今日もわたしの経験値は上がっていく
今日は、どんな言葉を、ここに、残していこう。
映画でも音楽でも言葉でも、形はなんでもいいのだけれど、いろんな表現を見ていると思う。
表現とは、わたしが、ここに、今を生きた証だなって。
うちがわにあふれる想いを、わたしなりに熟成させてカタチにしていきたい。
そうやってなにかを残していきたい。
それが、なにかいい影響となってこの世界に波紋を広げていったらいい。
大きな波となって。
そう願う。
わたしが今、このパソコンと向き合っているとき、キーを叩く指から魂がほとばしり、この世界にマジックをかけ、奇跡を起こすような、そんな力を宿したい。
美しいものに触れたときに、こころが震えるように。
わたしにもそんな魔法が使えたら…
でも、憧れや想いはカタチにして、行動しなければ、それはわたしのなかで日の目を見ることなく腐ってしまう。
だから、純粋な想いをこころに灯しながら、少しずつでもわたしの物語を紡いでいく。
わたしの世界から真実を見抜けるだけのこころの眼を磨きつづける。
真っ白なキャンバスに好きな色を重ねて、わたしの世界を創りはじめる。
肉体が夢から覚め、閉じた瞳に白みがかった光が戻るとき、このままずっと目を開けずにいられたらとひっそり思う。
わたしのなかに、“こんなもんじゃない”という想い、熱いものがある。
それを、どうカタチにしたいのかわからない。
この人生で、なにを成していきたいのか。
この世界のなにに、そのきもちを向ければいいのか、わからずにいる。
✺
“真実の愛”にこころ震えるじぶん。
それをわたしのまんなかの軸として生きたい。
映画では、主人公たちを応援していられるのに、現実のじぶんの物語は先が見えない。
じぶんのこころの扱いや、どんな対応を取ったらいいのかも、わからない。
わたしは、“真実の愛”という“答え”に合っているのだろうか。
“完璧”という概念は、生きている人間には当てはまらないのだろう。
けれどそれは、“傷ついている”からこそ“不完全”で、だからこそわたしたちは“完璧”なのだという矛盾した真実でもある。
ひとはそれぞれの物語があり、それゆえの“頑固さ”とか、“こころに正直になれない”とか、いわゆる“傷”といわれるものを抱えて生きている。
そういう、現実をうまくいかなくさせているあらゆる歯がゆさを、そとからそれを“見ている”視点のわたしは、応援したくなる。
なぜなら、その視点のわたしは“真実の愛”という“答え”を知っているから。
でも、物語を生きる“わたし”の視点になると、とたんに視界は曇ってしまうものだ。
じぶんに腹を立てたり、“答え”がわからなくなったりする。
それでも、サポートを感じたり、サインを見つけたり、たくさんの“言葉”や“対話”を通してじぶんと向き合いながら、じぶんのなかの“答え”を信じて進む。
じぶんが“知っている”こと、“導かれている”こと、“正しい道を進んでいる”ことを信じて。
実際物語のなかにいるわたしも、こころの奥では“答え”を知っているから。
そして、なんにも“完璧”と言えないわたしこそが“正解”だということを。
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“こんなもんじゃない”じぶんは、なにか大きなことを残したくて、どこかで“このままで終わりたくない”と思いつつ、でも現実を変える行動という一歩を踏みだせないでいるのかもしれない。
その場で足踏みして止まっている。
それは、機が熟すのを待っているとも言える。
熟成を通り越して、腐敗してしまわないちょうどいいときを。
それでもわたしは、じぶんのうちに秘めた熱い想いを、なににもカタチにしてこれなかったと思ってしまうんだ。
じぶんのうちに宿る“魔法”をわたしはまだなにも使っていないのではないだろうかと。
そして一生、その力を発揮しないまま、この世界を旅立ってしまうのではないかと思ってしまう。
そんな“なにも生みだせない”じぶんは嫌だ。
わたしはそういう焦りから、じぶんにとっての“いきがい”を必死で見つけようとしているのかもしれない。
今のわたしは、そんな切実なわたしの痛みから来る数々の行動を、“いのちのほとばしり”とは思ってくれないかもしれない。
けれど、どこかでわたしの“物語”を見ているだれかは、とっくに知っているのだろう。
それも、“わたし”というヒロインの“ハッピーエンディング”のためには欠かせない要素だということを。
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