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震災の記憶~覚悟を決めたあの日(前)

2021.01.17 今の私 あの日を忘れないために


阪神大震災から26年という月日が流れました。


今朝は今までで一番、心穏やかにこの日を迎えられた気がします。
それはこの長い年月がそうさせるのか。それともあの日から覚悟したことが少しずつでも私を前に進めたからか。(そのどちらもでしょうが)

初心を忘れないために、あの日起きたことを書き記した日記(mixiやfacebookなど)をまとめておくことにしました。
日記は、2002年のものからになります。
1996年から2001年までも何かしら書いていたのだとは思うのですが、過去の日記は削除していたようで見つかりません。
この間に私は離婚し、脚本家になるべく住み慣れた兵庫県を離れて上京しました。
ありがたいことに上京してまもなく、舞台脚本やラジオドラマ、連続アニメなどのお仕事を得て、まがりなりにも脚本家として歩きだすことになりました。2013年からは小説を発表することとなり、現在は小説家としての仕事がメインとなっています。

何かを創り出す人になりたい――その思いは幼い頃からありました。
1995年当時の私は、脚本に興味を持ち、勉強も始めていました。でもどこかでまだ、憧れの遠い世界だった気もします。
甘ちゃんだった私が「創り出す人になる」と決めたあの日の記憶――。

日記ですので、何度も同じ内容に触れています。少々くどいかなぁと思う部分もありますが、あのときの熱量そのままに残しておくことが必要だろうと、編集せずに前後編に分けて公開します。

前篇は2002年から2005年まで。生々しい記憶を徐々に客観視していく自分がいます。

2002年1月17日 6432の命

6432……
 毎年触れてきている話ではあるけれど……やはり書いておこうと思う。もうたくさんだと思われる方もいらっしゃるだろうけれど……やはりあの時経験した者として、これは書いておくべきだと思うのだ。
 1995年1月17日午前5時46分。
 あの日から、毎年この日のこの時間を迎えるのが嫌だった。
 あの瞬間に失われた多くの命と生活を思うたび、胸が苦しくなった。
 生と死、その差はわずかだった。
 ほんの少しずれていたら、間違いなく私はマンションの下敷きになっていたか高速道路から落ちていたことだろう。
 あのたとえようもなく怖ろしい地鳴りと激しい揺れ。そして、その後に訪れた不思議な静寂。その静寂を突き破ったヘリコプターの轟音。
 嘘でしょと叫びたくなる衝動。
 地割れを起こした校庭。
 液状化現象で吹き出した砂で汚れた駐車場の車。
 無くなった線路。
 雪崩のように総崩れを起こし、道をふさいでいたスーパーマーケットの残骸。
 軒並み斜めになっていた建て売り住宅。一番最後に倒れかかった先に住んでいた人は亡くなったんだよと教えてくれた見知らぬおばさん。
 開通した電車の中から見た長田の町。
 「あ~」思わずあがった人々の溜息。
 「バイトから帰ったらアパートがなかったんです。下には友達が住んでいたのに」そして、その後どうやって片づけたか記憶がないのだと言った知人。
 粉雪が舞う中、給水車に並んだこと。水があんなに重いものだと初めて知った。
 風呂に入れることの幸せ。買いこんだけれど、結局殆ど使わなかった水のいらないシャンプー。
 少しずつ片づけられた街並み。粉塵をさけるためのマスク。
 こんな狭い場所に? と驚くようなところにも建てられていた仮設住宅。
「がんばろう神戸」の合い言葉で闘ってくれたオリックスにどんなに勇気づけられたことだったろう。
 七年という時がすぎて……
 イチローは大リーグに行ったし、街に仮設住宅はなくなり、だいぶ美しくなった。
 私はといえば、東京の地震の多さにも慣れ、毎年、この日の明け方には目が覚めていたのに、今年は眠ったままだった。
 しかし、記憶の引き出しを開けてみれば、あの日の私がそのままにいる。
 記憶が断片になり、少しずつかすんでいったとしても、あの時、生き残されたこと。(生き残ったというより、残されたという気持ちがつきまとう)。
 そして、それはきっと何かをなすために残されたのだと思ったあの時の気持ちは忘れないだろう。
 6432人の尊い命に黙祷。 



2003年1月17日 「がんばる」という言葉をはじめて好きだと思えたあの日

 阪神大震災から8年
 去年も書いたけれど、今年もやはりまた書いておこうと思う。あの日のことを……。
 実は、8年が経ってはじめて、ほんの少しだけれど、もう書かなくてもいいんじゃないかという気持ちがでてきてはいた。
 あの日の朝から起きたことは明確に覚えている。
 まるで映画を見るかのように、あの日の自分の行動を思い出すことができる。
 けれど、あの日のことが既に私の中で、過去の出来事になってしまったのも事実だ。住んでいた場所とも一緒に暮らしていた人とも、離れてしまった今となっては。
 ある意味、あの日からの8年は私にとって、地震以上に激しく動いた日々だったのかもしれない。
 ごくごく普通の会社員の暮らしから、全く環境が異なる世界に飛び込み、全く住んだこともなかった土地にやってきた。
 成功するかどうかなどお構いなしにやってきた自分。
 私は臆病で心配性なくせに、思い切りだけはあるようだ。
 いろんなものを失った代わりに得たものもある。
 いや、失ったからこそ見えてきたものの方が多い。
 本当に大切なものと
 本当に必要なものと
 そして、本当に自分が生きるということの意味を
 神戸の街が教えてくれたあの日
 「がんばろうや」
 トアロードの電柱に貼られた小さな紙切れ
 そう、何があっても生きていける
 「がんばる」という言葉をはじめて好きだと思えたあの日
 8年経って、ようやくあの日は、くじけそうになっていた自分に活を入れてくれる日になった。

2005年1月17日 十年なんて一瞬

 十年一昔と言う言葉、昔それこそ10年前はそうだなぁと思っていた。今は、十年なんて一瞬だと思う。確実に時は過ぎているんだけど (^^;
 さて、今日は1.17。もう東京に住んで六年が過ぎたし、当事者以外にはもうどうでもいいことなのだろうと思いつつ、やはり震災当時のことを思う。
 神戸には特別な思いがある。思いを置いてきたというほうが正しいのかも。あの震災に遭わなければ、たぶん今ここにはいない。
 震災に遭った時、シナリオライターという仕事を意識し始めて2年、きちんと勉強を始めて丸1年が過ぎていた。
 震災の後、最初に書いたシナリオ(習作)は、燃えさかる火が迫ってくる中、建物に埋まった父を見殺しにするしかなかった娘の話だった。普段、父と娘の仲は悪い。しかし震災の異常事態の中で、娘はやはり父を助けようとする。でも父はもう助からないとわかって、娘に「お前だけでも逃げろ」という。娘はそこで始めて父の愛情を感じるという話だったように思う。
長田区の大火災――1年前まで父は長田区の官舎にいた。あと1年早かったら、父と母があの中にいたかもしれなかった――を見ながらなぜか書きたいと思った。書かなくちゃと思った。今思えば、自分の中で何かを整理したかったのだと思う。
 阪神大震災十年の記念番組が目白押しだけれど、たぶんそれを醒めた目で見ている人も多いと思う。それを冷たいとは思わない。もう観たくないという人もいるだろう。それも仕方がないことだと思う。
 新潟の地震も津波も被災者とそうでない人の間に温度差が起きるのは仕方ないことだから。
 地震発生直後、地震のメカニズムや起きた時にはどうしたらいいかと論じる番組があった。それはそれで大事なことではあるのだけれど、被災者だった自分にはものすごく違和感があった。そんなことより今起きている現実(水不足など)にどう対処したらいいのか教えて欲しかった。
 今、津波のメカニズムやら起きたらどこまで水が来るなどの番組を観ながら、ふと違和感を感じることがある。
 あの時期にあの出来事があったおかげでそう感じることのできる自分がいる。
 創作者として、当事者との温度差や違和感を感じることができる自分を忘れないでいようと思うのである。


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