人間って、走れるんだ。
先週仕事終わりに「今日、山に走りに行くけど行く?」といきなりのお誘いに“え…”と戸惑うも、“い、行きたい!”のきもちが優った。
次の日はジムで楽しく筋トレ。
そして翌日、また山へ。
今日はオススメされた神社に来たら、山の上にありまたもや山登り。
友人には「どこを目指してるの?」と驚かれつつじぶんでも笑ってしまう。
走れるようになりたい。
その一心でジムに通うことを決め、いっしょに走ってくれるひとのおかげでランニングもはじめた。
アロエが筋肉の修復を助けてくれている。
走ることを人生に重ねながら走る。
たとえばレースは走る場所は決まっていて、走る道はだれもが同じということは、人生でも同じだなと思う。
それをどんなふうに走るかは、じぶん次第で、それぞれに必要な努力もある。
じぶんは今どんなふうに走れるのか、そしてどんなふうに走りたいのか。
そのために、どんなトレーニングが必要なのか。
そうやって、走れるようになっていく。
わたしはまだ心拍数が早くなると心臓が追いつかず息が切れてしまうため、急な坂を登り切ることができない。
歩かない、走りつづける。
それを目指そうと思っていたけれど、止まらずにいっぽいっぽ足を前へ踏み出している、そうやって歩いてるだけで素晴らしいと思うようになった。
じぶんが普通にできることが、“あたりまえ”になっているだけで、“歩ける”ことが奇跡じゃないわけではない。
わたしにとって、歩くことはできても、“走る”ことは“できないこと”になっていた。
できる、できないは、じぶんの思いこみの壁でしかない。
2本の足があって、“歩く”ことができるなら、“走る”こともできるはずなんだ。
それって、なんて素敵なことなんだろう。
ほんとうは、できる。
その力が、わたしには、ある。
“なりたいわたし”を知っていること、それを目指していることも素敵だし、なによりもなりたい姿になれる力があること、“なりたい”は“なれる”だということもまた素敵だなあと思う。
こどものころは、よく走っていた。
身軽だった。
走れるようになったら、あのころのように、身もこころも軽くなれる。
軽くなりたい。
あのころのわたしの感覚に戻りたい。
そう思ったんだ。
“なりたい姿”を、過去に求めたり、憧れのひとに重ねたり、想像に探したりする。
その姿を追いかけて、追いかけてももしかしたらその姿にはなれないかもしれない。
追いかけ続けているのに、“なれた”氣になれないかもしれない。
ほんとうは、なりたかった姿が、ほんとうになりたい姿なのではないのかもしれないから。
なりたかった姿にはならなくていいんだ。
“なりたい姿を追いかけて走ること”が人生だから。
そのものに価値があるから。
その姿自体が美しく、いのちを輝かせているから。
登った場所でしか、見えない景色がある。
登った場所でしか、吸えない空氣がある。
登った場所でしか、聞けない音もあるのかもしれない。
でも、登ってみないと、それはわからないから。
だからまずは登るんだよ。
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