアル・コント番組」
「コンビ名、ゴッサム・シスターズなん?」

「出囃子はビートルズの『ゲット・バック』がええな」
「どうして」
「あれはもともと『移民はいらない、ここから出てけ』って運動に、「参加するなよな』っていう政治反対ソングやねん」
「家を失いつつある私らにぴったり。『フィクシング・ア・ホール』でもいいかもね」
これは、私たちの心に空いた穴を、私たちの言葉で埋めていく作業なのだ。被害者意識の沼から抜け出る、私たちが見つけた唯一の方法なのだ。
「衣装はどうしよっか」
さらに話が盛り上がっていく。

 その後も、ふたりは喫茶ハッちゃんに集まってはネタを再考し、川べりで読み合わせをしながら、ネタを完成させていく。町で芙美恵さんを見かけたこともあった。まだ銀紙をぎゅっと噛んだような気持ちになったが、息を吸い、吐き、ひたすらコントの練習を重ねた。風の噂で「芙美恵さんが今度は一帆さんをクビにした」と聞いても、もうふたりには関係のないことだった。

対岸にスニフさんがいる。
「ふたりでなにしよーん」
「まんざーい」
スニフさんは聞き違えて、万歳三唱をしている。

澪の祭りの宵の口、ふたりは舞台に立った。
「おばさんでも、初心者でも、いいじゃん」
「おばさんが、失敗しても、いい」
それはそれは小さな、カラオケ大会がはじまる前の舞台だったが、ふたりは緊張で破裂しそうだった。舞台袖で深呼吸を合わせ、白く光る方へ向かった。
「どーもー」
 スニフさんが見に来てくれていた。台詞も飛んだし、スベリもした。ふたりは3分間のネタを終えた。
「やれたね」
「やれた」
「自分、まちがえよったな」
「ごめん」
「でもたのしかったな」
「たのしかった」
「うちら、よくやったよね」
「りっぱ、りっぱ」
ふたりは笑った。
「大人になるのに時間かかっちゃった」
「ぜんぜん、こんなもんだよ」

 鹿子は東京へ戻り、今は書店で働いている。今日は芙美恵さんの新刊が書店に並ぶ日だ。鹿子は『八月のホラー・ブック・フェア』の平積みの列に、芙美恵さん新刊を積む。異存は認めない。
 はなさんも澪の町を離れた。はなさんのがんは、寛解に向かっており、今は名古屋で働きながら、ひとり暮らしを続けているという。


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