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「私は猫です」と言われたとき、ひとはどう振る舞うのか(メモ)

『日向坂で会いましょう』の影山優佳復帰回(「春日はつらいよ お帰り影さん」)での一幕。 若林の「影山に東村から伝えたいことがある」というフリ。BGMは「君に話しておきたいこと」でCMまたぎ。何が伝えられるかはわからないものの、「君話」という楽曲の誘導によって、影山の復帰初回ということもあり、何やらエモい展開が待ち受けているのではと誰しもが思ったにちがいない。 CM明け。「実はなんですけど…」東村がいよいよ口を開く。 「私は猫です。」 完璧なフリオチで大いに笑ったことを

    • ゴダール『映画史』(メモ)

      ◆いくつもの異質なものが接合され重ね合わされていく。とりわけ1A「すべての歴史」の終盤、アウシュビッツのイメージと「陽のあたる場所」のエリザベス・テイラーが重ねあわされる瞬間。なぜこんなことが可能なのか。驚くべきことに、両者はジョージ・スティーヴンズによって撮られたものであるという端的な事実のみがこの接合の原理となっているかのようなのだ。こうした奇妙な接合が、例えば写真に始まる複製イメージの歴史的展開の奇妙な仮説を打ち立てる。イメージは「死」に(だから「復活」に)賭けられる(

      • 『東京上空いらっしゃいませ』(メモ)

        ◆感想を検索してみると、車中でのキスに対して違和感を持つひとたちがいて私は驚いた。女と男と自動車でも十分なのに、そこに雨だぞ?キスがないことこそ不自然ではないか?何より、筋を追えば、二人の関係が匿い匿われる関係から恋愛関係へと移行していることは明白だろう。それでもなお、最後の車中でのキスに違和感があると言うのであれば、それは畢竟、彼らの間に恋愛を挟み込んではならない、あるいは、ユウというヒロインは無垢でなければならないという信仰(欲望と言ってもいい)のあらわれでしかあるまい。

        • メモ

          価値といえばなんでもかんでも市場価値と同一視するネオリベの短絡(バカさ)および非倫理性について、それらをいくらでも論うことはできるが(実際多くのネオリベ的言説はバカで非倫理的でしかない)、「でもさ、そもそもグローバル資本主義の現代に市場の外部なんてある?」と反問されたときにどうするのか。市場の外部などない。のか?いや、市場というコードの外部、と言えば何かありそうな気もする……「外部」をコードを壊乱するものとして措定できるとすれば、例えば、最も端的な「コード」の外部に暴力を挙げ

        「私は猫です」と言われたとき、ひとはどう振る舞うのか(メモ)

          メモ

          人間が描かれ、図像となるとき、そこには顔が常に随伴する。それはトルソーのみの彫像であっても同様である。そのトルソーが誰かの身体の模造である以上、それは常に頭部の、ひいては顔の(潜在的な)存在を想起させるのである。実際、ニケの袂に立つ私たちは、その彫像のもっとも高いところに位置していたはずの顔に思いを馳せずにはおれないだろう。私たちがこのときしていることとは、たとえば港湾に浮かぶ頭部のない死体の身許を確認しようとすることと本質的には変わらない。頭部はどこだ、顔を探せ、その顔こそ

          メモ

          原民喜の「夏の花」をあらためて読み直すと、その書きぶりは文学のそれというよりもルポルタージュである。文学にまだ凄惨な現実を語ることができなかった時代に(というよりも、言葉にはそもそも現実を語る機能などないのだが)、大量死の凄惨な現実を語ろうとする一物書きの格闘の痕跡としての「夏の花」。 これは仮説というか仮説以前の憶測だが、第一次世界大戦によって人類がはじめて直面した大量殺戮という過酷な現実を、その過酷さのままに描き出す能力を、それまでの文学は持ちえていなかったのだろう。近

          いつかの日記

          毎朝乗るバスの、私の目的の停留所までの1時間ほどの旅程の、ちょうど半分ぐらいのところに特別支援学校がある。当然、そこに通う生徒たちもそのバスに同乗する。ヘッドギアや補聴器といったギミックをつけていなければ、彼らは健常者と変わらない。 私はガラガラに空いたバスの最後列(修学旅行や遠足では必ずヤンキーたちが占有する場所だ)に座り、途中で一人、また一人と乗ってくる彼らの佇まいを、さして意識するわけでもなく眺めるのが日課となっている。 今朝はまず、私のふたつ前の席に両耳に補聴器を

          いつかの日記

          「ガルヴェストン」(2019/5/19)

          「ガルヴェストン」で、ロイがロッキーを見つけたときの、あの一瞬嗚咽を上げそうになったときのあの顔、取り返しのつかないものを見たときの、どうにか時間を戻したいのに、もう決定的にどうにもできないってときのあの顔、膝から崩れ落ちたくなるほどの悲しみだが、しかし、おいそれと悲しみが身体を乗っ取ってくれないときにするあの顔… あの顔は、そのまま、この映画を観た者たちの顔であるだろう。 メラニー・ロランが残酷なのは、ロイとロッキーの最後の接触をほんの十数秒ほどで終わりにしてしまう

          「ガルヴェストン」(2019/5/19)