学問の視点から向き合う話。

今日、生物の授業で視覚の仕組みを学んだ。網膜が受け取った情報が、どのように神経を通り、脳に至るのかを学んだあと、ある箇所の神経が傷ついた場合、視野はどのように欠けるのかを考察する授業だった。

視野欠損。
僕が密かに向き合ってきたハンディキャップの一つだ。後頭葉の一部が壊死している僕は、左側の視野が大きく欠けている。スポーツなどの場面でしばしば悩まされてきた。しかし、生物の先生はそんなことは知る由もない。

先生は、視野欠損、と大きな字で黒板に書いた。なんとも名状し難い気持ちに駆られた。授業で扱った視野についての話は、先生や生徒たちにとって、ある種の事象でしかなかった。何も、その裏にある当事者の感情まで汲み取ってくれとは言わないが、自分の障がいを、学問の視点から無機質に語られると、酷く気分が乱された。
ああ、先生は、実際に視野欠損をコンプレックスにもつ生徒がいるなんて、想像もしていないのだろう。

そう言えば、遺伝子の突然変異を学んだときもこんな気持ちになった。先生が、染色体の突然変異について、異数体―――ヒトの場合では、トリソミーやモノソミーといった病気に関わる―――を、あまりに淡白に説明するものだから、少し悲しくなったのだ。
ああ、先生は、実際にトリソミーの患者をきょうだいに持つ生徒がいるなんて、想像もしていないのだろう。

別に、配慮が足りないとは言わない。誰も悪くはない。大体、そういったことを学問的視点から学びたくて生物を選択したのだ。そのことを後悔はしていない。
しかしそれでも、つい考えすぎてしまうのは、僕の弱さであろうか。


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