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震災の記憶~覚悟を決めたあの日(後)


2021.01.17 コロナ禍の今

阪神大震災から26年になりました。あの経験がなければ今の私はいません。初心を忘れないために、あの日起きたことを書き記した日記(mixiやfacebookなど)をまとめておくことにしました。
後編は2009年からとなります。
この頃は、シナリオライターとしてデビューを果たしており、さらに客観的に自分のことを見つめるようになっています。
最後は2016年 5年前の日記。この日記の中で私は絶望の中にいて、なんとか自分を奮い立たせようとしています。
壊れたらやり直せばいい――震災が私に教えてくれたことです。

今、コロナ禍に襲われて、あらゆるものが変わりました。でも人はいつだってやり直せる。そう強く思えるのも震災を経験したからこそだと思えます。
頑張りましょう、一緒に。また明るく笑える日がきっと来ます。


2009.1.18 大切な何か


震災からもう14年経ったという。
あの朝のことは鮮明に覚えているが、少しずつ薄れてきている部分もある。
ただ、最近よく思うのが、人間、生きているうちに無駄な事なんて一つもないんだなぁということ。
震災なんて遭わなければそれに越したことはないわけだけど、あの時の経験があったからこそ、今の自分がいると強く感じる。
あの頃、自分が東京に住むようになるだなんて思っていなかったし(憧れはあったけど)、曲がりなりにも自分がシナリオライターとして食べていけるようになっているということもわからずにいた(プロになるんだとは思っていたけど)。
今、こうして東京で一人暮らして、いろんな人と出会って、シナリオを書けていること……不思議だなぁと思う。
なんでもかんでもの運命論者ではないけれど、でも縁は強く感じる。
今まで出会った人もこれから出会う人も全て、自分の人生にとって、何らかの意味があるのだと思う。
特に、深く付き合うようになる人というのは、きっと何か深い意味をもって現れた人なのだろう。
そう思うと、一緒にいる時間がとても愛おしく思えるのだ。
昨日はようやく映画の初稿を書き上げた。
といっても、これはたたき台にしか過ぎない。
これからのブラッシュアップが大変だろうと思うのだが……こうして仕事ができることも、とても愛おしい。
この仕事では特に、さまざまな縁を感じる。
ひとつには、いろんな出逢いが重なってこういうチャンスに恵まれたから。
もう一つには、調べているうちにもいろんな符号が現れては重なって、作品の後押しをしてくれているような不思議な感覚があるから。
書いている最中も楽しくて楽しくてしょうがなかった。書いている時間が愛おしいという感覚ってあるんだなぁって。
不思議だけど、こういうのがご縁じゃないかと思う。
映画だからこれからどうなるかなんてさっぱりわからないけど、これを書き上げることは、今の自分にとってとても必要なことで、きっと自分の中に、大切な何かが残ると思う。
その何かがきっとこれからの私にとって、深い意味を持ってくるのだろう。

  2010.1.17 震災は私の人生を変えた


「神戸新聞の七日間」というテレビを観た。
 明日の早朝、震災15年めを迎える。
 あの日、私は甲子園球場にほど近い西宮で震災に遭った。
 高速道路がなぎ倒しになっていた所のすぐ近くといえばいいだろうか。
 私は、産まれてまもなくから、実家が姫路に引っ越す13歳まで、神戸に住んでいた。神戸の西にある垂水という場所だ。大学は東灘の甲南に通っていたし、就職したところは中心街三宮にあり、初めての一人暮らしは中央区にあるポートアイランドだった。
 それまでの人生の殆どの記憶が神戸と重なりあっていた。
 あの朝のことは今でも克明に覚えているし、何を感じたのかを忘れることはない。
 住んでいたマンションは幸い、頑丈な造りで倒壊の恐れはなかったが、液状化現象で、マンションと土地との間に1m近い段差が出来ていた。
 電気は比較的すぐについたものの、水やガスといったライフラインが途切れてしまい、3日目だったろうか、姫路の実家に逃れた。もちろん電車は通っていなかったから、京都から山陰線を使って、大回りをして帰ったのだ。通常なら電車で一時間もあればよいところを4時間以上かかったように思う。
 神戸新聞のあったビルは、新聞会館(正式には神戸新聞会館ビル)という名前で市民に親しまれていた。神戸の中心街三宮の東の要とでもいうべき位置にあった。
 実家の父と母は昔から神戸新聞の愛読者だった。父が神戸で働いていたせいもあるが、「新聞はやっぱり地元紙が一番」というのが理由だったように思う。
 神戸の小学生は必ず一度は、神戸新聞社に社会科見学に出かけていたし、大学卒業後、6年近く勤めていたデパートの外商部と販売促進部、女子更衣室なども新聞会館の中にあったので、私にとっては非常に近しい親しみのある場所だった。
 姫路に着いてすぐ、神戸新聞が届いていることに驚いた。それはそれは薄っぺらなたった3ページぐらいの新聞だったが、よくぞあの中で作ったものだと思えた。西宮で取っていたのは毎日新聞だったが、震災の翌日から家を離れるまで、届いていた記憶がない。
 記者達のドキュメンタリー証言を交えたドラマを観ていると、どれだけ大変だったか、よくわかる。
 テレビの中で「情報がない」と繰り返し言われていたが、本当に知りたい情報はなかった。
 震災直後、取材のヘリが爆音を響かせて飛んできていたし、テレビには壊れた街が映し出されてはいたが(電気は割と早く復旧したので)、どこにいけば水があるのか、いつになればガスが来るのか、全くわからなかった。
 テレビで物知りげな学者が、直下型地震について語っているのが腹立たしかった。「今、そんなこと知りたいわけじゃない!」何度言ったか知れない。「なるほど大変な地震だということがわかりますね」コメンテーターの言葉にものすごい温度差を感じていた。
 それでも実家に着いてしばらく、私はテレビばかり観ていた。それも訃報の番組を。ただひたすら、亡くなった人の名前が読み上げられていく。そんなテレビをぼーっと観ていた。
「いつまで観てるの」と母に叱られたのを覚えている。でも、ただそれを観るぐらいしかできなかったのだ。
 でも、思った。こんなところにいてはいけない、と。
 数日経って、長田まで電車が走ると聞いて、父は折りたたみ自転車を購入し、数日分の着替えと簡易食料を下げて、当時、三宮にあった仕事場まで出かけていった。
 前年に神戸の消防を退官していた父は、三宮のあるホテルの防災部に再就職していた。「えらいこっちゃ」帰ってきた父は多くを語らなかった。
 私も実家には1週間ほどいたように思う。
「給水車が来ているらしい」「神戸駅までは電車が延びた」そう聞いて、すぐ西宮に戻ることにした。西宮は三宮と大阪とのちょうど中間地点。急行電車だと15分ほどの距離だ。臨時バスもあるとのことだし、なんとか歩けるだろうと、帰ることにしたのだ。
 電車が長田を通った時、車内に「あっ……」と何とも言えないどよめきが起こった。
 長田は震災のとき、一番火災被害の大きかった場所である。
 街が焼け野原になっていた。何もかもがきれいに。戦争ってこういう感じなのかなと思った。
 神戸は北に六甲山、南は瀬戸内海に面した細長い街である。
 空は青くきれいで、六甲山はいつもの六甲山で、海もいつもの海に思えた。ただ、ただ、街が壊れていた。
 生まれ育って、大好きだった街が壊れていた。
 でも、生き残った人はちゃんと生きていた。
「がんばろうや」と声をかけあって。
「もう悲惨な記事はいらん。これからは明るい希望の記事を書くんや」
 記者達の声は、あの中を生き抜いたから出てきたのだ。
 関西人は立ち直りが早いのか、いや……そうではない。
 辛いのはみんな一緒。前を向いて生きていくしかなかったのだ。
 きっと、先の戦争で焼け出された人たちも同じだったのではないだろうか。
「何があっても、残ったもんは、生きていくしかない」
 どうせ生きるなら、どん欲に自分の人生を掴もう。
 そのとき、あらためて私は思った。
 やりたいことをやらずに死ぬのだけは嫌だ、と。
 今まで、他人事だった「死」を強烈に意識していた。
 あの震災で私の腹は決まったと言っていい。
 あれから15年、番組では「ずーっと神戸にいる」という女性の笑顔がラストを飾っていたが、私は大好きだった神戸を離れ、東京で一人シナリオを書いている。
 今でも、神戸は私にとって特別な場所だ。大好きだし、素敵な想い出もいっぱいある。
 でも、離れるべき場所だったのかもしれない。
 震災は私の人生を変えた。
 私の中にある一つの芯は、確実にあのときの記憶から派生している。
 決して揺らぐことのない、何かを刻みつけてくれている。

2016.01.17 スクラップ&ビルド


阪神大震災から21年が経った。
あの日から2年ほどして、私は何もかもを捨てて上京した。
このままで終われない――そう強く感じたからだ。
私は今、精神的にはあの時と同じぐらいの衝撃の中にいる。
暗い闇に堕とされたような絶望感、胸がヒリヒリする切迫感、そして、とにかく動かねばという衝動。
引っ越したい――
何かに突き動かされるように、私の指はある物件の仮申込をクリックしていた。不思議なことに、そこは仕事で二三度通ったことはあるが、住むなんて事まるで思いもしなかった街だった。仮にそこをAと名付けよう。
ついで、あと2箇所条件の合いそうな場所BCもみつけて、翌日には母を連れて、観に行くことにした。
(BCは取りあえず、仮申込はせず、当日電話で内覧希望だけを伝えておいた)
まず向かったのは、今の家から一番遠いBだった。
下町っぽいお江戸情緒があり、間取りも家賃も条件的には良かったが、思っていた感じじゃなかった。
続いて向かったC
ベッドタウンにあり、生活環境は申し分なかった。部屋も広いし家賃も安い。だが、徒歩10分以内で生活が完結してしまう。のんびりと生活を楽しむ場所だ。
高齢の母にはゆったりするかもしれないが、私としては物足りなかった。
そして、最後、都心にあるA
駅前にはビジネスビルも建ち並ぶ。背筋を伸ばして歩く、時間の流れが早い街。
着いたとたん、カーっと高揚感が身を包んだ。今の私に必要な緊張感だと思えた。
部屋を覧た。
BCと比べて一番狭い。手狭感は否めないが、間取りは良く収納もたっぷりとしていた。家賃はもちろん一番高い。
少し広めのベランダから、夕焼けの富士がはっきりと見えた。
「すごいね」富士山好きな母は感激していた。
母と二人、しばらく暮れゆく空を眺めた。
月が昇り、富士山を照らし、煌めく夜景へと変わっていく。
はっきり言って贅沢な眺めだった。
その時、私の頭を「背水の陣」という言葉がよぎった。
何もかも捨てて上京してきた18年前、私はそれを常に念仏のように唱えていた。
上京してからの長い歳月の中で、薄れてきていた"がむしゃら感"が沸々とわき上がってきた。
そうだ。動いて建て直せばいい。
スクラップ&ビルドが今の私には必要なのだ。
思えば今まで何度か引っ越しをしたが、いつも、間取りを観てここだとひらめいた場所は内覧しても変わらず、そこに決めてきていた。
今回もそうなんだ。
あの時、すぐに内覧仮押さえのボタンをクリックしたのは、そういうことだったのだ。
また闘う気持ちを呼び起こさせてくれたことに感謝だ。
しばらくばたつくかと思うが、この春は気分一新。
新しく生まれ変わったつもりで、頑張ろうと思う。



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