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2018/09/02 (1) 一緒に帰ろう

0:52

シルバーの車体が通りを右折して駐車場に入った。義父母が到着した。

エレベーターの扉の前でふたりを待つ。電光掲示板の上三角が点灯して階数を上げてくる。扉が開く。義父母が出てきた。ナースステーションに向かいながら、電話口では伝えていなかった状況の詳細を伝える。家族として、なにがまっているのか、なにをしなくてはいけないのか。

病室では、心肺蘇生が続けられていた。病室の入り口で足は止まり、義父母とともに廊下からその光景を目の前にする。寝巻き姿は裸にバスタオル姿になっていた。

1:09

「心肺蘇生を止めてください」

左隣から、義父の声が聞こえた。二時間半以上に渡った心肺蘇生。胸骨を圧迫し続けていたその動きが、止まった。先生が瞳孔を確認し、時計を見て言葉を発した。

「午前一時九分」

命が消える瞬間を、初めて目の前にしていた。
自分が愛し、自分を愛してくれた、たった一人の、最愛のパートナーの命が。

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「身支度」ができるのを、ラウンジで待っていた。横に来た看護師さんがいろいろと喋っている。要約すれば、遺体を病院から引き上げる手配をなるべく早くにして欲しい、ということだ。この病院は、北総地域、急性期医療の要なのだ。そういうものなのだろう。

「お守りのように持ってきたの」

義母がファイルを差し出す。いつもと変わらない柔和で温かい雰囲気のままで。ファイルを開くと、契約しているという寺院墓地の書類一式だった。心底驚いた。「これを持っていたら、そんなことは起きないだろう、そう思って一式を持ってきていたの」義母はそう付け加えた。

書かれた番号に電話をする。電話口から、お悔やみの言葉が生き物のように耳に入ってくる。搬送の車を成田に向けてくれるよう手配した。到着予定時刻は午前四時。あれだけ自宅へ帰りたがっていた奏くん。その思いを今、叶えるんだ。少しでもいい、自宅でゆっくりさせてあげたい。そして、スナフィーに会わせてあげたい。ただそれだけを考えていた。総移動距離は三〇〇キロほどになるだろうが、そんなことは構わなかった。

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病室は、とても寒くて、圧倒的に静かだった。

奏くんの頬に、そっと触れる。知らない冷たさが指先から広がる。体は、まだほんのりと温かい。肩から腕の下に手を差し入れてみる。大好きなここは、まだ温かい。顔を撫で、眉毛を撫でて、髪を梳いた。何度も、何度も。綿が詰められて丸く大きくなった鼻の穴。なんだか苦しそうだ。唇はやけに白くて、「血色」という言葉を知った。赤みのあった唇を見つめていた、七時間前のこと。免疫がまだ低いだろうからと、キスをぐっと我慢しながら。

たった七時間前まで、ふたりで話しをして、ご飯も食べさせて、入院生活で痩せてDr. Dreに似てきたなんて笑って、半日も一緒に過ごせて幸せ、土曜日最高って、そう思ってここにいたのに。一般病棟に移る話に大部屋でいいでしょなんて言ってたのに。先生のお許しが出てつい買いすぎちゃった色んな種類のヨーグルトが、まだいっぱい冷蔵庫に残っているのに。

葬儀社が来るまでの時間を、家族四人、病室で過ごした。

冷房を最強に効かせた部屋はとても寒くて、ウールのストールを何度も巻き直した。寺院墓地の書類と共に「零ちゃんが寒くないように」と義母が持って来てくれたものだ。そんな優しい義母は、白と黒の不思議な柄の浴衣を着(せられ)た奏くんをじっと見て言った。「なんかお相撲さんみたいね」。そのひと言に空気が緩んで、三人で笑った。

小西こにし)」「小西」「小西」と、タオルやひげ剃りなど、例外なく名前が書かれた身の回り品を棚から出して持ち帰り用のバッグにしまう(もちろんこのバッグも義母が用意してくれていたものだ)。

医療品はすでに一箇所にまとまっていた。おしり拭きや介護用歯ブラシなど、どれも看護師さんに頼まれて一階のコンビニで買ったものだ。ティッシュの箱には、所々に血がついていた。「こちらで処分も出来ますよ」看護師さんの優しい声かけに、「使えるものがあったら使ってもらって、あとは処分して頂いて結構です」一拍の間のあと、そう伝えた。

冷蔵庫から、ヨーグルトやごはんのお供を出した。たった12時間前に、買ったばかりなのに。

4:00

廊下で待つ私たちの前で、閉じられていた病室のドアが再び開いた。葬儀社の人たちと共に出てきた奏くんは、頭の先から爪先まで真っ白な布にすっぽりと覆われていた。違う。圧倒的な違和感。苦しい。それじゃあ、苦しいよ。息が苦しいよ。

「患者やその家族は利用しない」というエレベーターで、ぞろぞろと階下へと向かう。二時間半以上に渡る心肺蘇生を行ってくれた先生に、一〇時間前には「Dr. Dreに似てる」と一緒に笑ったあの看護師さんも。「本当にお世話になりました」出口で心からのお礼を言い、深々と頭を下げた。先生も、看護師さんも、何かを言ってくれていたし、もっと伝えたいことはあったのに。何かが機能していなかった。

病院の外はまだ暗かった。車に乗り込み、エンジンをかける。自宅へ向かう一時間のいつもの下道。バックミラーには二台の後続車。奏くんと義母を乗せた葬儀社の車に、義父の車。無事にみんなで自宅に着けるよう、今はただそれだけに集中する。

奏くん。やっと、帰れるね。
ずっとずっと、ずっと帰りたがっていた、スナフィーの待つ私たちの家に、一緒に帰ろう。

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