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正論だけど、の続きの続き

「正論だけど云々」という言葉を、最近身の回りで良く耳にする。

「それは正論だけど…」の後の言葉は時にのみこまれることもあるも、否定的な意味合いであることは明確で、そう口にする人の表情は少し苦々しげな色を帯びていたり、振り切って諦観したようであったりと様々。

「それは正論ではあるが、一緒に気持ち良く働こうという気では更々ない」
だとか、
「それは正論ではあるが、それは現実に見合わないし、それで円滑に進めていくことはできない」
だとか。

正論で物事は進まないとはこのことか。

おそらく過去の自分も事情を酌まない『正論』を散々口にしてきたとは思われるも、自身を客観的に自覚できる域には至っていないためか、身の回りに起きて見る側に視点がある中で何となく実感ができた気がする。

ただ、「自分があまり関わりがなく事情も細かくはわからないこと」に加えて「自分がそれなりに関わりがあり大体の事情がわかること」についても『正論だけど』と言われる状況を経験し、その他にも思うところがあった。


思うところの1つ目は「相手はどうして正論を主張したのか」。

大体の人は「正論を主張するのは嫌われる」というような主旨のことを耳にし学んできている。
人によることは否めないものの、文脈やバックグラウンドによっては「正論だけど」で否定的に受け止められる可能性があることは多かれ少なかれ意識された上での主張なのだと想定できる。

正論を言わないことも出来たはずなのに、あえて口にしたのは何故なのか。

当たり前のことであるも、その内容がその状況で正しい(最終的に望ましい結果をもたらす)ことだと考えたからで、加えて、受け手側がそれを受け入れることに希望を持てたないしは信頼したからだと思う。

それは、その状況において最善のことであれば、どんなに耳が痛くても、感情的には反感を持たれても、それでも内容としては受け止めるであろうという受け手側への思いなのかなと。

考えてみれば、まったく受け入れてくれるだろうとは思えない相手には何かを伝えようという意欲はわかない(喧嘩を売っているというイレギュラーもあるかもしれないが…)。

主張した側が悪く言われがちな中で、受け手側はこのある意味での誠意を汲み取らねばなと思う。

もちろん、相手が独りよがりで振り翳した「正論」ではなく、広い視野で道理に適った主張をした場合においてのことであって、
そのような見極めが必要なところに、自分の事情の把握度合いや視野の広さの重要性を認識させられる…。


思うところの2つ目は「その後どうするか」。

自身が経験した「自分がわかること」については、相手の主張は耳が痛いかなり真っ当なものだった。相手が誠意を持って伝えてくれているだろうことが分かった。

それが諸々の事情で「正論だけど」と片付けられると、主張に対し事情が真正面から説明されることなく、そのこともあってか主張の内容を吸い上げて対応されることもなく物事が進むということがあるようだった。

それは相手のある種の誠意に対し少々失礼で、また、そのままではその主張を見過ごしてしまう勿体ないことのように思われた。

相手にも理がある「正論」なのならば、そこに含まれる真っ当な何かをいずれ包含するような状況が望ましく、
そのように心する・長い時間軸の中で対応していくのが、「正論」だと知りながら、もしくはこちらのバックグラウンド等十分にわからないリスクの中で、伝えてくれた相手への礼儀かもしれない。


「正論だけど」の続きは「否定」や「拒絶」、そのまた続きは「肯定」や「受容」なのだろうと思う。

そう考えると、内容自体の見極めにもその受容にも、自分がどこか試されているような心持ちになる。

様々な価値基準の中にいる自分が、時に一部の価値観で「正論だけど」と退けられた何かについて、それぞれの世界の物差しのみに囚われることなく、拾い上げて粛々と対応できるようであれればと思う。


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