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机のうえがきれいになった


3日からの4連休。

今日が最終日。

連休中、隙を見ては片づけていった机のうえ。

置いていたものがすべてなくなり、きれいになった。

とてもスッキリしたきもち。

なにか思い立ってやりたいことがあっても、すぐにはじめられる。


今、SNSとのつきあい方を実験中だ。

スクリーンタイムを見てみたら、なにかと平日でも1日3時間使っていることを知って、まあショックだった。

“え、わたしって、ケイタイなんかに1日3時間も時間を使ってるんだ”

“なんか”とか言って、使っておきながらそれはズルいけど。

とりあえず“なんとなく”毎日開いていたアプリをアンインストールした。

画面にないだけで、“それがなくてもやっていけるじぶん”を思い出した氣がする。

そして“そこにある”という存在感がいかにパワーを持っていたかということも感じた。

机のうえがスッキリして、SNSとのつきあい方もスッキリして、すべては連動している。


もうひとつ、向き合おうと思っていることがある。

ロマンスだ。

わたしは、きちんとロマンスの相手に向き合ったことがなかったのだと氣づいた。

“惹かれている”のは事実なのに、こういうところがわたしの“理想”に合わないもんねとそれ以上進まなくていい口実を探しては、相手に向き合うことを避けてきたのだと思う。

そこと向き合えば、ひとりのときは決して見なくて済んだ、じぶんの粗さを見つけ出してしまうことになる。

それがエゴちゃんは怖いのだ。

今向き合っているひとが、“わたしの運命のひと”なのかどうか。

それだけが知りたいのだ。

彼がファイナルアンサーなら、やっと重い腰を上げて、“どれ、しゃあない、向き合ってやるか”って思えるのだろう。

でも、たとえ彼が“そのひと”ではなくて、最終的には結ばれなかったり、結ばれた先に別れがあったりしたとしても、その過程で学んだことが今のわたしにとって必要なことなのだと思う。

思うことなんて、たやすいじゃないか。

“最後のひと”じゃないなら、なんでそんなめんどくさい。

じぶんから傷つくようなこと、敢えてしなきゃならないのさ。

きれいに“職場の同僚”でいられたらよかったじゃないか。

と、エゴさんが盛大に喚いております。

は~あ、あなたに今一番必要なのは、男女の間で起きる感情の機微、そしてそこからじぶんで掴み取っていく学びなのよ♡

好きっていう感情を表に出したら、氣まずかったり、傷ついたりすることももちろんあるでしょうよ。

でもね、あなたは“相手を好き”の前に、“じぶんを好き”なのよ。

“わたしはわたしが大好き”をいっぱいに貯めなさい。

そうしたら、だれかを同じように愛することも自然にできるから。

あなたに掴んでほしいのは、一番はその感覚なのよ。

って、わたしの恋愛ママが言っております。笑

わたしのなかは、にぎやかね~


今日ひとつ、ビックリしたことがあったの。

今までの“わたし”像がひっくり返った。

わたしは今は自然のなかで過ごすことが好きだと思っているんだけれど、この前大空ヨガのときにまなかさんに「小さいときも自然のなかで遊んでた?」って聞かれたの。

そのときは友だちとそとで走って遊ぶのが好きだったかなあって答えたんだけど、考えてみたら自然のなかで遊んでた記憶はなかったのね。

それで、母に「わたしって小さいころも自然のなかで遊んでた?」って聞いてみたの。

そしたらね、なんと、「いやあ、そと出たくなかったよ。虫も嫌いだったし」って。

え!?!?!?!?

わたしずっと、じぶんは自然が好きなんだって思ってたんだけど、それウリにしてたんだけど(だれに売ってたわけでもないけど)?????ってそりゃあ、けっこうな衝撃を食らったのでした。

でも、“そっか、なんだわたしって、ほんとうに小さいときは、虫が苦手で、ほんとうは家にいて、家で遊ぶのが好きなおっとりした子だったんだな”っていうことがわかって、なんだか不思議とホッとした感覚があった。

“やっと、ほんとのわたしに出会えたよ!!!”

“なあ~んだ、これがわたしだったんじゃないか!”

という、安堵感。

自然が好きというわたしも、ウソではなかったけれど、ちょっと無理して背伸びしてる感があったんだね。

虫が平氣になったのも、そとでみんなと遊ぶようになったのも、実は双子の姉がいたからなんだと氣づいた。

野球のバットをふりまわして、男の子に交じってドッジボールで活躍してしまうような姉といっしょに遊ぶうちに、わたしもいつの間にか、小学校では陸上部に入り、友だちと走りまわって遊ぶようになったんだった。

そのことに今の今まで全く氣づいていなかったんだなあ。

わたしは生まれつき、自然が好きで、虫もだいじょうぶで、そとで遊ぶのが好きな活発な子だと思い込んでいた。

それは、ちょっと苦しかったよね。

そして、さらに進んでみて、“わたしが熱中していたこと、好きなことってなんだったんだろう”を掘り下げてみた。

“人形遊び”っていう話が出て、でもじぶんのなかでそこまで“好きだったー!”という感覚はなく、思い返してみると、思い出したことがあった。

小学校に入る前、幼稚園生くらいのころ、わたしは“おめかし”が大好きだった。

幼稚園からの大親友といっしょになが~い髪をツインテールにして、おそろいなのがうれしかった。

そのころのわたしは、夢みるお姫様ポーズでうふっと笑ってた。

きっと“わたしってなんてかわいいんだろう”って思ってたんだろうなあ。

友だちの付け爪をつけて、公園で遊んでいる幼なじみの男子の前で見せびらかして通っていた。

かなり、おませでお茶目な女の子だった。

4つ上の姉からは「生れたときから、この子はオシャレが好きだ~って顔を見て思った」って言われたこともあった。

そっかあ、わたしは生まれながらにして“個性がフクを着て歩いて”たんだなあって、すごく納得して、腑に落ちた。

そうしたら、いろんなことが記憶の倉庫で、パチッパチッとあるべきところに収まっていくのを感じた。

小学生のときにみんなで紙を使ってドレスを創ったときモデルになったこと。

11歳で海外にホームステイしたときも、はじめてひとりでじぶんが好きなフクを買えることにすごく興奮していたこと。

大学生のときに誘われて、友だちにモデルをしてもらってPeople Treeのファッションショーをしたこと。

ニューヨーカーが街を歩くストリートスナップにイキイキしたいのちの輝きを感じていつも惹かれてしまうこと。

いつもそこには秘かなファッションへの熱があった。


そんな“ほんとうのわたし”を完成させるパズルの、欠けていたいくつかのピースが今、ちゃんとはまった氣がする。

それがわかったわたしは、いつもよりちょっと、ほんとうのじぶんにホッとくつろいでいられる氣がする。


軽くなるっていうのは優雅になることでもある。

もともとのじぶんになるっていうことでもある。

でも、もともとのじぶんになるっていうことは、

“え、あなたってこんなひとだったの?”って思われるような、

今まで社会で生きていくうえで身につけきた、

相手に好かれるようないいところを、

ひとつひとつ削ぎ落としていく結果、

今まで見せてきたじぶんとは全く別のひとになるということでもある。

でも、それは本来、すべて“わたしがわたしになる”ということなんだ。

そして、そこにはもともとのわたしに戻っていく安堵と喜びがある。

だから覚悟しよう。

それでいいのだ。




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