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護るべきもの (1)路地裏

 アーロンは、暗い路地裏に潜み、大通りの反対側にある屋敷を見ていた。
日没後の大通りは、馬車の往来も少なく人影もまばらだ。屋敷のいくつかの窓には灯りがともり、淡い光が大通りを照らしている。
 彼がD大公の屋敷を探るよう命令を受けてから、一週間が経とうとしていた。
 屋敷の警備は厳重で、昼夜を問わず、屈強な犬たちが屋敷の入口に立ち、周囲を歩きまわっている。
 それだけに、名うての〈ラッター〉であるアーロンさえ忍び込むことができず、ただ、屋敷の様子を窺うほかなかったのだ。

 路地裏に隠れていると、アーロンは昔のことを思い出す。
 孤児となり、妹とふたり、路地裏を住処としていた仔犬時代を。飢えや寒さに怯え、生きるために他犬を騙し、物を盗み、毎日が戦いだったあの頃。
 そして、成犬となり衣食住を手に入れた今、犯罪行為に手を染めなくて済むようになったかといえば、そうではない。
 アーロンは依頼があれば、躊躇なく、盗みや騙りを行う。それは、自分と妹の生活を護るためであり、仔犬時代からの戦いは、今もなお続いているのだ。

 アーロンが物思いに耽っていると、屋敷の門が開き、中から紳士風の男が出てくる。警備の犬は男に敬礼し、男はそれに片手を挙げて応えると足早に歩きだす。
 アーロンは急いで男のあとを追った。彼の長年の経験や感が、その男から何ごとかを感じ取ったのである。

***

 男が向かった先は酒場であった。男はカウンターにある席に座ると女給を呼び、横柄な態度で酒と食事を注文した。
 アーロンも男のそばの席に着き、様子を窺うことにした。
 男は、最初こそ大人しくしていたものの、酒が入ると、隣に座っている客に絡む、女給にちょっかいを掛ける、を繰り返し、とうとう男の周りからは犬が居なくなってしまう。
 アーロンは酒を運んできた女給に、男を指さしながら話しかける。
「あの客、この店にはよく来るのかい?」
 常連客であるとのことだった。だが、いつも酔ってはあの調子なので、誰も相手にしないのだとも。なんでも、どこかの大貴族に仕えているらしく、それを鼻にかけての尊大な態度に、皆、辟易しているのだという。
 アーロンは女給の話に相槌を打ちながら、その男を観察する。
 面白くなさそうに酒を飲む割には頻繁に替わりを注文するところから、男が相当の酒好きであることが窺える。
 ふと、アーロンは、男がテーブルの下に置いている鞄に気が付く。男は酒に酔いながらも、鞄には常に注意を払っているように見える。
 アーロンは、この鞄を調べてみる価値は十分あると判断した。
 彼は女給を手招きして、何ごとかを耳打ちした。それを聞いた女給は驚いて、そんなことはできないと拒否する。アーロンは女給を言葉巧みに説得し、最後はかなりの量のプラスチック貨を手に握らせて、とうとう彼女を説き伏せてしまった。
 アーロンはおもむろに立ち上がり、男に近づく。
「やあ、旦那。調子はどうです?」アーロンはにこやかに話しかける。
「なんだ、おまえは?」
 突然、なれなれしく話しかけてきたアーロンを見て、男は不機嫌そうに言った。
「いやいや、聞きましたよ旦那。なんでも、とてもお偉い貴族様のご家臣だとか。そのようなお方と酒場でお会いできるとは、何たる幸運。是非、お近づきになりたいと思いましてね」
 アーロンはそう言って男の横に座り、女給にエール酒を持ってこさせる。
「まあまあ、旦那。これは私の奢りです。お近づきのしるしですよ」そう言って、その酒を男に勧める。
 男も、アーロンのへりくだった態度に満更でもないようで、渡された酒を素直に飲みはじめる。
 アーロンは男の自尊心を最大限くすぐりながら、男の仕える貴族のことや、仕事内容などを尋ねる。
 男は最初のうちは言葉を選んでいたものの、酔いとアーロンの巧みな誘導により、自分がD大公に仕えていることや、これから使いで北にある大公の別荘へ赴くことなどをしゃべった。
「大公直々のご命令でな。今夜、王都を立たねばならない。だがそうなると、しばらく王都の酒も飲めなくなるのでな。出発前にこの酒場に寄ったというわけだ。なんだと、その別荘の場所が聞きたい? そうだな、馬で3日、犬の足なら5日、街道を北へ進んだあたりに、北西の山岳地帯への分かれ道がある。道と言っても、普段あまり使われていない道だから、気を付けていないと見逃してしまうがね。その道をしばらく進むと、大きな山が見えてくる。お屋敷はその山の中腹にあるよ。なかなかの長旅なのでね。道中は、こいつをやりながらのんびり行くさ」男は杯を持ち上げて言った。
「そうですか。それはご苦労なことでございますね」
 アーロンは男と話をしつつ、自分と、彼の足元にある鞄との距離を目測する。
 やがてアーロンは、これ以上の情報は得られないと判断し、先ほどの女給に目配せをした。
 女給はエール酒の入ったジョッキを盆に乗せて運んでくると、男の目の前で手を滑らせてしまう。ジョッキは宙を舞い、男は全身でエール酒を浴びることになった。
 男は怒声を上げ、女給は平謝りに謝る。アーロンも女給を叱り、急いでタオルを持ってくるように言う。
 男は女給が持ってきたタオルを、ぶつくさ言いながら受け取り、びしょ濡れの頭や顔をタオルで覆う。そして、拭き終わって顔を上げたときには、そこにアーロンの姿はなかった。