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本氣で愛してみれ


今日は、7時間勤務のため、いつもより1時間早く家に帰って来て、いつもよりも早く執筆の時間を取っている。

きのうも22時半ころに寝て、5時半前に起きたので、7時間近く眠れた。

これまでよりも2~3時間多く眠るようになった。

じぶんにどんな変化があったかと言うと、内面がより柔らかくなった氣がする。

今までのじぶんというものを手放し、“こんなわたしでもいいんじゃない”みたいなあり方になれるようになった。

その時々で変わりゆくその形に柔軟に流れるように沿うみたいなあり方でいられるようになったのかな。

眠る時間が早くなったから、たくさん眠れるようになっただけで、まだ起きる時間を早くすることはできていない。

もう少し朝の時間が作れるようになったら、noteの執筆も朝にしたいなと考えている。

朝はモーニング・ページも書いているのだけれど、瞑想のときに感じたことなどをnoteにそのまま書きたい。


今日の夢に、はじめて学園に通う園生がでてきた。

双子の姉といっしょに、わたしが運転する車に乗せていた。

夢で行った覚えのある街に来ているらしかった。

狭い道路の入り口から入って、中心部に来た。

あるお店に入って、わたしだけがいろいろ試着していたから、みんなにも当てて合わせてみる。

そのとき、“あ、そっか。このひとたちはもう死んじゃうんだ”という直感があった。

“それか、もうここにはいない存在なんだ”と。

あたたかいけれど、寂しいような悲しいような不思議な夢だった。


今日の瞑想で感じたことは、“調子に乗るとき”なのかもなってこと。

じぶんのうちで感じて、あたためていたことを、そとに出して、いろんなものに触れて化学変化させていくときなのかもしれないなと思った。

小学生のときに、担任の先生に言われた一言。

「調子に乗るな」がわたしのなかでけっこう大きくて、ずっと残っている。

わたしはただ、まわりのひとを笑わせたくて、喜ぶ顔が見たくて、モノマネしながらふざけて先生をからかった。

でも放たれたその一言で、わたしの想いはしぼみ、だれかに届けることはできないんだと絶望のなかに落ちていった。

でも、今はちがう。

今までおとなの仮面をかぶっていた。

平常心と落ち着きをデフォルト設定にして常に持ち歩いた。

だけど、だれのため?

わたしを嫌いなひとのため?

そうして好きになってもらえたの?

どんなわたしでも、会った瞬間にわたしの本質に触れて“好き!”と言ってくれるひとは必ずいる。

ほんとうはもっと、子どもだし、できることもいっぱいあるけれど、できないこともいっぱいある。

わたしを好きなひともいれば、苦手なひともいる。

じぶんの“できること”にこころを込めて、愛をこめて生きていきたい。

この世界は、隠れるためにあるんじゃない。

傷ついて失敗して、癒されて立ち直って、前へ進む場所。

仕事を変えても、人間関係を変えても、いる場所を変えても、“わたし”は現れていく。

子どものころの“わたし”へ氷が溶けていくような、殻がはがれていくような感じ。


わたしは今、パン班も含めたB型作業班全体の朝会を任されている。

任されているというのは、朝会の呼びかけ、進行をする。

これが、わたしの悩みのタネというか、ちょっと苦手だ。

園生のみんなにちょっとした“お話”をするのに、なにを話したらいいかわからなくてぎこちなくなってしまう。

べつに、うまくできなくてもいいとは思う。

それでも、じぶんのなかでは園生たちに、笑うことはなくても、今日も楽しく一日をはじめてもらえたらいいなと思うから、なんとか“できる”ようになりたい。

わたしは、もっと園生たちのことを知りたいと思う。

でも、わたしはじぶんのことを、みんなにあんまり話さないし、話したいとも思わない。

相手を知りたいと思うなら、まずはじぶんのことを話さなくてはいけないのかもしれないな。

わたしがじぶんのことを話すから、相手もじぶんのことを話せる。

じぶんがこころを開いた分だけしか、相手もこころを許さない。

写し鏡のように。

ありがたいことに、今パン班で少しずつ新しいじぶんの一面を引き出しているところだから、わたしも日々try&errorで挑戦してみよう。




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