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私の文章は、祈りに近い | エッセイ

なんのために文章を書くの、とよく聞かれる。
答えはひとつしかない。誰かを救うためだ。

救う、という言葉はなんて大仰で傲慢だろう。
わかっている。私にそんな力もないし、文章ひとつで助かる命ならきっとほかにも救いがあったのだ。わかっていて、それを選ぶと決めている。

私の文章は、祈りに近い。
昔の自分に宛てていることもあれば、特定の人に届いてほしいときもある。顔も知らぬ誰かに響けばよいなと思ったり、なにかの答えを差し出すようなつもりで書いたりもする。

誰かを救いたい。
報われない気持ちに苛まれる人を。
自分を許せない人を。自信がない人を。
孤独な人を。
ひとり残らず、私の文章で救いたい。
偽善の匂いがする、呆れられるような夢だ。

つらい思いをしている人に、声をかけるのは難しい。まだ無邪気な子どもでいてほしいとか、無垢に笑ってるだけで十分なんだよとか。肩の力を抜いて欲しいとか。言いたいことは山ほどある。
私にとっては息を吸って吐いていてくれるだけでとっても有難いのに、私の価値など関係なく、その人たちは今日も苦しみつづける。それがとても悲しい。

私が人生で一番つらかったときはいつかな、と考えてみる。生きているうちにこんなにいろんな地獄を見られるなんて! と茶化しているうちにこの歳になったので、すぐには思い当たらない。神様もちょっとは加減してくれればよいものを、まあ仕方ないねとこの世に放り出されて見捨てられたような気さえする。救いはあったと言われたらあったのだろうし、なかった気もする。

地獄に落とされているときは息を止めて、ただうずくまって丸まるしかない。だから、なにをどうしたら人が救われるかなんてわからない。
ただ、同じような境遇の人たちがほんの少しでもいい、心が軽くなったり、くすりと笑えたり、ひとりじゃないんだと思えたり。そんな文章を書きたい。そう思っている。

今だから言えることもあるよ。
結局は時間は特効薬で、距離は回復薬だ。時間が経てば痛みは薄れ、対象から距離をおけば少しずつ元気になる。でもそれが、何年必要で、何kmあれば十分なのかなんて説明できない。それに、問題の渦中にある人にとっては『いつか報われるよ』なんて言葉は響かない。届けたいのはそれだけなのに。

不器用でも不器量でもどんな過去があってもなにを抱えていても何を薬としていても、泣きながらもまっすぐ歩こうとする人は絶対に、絶対に絶対に絶対に大丈夫だよ。どんな夢で目が覚めても何が聞こえても、記憶に殺されかけても先が見えなくても。

たったそれだけのことを、そう伝えてもきっと伝わらないから、手を替え品を替えてぐちゃぐちゃと文章をつくっている。私は人間の善意を過大評価しているので、誰かの幸せを祈る人がひとりでも増えればいい世界になると思っている節がある。

信頼のおける人がいること。
自分の居場所がいくつかあること。
逃げるのは悪ではないと知ること。
いつかは全部忘れられる日が来ること。
諦められないのは損ばかりではないこと。

それらを経て、私はこの世界で少しずつ息ができるようになってきた。なにも解決しなくても、時に後退しても、別によいのだ。
私は無力だ。誰も救えないかもしれない。でも、無力なりに模索すること、それ自体を私は光と呼びたい。あなたに出会えて、あなたに読んでもらえる文章でよかったと、伝えたい。

私の文章は、祈りに近い。
すべてを一瞬で解決する高名なヒーローより、じんわりと傍にある小さな光でありたい。
あなたの幸せを祈りつづける、光でありたい。

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