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今日は雨、降らないみたい | エッセイ

「今日は雨、降らないみたいだよ」
夫のことばに頷いて、それでも折りたたみ傘を押し付ける。しぶしぶとリュックにしまいこんだ夫は、いってきます、と玄関を後にした。がちゃりと鍵のかかる音が響く。部屋の温度が急に5度ほど下がったように思えた。

1人で眠るのはずいぶんと久しぶりだった。
義祖母が倒れて夫は実家に帰らなくてはならず、私は明日外せない予定があった。誰にもどうにもならない中で、潜り込んだベットは冷たくて少し泣いた。

とある時期を経て、私は1人で眠ることができなくなった。夫が恋しいだとか、そんな可愛げのある理由ではない(もちろん今はその要素もあるけれど)。
暗闇の中で目を閉じると、家中がぎしぎしと音を立てて崩れていくような感覚になる。いくつもの手が首筋まで伸びてきているような、力では到底敵わないほどの大きな男の人が玄関の扉を今にも破壊しようとしているような、そんな有り得ないとわかっていることばかりが浮かんで体が硬くなる。

過去になにがあったか、ここで話すつもりはない。いつか誰かに話せたらいいな、とは思う。性被害でも強盗でも火事でも新興宗教でもない、でも私にとっては心がバラバラになるには十分な夜をいくつも超えた先で、私はこうして1人で眠れなくなってしまった。夜が怖い。たった1人で過ごさなくてはいけない、音のない暗闇が耐えられない。このまま無理やり寝ようとすると金縛りになると知っている私はあきらめて、Apple Musicを起動した。ハルカトミユキというロックユニットの「ドライアイス」を流す。

僕らはいつでも少しの間違いで
蝕まれてゆく日々を
どうすることもできずにいた

人より少しだけ運が悪いみたいだから
仕方がないねって
君はずぶ濡れで笑った

薄いまぶたに口づけをする
何も見えなくなればいい
口移しした溜息の味
僕らの夜に出口はなかった

『ドライアイス』ハルカトミユキ

10年前に初めてこの曲を聞いたとき、この歌詞の『人より少しだけ運が悪いみたいだから』という部分で涙が出た。他人と自分を比べない性分ではあるけれど、でも、そうだよね、やっぱりあまりにも運が悪いよねと思った。

どうしてみんな、ごはんを美味しく食べられるんだろう。どうして自由に外で遊べるんだろう。好きな服を着て、新しいゲームをして。常に監視されているなんてことはなくて、きっと電話の着信音も怖くないんだろうな。羨ましいとか妬ましいとかではなくて、ただただ、あまりにもハードモードな人生だなとぼんやり思っていた。それを急に会ったことも無い他人に肯定されて、それが嬉しくて、同時に、この歌のように一緒に雨に降られてくれる人なんていないことに無性に寂しくなった。

1人でずぶ濡れだったあのころから、少しましになったりもっとずぶ濡れになったりしながら、それでも取り返しのつかないところまでは落ちないギリギリのところでつま先立ちをして生きてきた。
私はいつだって私のことが大好きだけれど、私を取り巻く環境はそうではないようだった。きっとそうさせてしまう部分もあるのだろう。仕方がないと思う。諦めの良さは幼いころから異常なほどだったと、いつか母は言っていた。

部屋が少し明るい。
時計を見るともう4時半だった。スマホは時間を忘れさせてくれる魔法道具だと思う。5時を過ぎると体の緊張が解けて眠れることを知っているので、少しほっとしてカーテンの下から漏れる薄い光を見つめる。外は静かで、たしかに雨は降らなかったようだ。

どうか私の好きなひとが、ずぶ濡れになりませんように。そっと願う。たったそんなことを愛と呼ぶと、わかるほどには大人になってしまった。

一緒にずぶ濡れになるより、一緒に傘をさして歩いたほうがいい。昔、一緒にずぶ濡れになった人とは上手くいかなかった。誰もがみな違う雨に打たれていて、それはきっと本質的には共有できないのだろう。だからせめて同じ傘でしのぐことを、希望と呼んだり愛情と扱ったりするのだろう。

ずっとは望まないから、せめて、今日だけは雨が降らないといい。そう思いながら、1日1日を重ねていく。

すこし瞼が重くなってきた。
目を閉じて、ゆっくりと押し寄せる波のようなものに体を預ける。明日、というか今日は、昼前には起きたいな。雨、降りませんように。

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