『東京上空いらっしゃいませ』(メモ)

◆感想を検索してみると、車中でのキスに対して違和感を持つひとたちがいて私は驚いた。女と男と自動車でも十分なのに、そこに雨だぞ?キスがないことこそ不自然ではないか?何より、筋を追えば、二人の関係が匿い匿われる関係から恋愛関係へと移行していることは明白だろう。それでもなお、最後の車中でのキスに違和感があると言うのであれば、それは畢竟、彼らの間に恋愛を挟み込んではならない、あるいは、ユウというヒロインは無垢でなければならないという信仰(欲望と言ってもいい)のあらわれでしかあるまい。

◆白石がキャンペーンの打ち切りを決めたことを知った文夫がユウに憐憫の情を寄せるというのは当然の話であり、だからこそ彼は脅迫してまで白石にキャンペーンを止めさせようとしたのだ。そして、白石の幼児性を凝縮したような悪趣味なフロアでひとしきり暴れまわった2人は、エレベーターに駆け込み笑いあう……ここに恋愛の萌芽(というか私は恋愛そのものだと思うが)を見ないことは難しくないだろうか。

◆あらためて確認するが、彼女は17で死んだのである。彼女の死後の生が描かれるこの映画において、彼女は、生きていればするはずだったことを文夫という伴走を得て駆け抜ける。ユウが(今はなき)デイリークイーンでアルバイトをするのも、身寄りのないまま生きていかざるをえなくなった自分を匿ってくれる文夫への恩義だけではなく、自分がやり残したことをやっておきたい、そう考えたゆえでの行動だろう。そんなユウを見て、文夫はユウのバイト終わりに、屋形船を貸し切り、その屋根の上でユウと花火を見る。この映画のシーンの切り替わりはいつも突然だ。なぜ二人が屋形船の上で花火を見ることになったのか、花火を見たいとユウが言ったのか、花火を見ようと文夫が言ったのか、そうした説明は一切ない。文夫がいつ薔薇の花束を用意したのかも。けれども、薔薇の花弁を屋形船の上から花火と共に撒き散らしながら「私17歳、死んじゃった」と笑顔と共に独白する少女を見れば、そこには絶対に薔薇の花弁が必要であることは観客の誰しもが理解することだろう。そして、もしかしたら自分の出方次第ではユウの死後の生を自分の生よりも永らえさせることができるのでは……と文夫であれば(なくとも)そう考えるはずだし、観客もまたそのように期待を寄せるはずなのだ。その過程で文夫がユウに、ユウが文夫に、二人だけの世界の展望を予期したとしても無理からぬことだろう。

◆車に乗り込み逃走する二人のシーンは突如切り替わり、結婚式の会場にいる。やはりここでも、なぜ二人がそこにいるのか、その間の経緯はわからないままであるが(ジャズトロンボニストでもある文夫は結婚式の余興で、いつものメンバー――そこにはもういない佐山雅弘が笑顔でピアノを弾いている――と共に駆り出されたのだろう)、その突然の切り替わりは、そんな経緯などわかる必要もない、と言っているかのようですらある。とにかく、そこにはこれ以上望むべくもない最高の祝祭空間と、その後の二人の別離を確約する固い包容があることだけを、観客は嗚咽と共に見守ればよい。ここまで来てもなお、ユウと文夫の間にいかなる恋愛と呼び示しうるような感情の交流を見ないというのは無理がないだろうか。

◆元はと言えば、文夫には彼女を白石の車に同乗させないという選択肢もあったのだから、本来であれば(ここで「本来」というのは、ユウが事故死した後に彼女が文夫の部屋にやって来ることなく、ユウの訃報だけが彼に伝えられることである)、ユウが死んだことを知った文夫は自らの行為を悔いていたはずである。しかしユウのものではないユウの身体を纏ったユウが文夫の前に現れることによって、文夫はそうした悔悟に直面せずに済んだのである。

◆ユウがいた部屋を引き払う文夫。あらかたの荷物がすでに運び出された彼の部屋には、ユウがはじめてのバイト代(「日給でもらいました」に私はいつも泣いてしまう)で文夫にプレゼントしたカスミ草だけがある。そしてそこで文夫が着ている白いシャツは、ユウが実家に戻ろうとする際に文夫から借りて着ていったものと同じシャツだろう。

◆文夫は最後のシーンで新たに楽器を購入する。なぜか。それはユウと共に消えたからだ。不在であるものによって、現存しない者の存在が証される。文夫の楽器が消えてしまったことは、ユウの死後の生が文夫だけのファンタジーではなかったことを証している。

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