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それはまるで宝石箱のように (1)リトル・シスター

 彼女には記憶が無かった。自分がどこで生まれ、どのように育ち、生きてきたのかがまるで分からなかった。
 彼女の記憶はこの小さな教会から始まっていた。彼女が教会のベッドで目を覚ました時、最初に目に入ったものは、彼女を介抱した教会のシスターの優しげな顔であった。
 教会は記憶のない彼女を受け入れた。彼女はシスターを母のように慕い、教会のために働いた。やがて彼女は、教会が信奉する〈ヒト〉の教えについて学ぶようになり、修道女見習いとなった。
 教会は、王都パグマイアを取り巻く沼地(マイア)に点在する村々のうちのひとつにあった。村には二十世帯、百名ほどの犬たちが暮らしており、教会は村の中心にあった。
 彼女は、教会を訪れる村犬に献身的に接した。村犬たちはそれを快く思い、彼女のことを親しみを込めて〈リトル・シスター〉と呼んだ。

「迷っているのですか?」シスターは祭壇の前でひざまずき、祈りを捧げているリトル・シスターに話しかけた。
 話しかけられた彼女は、ひざまずいたまま振り向きシスターを見上げた。そして立ち上がり、シスターに向き直って言った。
「はい、シスター。迷っております」彼女は伏し目がちに応える。
「記憶の無いわたしのような者が、ヒトさまの教えを説く牧師(シェパード)になる資格が果たしてあるのかと、自問しておりました。ああ、シスターお教えください。わたしはどうしたら良いのでしょう?」リトル・シスターは悲痛な表情で言った。
 彼女の問いに対し、シスターは優しげな顔で応えた。
「それは貴方自身が決めることですよ」シスターの返答は、幾分つきはなしたものであったが、声の調子は慈しみに満ちあふれていた。

 ここ数日間、リトル・シスターを悩ませているのは、王都の教会本部から送られてきた一通の書状にあった。書状には、もし彼女が望むのであれば、正式に牧師となることを許すと書かれていたのだ。
正式な牧師になれば、王都や各村々にある教会で布教活動を行うことになる。
 また、開拓団に入り〈ヒトの遺産〉の探索任務に就くという道もある。いずれにせよ、この村から出て、教会のために働くことにはなる。
 教会本部からの書状を読んだシスターは、彼女を祝福した。彼女の修道女見習いとしての働きが、教会本部に認められたからだ。また一方で、牧師には成らず、今のままこの教会に留まるという選択肢も与えた。牧師として生きていく苦労や苦悩を、シスター自身、身に染みてわかっていたからだ。
 しかし、リトル・シスターは知っていた。実入りの少ないこの小さな教会では、自分ひとりの食い扶持が、教会の財政に過度の負担を掛けていることを。少し色あせた僧衣を身にまとい、日々、犬々にヒトの教えを説くシスターを見るにつけ、彼女の心は痛んでいた。自分が牧師になりこの教会を出れば、シスターの暮らしぶりが少しは良くなるに違いないのだ。
 苦悩する彼女に、シスターは優しく語りかける。
「もし貴方が良ければ、明日、王都の聖アナ礼拝堂へ行ってらっしゃい。たしか、まだ行ったことが無かったはずよね。荘厳な礼拝堂でヒトさまに祈りを捧げれば、きっと何かを得られるはずよ」
 シスターの助言に彼女はうなずいた。たしかに、ヒトの導きがあれば、自分自身が最善と思える答えに辿り着けるかもしれない。彼女は王都の教会へ行ってみることにした。
 それに王都には、彼女が相談してみたいと思っている犬が住んでいた。
その犬はグスタフという名の開拓者で、たまにこの教会にやって来ては、彼女のことをなにかと気にかけてくれていた。彼女は教会本部のほかに、開拓団を訪ねるつもりでいた。
 グスタフに会えると思うと、なぜか彼女の胸は高鳴った。
 だが、特定の男性に想いを寄せることなど、修道女にあるまじきことである。
 そのことを十分に自覚している彼女は、これは何かの間違いであると無理やり決めつけ、その想いは胸の奥深くにしまっている。

***

 あくる日、彼女は王都を訪れていた。
 彼女にとって、王都パグマイアは初めての場所のはずであった。
 石造りの高い城壁で囲まれ、通りに石畳が敷き詰められ、数えきれないほどの建物がひしめき合い、多くの犬たちが行き交う大都市。この都市を初めて訪れたものであれば、しばらくはその風景に圧倒されることだろう。
 しかし不思議なことに、彼女にそのような感慨が沸き起こることは無く、目の前の風景をただ当たり前のものとして受け入れていた。

 まず彼女は、教会本部が置かれている聖アナ礼拝堂を目指した。彼女はほとんど迷うことなく、礼拝堂に着く。
 礼拝堂の扉を開けると、中からひんやりとした空気が流れ出てくる。礼拝堂の中は広く、奥の祭壇に続く通路には青い絨毯が敷き詰められている。通路の両側には礼拝用の長椅子がいくつも並べられており、祈りを捧げる信者の姿がぽつぽつと見える。
 彼女も長椅子に座ってヒトへの祈りを捧げる。リトル・シスターは長い時間をかけ、信仰の対象であるヒトとの対話を続ける。
 しかし、自らが最善と信じる答えを得ることはついに叶わず、彼女は自らの不信心を恥じ、ため息をついた。
諦めて椅子から立ち上がろうとした時、突然すぐそばを通りかかった老婆が話しかけてくる。
「アルマお嬢様ではありませんか?」
 リトル・シスターは驚いて老婆を見上げる。老婆は茶色い毛のコーギーで、目に涙を浮かべている。
「ああ、やはりアルマお嬢様だった! あれから、今までどうされていたのです? わたくしども使用人は、とても心配していたのですよ。旦那様におかれては心労ですっかり弱ってしまわれて。今ではあの時のことを、とても後悔されておられるのですよ。さあ、わたくしめがともに行きますから、今すぐ旦那様のもとへ参りましょう」老婆はリトル・シスターのそばにひざまずき、手を握り締めて訴えかけてくる。目からは大粒の涙が零れ落ちている。
 リトル・シスターは、突然、見知らぬ老婆に話しかけられ、さらには自分が他の誰かと間違われていることに困惑していた。だが、すぐに落ち着きを取り戻し、優しい口調で応えた。
「あの、おばあさん。わたくしのことを、他のどなたかとお間違えになられていると思いますの。だって、わたくしは、おばあさんのことをまったく存じ上げないのですもの」
 それを聞いた老婆は一瞬、動きを止めたが、すぐにリトル・シスターの方へにじり寄り、さらに強く手を握りながら言った。
「いいえ、貴方様はアルマお嬢様です。わたくしが奥方様のお腹から取りあげ、育て上げたのです。わたくしが貴方様を見まごうはずがございません!」
 リトル・シスターは混乱していた。小さな教会のベッドで目覚めてからの記憶しかない彼女の自我は、突然現れた老婆の言動により激しく揺さぶられていた。目眩がして、礼拝堂の床がぐらぐらと揺れている。頭の芯がずきずきと痛んだ。
 彼女は老婆の手を振りほどき椅子から立ち上がると、老婆から逃れるため、よろめきながら礼拝堂の扉へ向かった。
扉を開けた時、背後で老婆が泣き叫ぶ声が聴こえた。

***

 いつしか彼女は、開拓団の建物の前に立っていた。
 彼女は思った。とにかく、グスタフと会って話がしたい。彼ならきっと自分の力になってくれると。
 開拓団の扉を開けると、部屋の中にはいくつかの丸テーブルがあり、十数名の開拓者と思われる犬たちが座っていた。
 彼女がグスタフの姿を求めて心細げに部屋の中を見渡していると、一頭の老犬が話しかけてくる。
「やあ、お嬢さん。王立開拓団に何の用かね。仕事の依頼なら、受付は奥のカウンターじゃよ」
「いえ、あの……」彼女は少しためらいがちに言った。
「ここにグスタフという開拓者の方がいらっしゃるはずなのですが」
「あんた、グスタフとはどんな関係だ?」
 リトル・シスターがグスタフの名を口にすると、老犬の表情がにわかに曇り、詰問口調になる。
彼女は自分がグスタフの友人であり、彼に会うために沼地の村の教会からやって来たことを話した。
 老犬は彼女の話を聞くと、何かに思い当たったようで、その態度を軟化させた。
「あんたがあの……。ああ、何でもないんじゃ、気にせんでくれ」老犬はそう言って、彼女に近くのテーブル席に座るよう促した。
老犬も同じテーブル席に座り、腕を組んで、黙ったまま天井を見上げている。
 そして思案がまとまったのか、リトル・シスターに向き直り言った。
「実はな。グスタフとは昨日から連絡が取れんのだよ。それでワシも奴の居所を探しているところでな。だが、奴の足取りはいっこうにつかめんのだよ。あんた、奴から何か聞いたりしておらんかね? どんな些細な情報でもいいんじゃ」
 リトル・シスターは、ほとんどうわの空で老犬の話を聞いていた。
彼女の心はグスタフ失踪の事実で占められており、他が入る余地はまったく無くなっていたのだ。

『あの方が居なくなってしまった——』