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愛になんて、なんなくていいんじゃね


毎日noteやめます!


きのうは、職場の先輩のおうちでの演奏会に招かれて、おじゃましてきた。

先輩ともうひとり、職場のかたが来て、2人はそれぞれの持ち曲から5曲ずつ披露してくれた。

聴けばたった1,2分で終わってしまう演奏のために、何十時間という時間をかけて練習する。

見えてるところはほんの少し。

見えていないところのほうが多い。

ひとの意識も、人生も、同じだね。

でも、だからこそ地下で日の当たらないところで、コツコツとそれに向き合ってる時間は、そのひとの人生を味わい深い滋味深いものにするのだ。


フラットに戻って、じぶんの優先順位をつけたら、つづけるつもりだったセミナーをあっさり手放すことになった。

今、ワクワクするのは…で選んだことを大切にすることにした。

思えばわたしは、“遠くのもの”への憧れをずっと抱いて生きてきた。

それは、“今ここにないもの”。

そして、“今ここにあるもの”をないがしろにして生きてきたんだと思った。

だって、わたしの理想は、今ここにない、遠くのどこかにある、と思ってたから。

遠くのものを追いかけて、今ここにいるじぶん以外のわたしになれる氣がして、あちこち探しては、いろんなものに手を伸ばしてたな。

身近にいるひとのことを、大事にしてこなかった。

向き合ってきたつもりで、わたしの目はいつも目の前のひとや出来事を通り越して、どこか空を見つめていたのだと思う。


今日は、駅前のマーケットに行って、それから母と念願のお茶会にも行けた。

その前に、ずっと氣になっていたフク屋さんに入ってみた。

そこで、いろんなジーンズを試着させてもらった。

履いてみるまでわからなかったけれど、履いてみたら意外とじぶんに似合うとわかって、とてもうれしかった。

わたしは、近くでは売っていないような、ヴィンテージのフクをネットで探すことが好きだった。

でも、海外に住んでたときも、ほんとうはじぶんの足を運んで、ブロカントやフリップリーで見つける“宝もの”が好きだったはずなんだ。

それなのに、日本に帰って来てからもわたしは“遠く”のお店で古着を見つけて買っていた。

それは、“ここにはない”すごいものを見つけるためだった。

そして、日本ではだれも着ていないようなこだわりのフクを着ているじぶんを、ひとと区別したかったのかもしれない。

でも、手元に届いてみてはじめて、そのフクがじぶんにいまいち合わないことに氣づくこともたくさんあって、その瞬間“魔法”は解けてしまった。

そのガッカリ感をたしかに感じていたはずなのに、わたしは意識を向けていなかった。

じぶんの人生と同じだと氣がついた。


ひとと話すたびにそちらへなびいて、じぶんの選択肢や意見が変わっているようにも見える。

ひとつのものごとを、深く、いろいろな角度から見られるようになりたい。

今、わたしが窮地に立たされてどうしようもないというとき、駆けつけてくれるひとが、わたしには何人いるだろう。

そして、逆に相手が同じ状況になったとき、わたしが駆けつけると言えるひとは何人いるだろう。

お互いがそう思い合えるひとって、32年間生きてきたわたしにはゼロかもしれない。

そう考えたとき、まずは今じぶんがいるここで、ゼロをイチにすることを目指したいと思った。

遠くのだれかから、似合うかどうかわからないたくさんのフクを買うのではなく、触って着てみて、“似合う”とこころがときめいた一着を大切に着る。

なにかを買うにしても、できるだけ近くのだれかから買う。

“これならこのひとのところに行こう”

そうやって、たくさん足を運んでいきたいと思う。

じぶんの立っている足場から、しっかり踏みしめて固めていきたいと思う。

身近にいる、まわりのひとにもっと耳を傾けて、しっかり見つめて大事にしていきたいと思う。

地上で天国を創れたら、天上でも創れると言うように、今ここに創れないものはどこに行っても創れない。

そんなこと言ったからって、ムリに愛になんて、なるなよ。

リアルなじぶんに向き合うことになって、できてないじゃんとか、これ愛じゃないじゃんってじぶんは言ってくると思う。

そういうときは、“そうだよ”って言う。

できてないよ、愛じゃないよ。

愛になんてならなくていいんだ。

ならなくたって、できてなくたって、愛じゃなくたって、もともとわたしは愛であるから。

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