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芋ようかんの季節(食べ物と思い出)

今年も芋ようかんの季節がやってきた。
先日、スーパーの和菓子コーナーを眺めていて、はたと気づいた。
…芋ようかんがある!

甘くてほこほこした秋の味覚(芋・栗・南瓜)の中では、1番さつま芋が好き。栗の方がお洒落で、南瓜の方がおかずからお菓子までバリエーション豊かかもしれないが、主食である「芋」ならではの素朴な美味しさは何とも言えない。火を通した後の、黄色と紫のコントラストの鮮やかさが目にも嬉しい。

秋という特有の寂しさがある季節に、その逆に温かな思い出が多いのも、その「美味しさ」の理由の1つかもしれない。
日が傾く頃に聞く石焼き芋屋さんの声。小さな頃のおやつ時、ふかし芋の輪切りから漂う湯気。学校で育てて調理したり、ちょっと手の込んだおやつにスイートポテトを作ってもらったり…と幸せな記憶が尽きない。実家では、料理が得意な母が何気なく無水鍋でふかしていたが、大学進学を機に1人暮らしを始めてから、調理器具やシンプルな調理法で美味しくするコツ等、「美味しい」ふかし芋の背景を読み取れるようになり、その豊かさを知ったように思う。

店頭に並ぶさつま芋のお菓子は数あれど、芋ようかんが1番のお気に入りである。ねっとり系からほくほく系まで種類があるが、繊維を感じる優しいほくほく系が好き。すっとフォークが通って、口溶けは優しく、色味も自然なほんわかした黄色で、さつま芋らしさを味わえるが故、ねっとり系より他のお菓子より、より一層秋だなぁと感じられる気がする。お菓子という“加工品”に素材らしさを求めるのも、程度はあるとはいえ、どうかと思うのだけれども。

・・・
こうして秋の味覚を題材に、自分の「好き」(食べ物なので、より具体的な感覚としては「美味しい」)を言葉にしてみて、その思い出に拠って立つ要素があまりにも多いことに衝撃を受けている。
さつま芋が好きなのも、殊にほくほくした芋ようかんが好きなのも、幼い頃の記憶、特におやつのふかし芋に原点がある気がする。身近で誰かが作ってくれた、そんな人間由来の温かさ。
もちろん純粋に味覚として美味しく感じるというのが大前提だが(それを独立したものとして認識できるかはひとまず置いておいて)、他の秋の味覚も、他のさつま芋のお菓子も、並べて美味しいと思う中で、とりわけ好き・美味しいと思う理由を辿れば、小さな頃の思い出に行きつく。

これは何も、季節を冠する分「時」と結びつき想起する思い出の多い「秋の味覚」=さつま芋に限らないのではないかと思われはじめた。
大人になって、思い出によらずに好んで食べているものはどれほどあるだろうか。思い出によらないものは、知識で選んでないだろうか。それは「美味しい」と自覚的に食べているのだろうか。

…目が覚めるから毎日飲むインスタントコーヒーだとか、牛乳は体に悪いと小耳に挟んでそれでもコーヒー牛乳もどきが飲みたくて手に取るアーモンドミルクだとか、高タンパク表示が購入きっかけになったサラダチキンだとか。

平均寿命から数えればまだ4分の1ほどしか生きていないのに、固定された嗜好・思考で食べているのだと思うと少し慄く。食べ物は生活や健康に密着したものだから、冒険せず安全な(=馴染みがある、良いと聞いた(後者はむしろ危険かもしれない))道を選んでいる要素が多いのだとも考えられるが、身近なものでさえそうなのだから、と逆に、自覚の有無を問わず選択する物事全体に、ある時点を過ぎて新しい拠り所となり得る思い出を創り出せずにきたかのように感じられてしまう。

さらにいえば、仕事や趣味にかまけて、朝昼夜と、スマホ片手に・考え事をしつつ何となく食べることが多い。つまり、もう「食べる」という行為は、無感覚に行われる行為になりさがってしまっているのかもしれない。外食であればまた違うだろうが、身近な思い出が拠り所となった幼い頃に立ち返るなら、日々の食事の意味合いの重さに気づく。もちろん、日々が新しい子供と経験を積んだ大人では、前提となる物事の感じ方は異なるだろうけれど。

ながら食べは、行儀の観点からも、ダイエットやマインドフルネスの観点からもよくないと言うが、どこか他人視点・実益目的なそのどれよりも、新しい好きという思い出、拠り所となる自分の感覚を求めて、自覚的に食べてみようと思う。

…と書いたけれど、これもどこか目的ありきで、純粋に「食べる」こと、そこに思い出が自然発生することとは別な気がする。そして芋ようかんからだいぶ話がそれてしまった。

とりあえずは、芋ようかんから、新しい好きを見つけていこうか…(そうだ、川越に行こう)

#秋の味覚 #芋ようかん #美味

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