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時の重さ

この夏のお盆休みを控えて、姉からどきりとするような連絡が来た。

「お母さんが長距離運転ができるうちに行きたいところがある」
「家族でこの夏遠出する唯一の機会」

自分達で運転するのが真っ当だというのがそもそもなのであるけれど、
姉妹ともに運転免許を持っていない。

地元の地方都市では、ちょっとした移動から観光目的の遠出まで車が主たる移動手段。

地元での移動は、今までほとんどを親に甘えてきた。

学生時代に運転免許を取らなかったのは、「今必要ではないから」「必要な時に取れば良いから」というのが理由。

せっかくの学生時代を必要性の不確かなものに浪費したくないとそれなりのことを言っていたけれど、
卒業後何年かして、結局は、どこで生きるかや親は老いるという現実を直視できなくて将来設計から逃げただけだとわかってしまった。


そういう罪悪感や後悔が痛い中でも、姉が「家族で」というのが珍しく感じられた。

現実主義者で観察眼の肥えた姉のことだから、親子の年齢的なことをよく考えてのことだろうと思われる。

姉から家族の話があったことは嬉しくも、同時に現実を突きつけられて痛いと感じる。

・・・・・

運転能力は年とともに衰えるのだと身をもって知ったのは、父の姿からだった。

コロナ1年目の夏、同じくお盆の時。
父の運転する車で姉と海まで遠出した。
車の中だけだったら大丈夫だろうと、本当にドライブだけの遠出だった。

2年目の夏は何度目かの緊急事態宣言が出て帰省せず、その次の帰省で父が運転する車に乗った時に、あの夏が父の運転で遠出できる最後だったのだと悟った。

お盆に帰省しないことを選んだ時はたかだか一夏のことと思っていたものの、次の帰省時にはその姿に驚かされて、老齢になってからの時の重さにようやく気づいた。


今年は、家族に限らず、この老齢期の時の重さに気づく機会が多い。


それは幼少期の時の重さと似ていて、少しの間に大きく人間が変わってしまう。

幼少期であれば成長著しいと喜べるものが、老齢期のものは見るに堪えない思いにかられる。

それ自体は尊いものだとわかっていても、特に本人が自覚的であればあるほど、そして、周りがその一時の貴重性を重んじていればいるほど、何か目を逸らしたい気持ちになる
(逆に、若さ故に気に留めていない様子にも、自分を見るようで心痛む場合もあるものの)。

平日週5日、ほぼ生産年齢の人しかいない会社内で過ごしていると、この幼少期や老齢期の時の重さは遠い。
週末にたまたま機会あって、または、帰省などイベントの折に改めて実感されるもので、忘れては思い出されその度に後悔を重ねている。

・・・・・

そんな風に年々、目の前にある存在がそのままではないということ、そして、その変化の過程は自分にとっては直視し難いものだということに気づかされていく。

辛いと言って適当に逃げている間に過ぎる時の重さと、逃げきれなくなっていざ直面した時の衝撃を考えると、今、できる限り冷静に向き合うのが良いのだろうと頭では理解している。

それは肉親だけではなく。

ただ楽しいだけの再会にはならないかもしれない。

それでも、楽しさの片隅の苦さもそういうものだと思いながら過ごせる夏であればと思う。

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