掌編小説「ラブレターに火をつける」

 初めに断っておくが、以下の文章は私の願望である。決して叶うことのない願いである。
 
 不幸な天才がいた。彼に出会ったのは私が中学生のときであった。当時彼の幻術にかかった私の頭の上には三日も太陽が昇らなかった。彼はいつも私に幻を見せた。他の多くの若者にしたのと同じように。彼の技のおかげで私は人間を疑い、世界を疑い、それから世界をいくらか理解するようになった。陶酔に浸った。あの青春による危機のとき、彼は、世間から放り出されかけた私を助けた人間たちのうちの一人であった。最も身を挺して私の身体を受け止めたのだ。お陰で私は死と破滅を免れた。やがて私は彼に付き添われて大人になった。
 しかし大人になってからは、あまり彼の家に行かなくなってしまった。私は自分の仕事をしなければならなかったし、そのために外国にばかり出向いていた。遠くの地でたまに彼のことを思い出したが、訪れることはほとんどなかった。
 先日のことだ。私は用事のついでにふと思い立って彼を訪れた。戸を叩くと、彼はすぐに出てきて、笑顔をもって私を招き入れた。彼は相変わらず青白い顔をした猫背気味の麗しい青年だった(彼はとうの昔に年を取るのをやめていた)。家の匂いも雰囲気も家具の配置も昔と同じだった。ちっとも変わらないことが私と彼の間隔をそのままに表していた。彼の出してくれた茶に私が口をつけると、彼はさっそく私に幻術を掛けようとした。煙草をふかしながら昔語りをするのが彼のやり方だった。安楽椅子に寄りかかって微睡むように表情を緩めて、恍惚として彼は話した。見事だった。一つの粗も見えなかった。しかし頭の後ろで組んだ手の指が震えているのをもう見落とすわけにはいかなかった。
 私はなるべく彼を傷つけないように告げたかった。
「残念ですが、あなたの幻術はもう私には通用しない。私はまだ目覚めている」
 すると彼はため息をついた。不貞腐れたのか、灰皿に煙草の灰を落としてそっぽを向いた。
「つまらないな。とっておきだったのに」
「ええ。だが私はつらくてならないのだ。幻術を掛けようとするあなたの指先の痛みが、孤独と絶望が、想像できてしまうのです」
 彼は顔を顰めている。
「あなたの才能はこんなものではないはずです。まやかしで人を酔わせるなんてことはあなたの本当の力ではないのです。しかし世の中ではあなたのことを、そのまやかしでしか評価しないのだ。私はずっと前からそのことが悲しくて堪らない。あなたのような天分ある人が不遇なのが悔しくて堪らない。どうしてこの世はこんなにも、優しい人に過酷なのだろうか?」
 すると彼はうつむいて悲しそうに笑うのだった。
「僕は優しくなんかないよ。罪を犯し、人を傷つけ、何度も逃げた。卑怯とはこのことさ。当然の報いなのだよ」
「あなたは人を救っているのだ。何人もの若い人があなたのおかげで助かった。せめて、それだけは、分かっていていただきたいのです。世の中にも、あなたにも」
 彼は返事をせず、寂しそうに私の方を向いた。
「ねえ君、少しだけ付き合ってくれないかい? 見せたいものがある」
 私はもちろん承諾した。彼はマッチで新しい煙草に火をつけ、しばらく味わってから、大きく煙を吐いた。私はその煙を全身に浴びながら鼻からできるだけ吸い込んだ。甘苦い匂いがして、支えがなくなって身体が宙に浮いた。少しずつ頭が拡散するように形を無くしていき、囲いが消えて、意識が自由になった。心地よい光に包まれて、風が私を運んでいく。落ちているのか昇っているのか分からない。気が付けばとある場所に立っていた。空気がとても冷たい。初めに目に入ってきたのは、白い雪を被った遠くの灰色の雄々しいなだらかな山々だった。足元に目をやると、小高い丘の上にいるようであった。身体の横に木々の細い枝が張り出していて、梢には膨らんだ新芽がいくつも顔を出している。下を見下ろすと、低い土地には裸の田が広がっていて、周りには花を咲かせた桜の木が薄紅色でつながるように植えられている。よく見ると小さな家が点々と建てられている。乾いた土の匂いがする。空はどこまでも澄んでいて、雲の一つも見えない。鳥の鳴き声が散っている。綺麗だった。
 彼は隣に立っている。
「ここは僕の故郷だよ、僕が裏切った故郷さ」
「あなたを捨てた故郷ですね」
「僕は別にここが好きなわけではないのだよ。しかしどういうわけか、ここばかりが思い出されてならないのだ。情けないね。恥さらしだね。もうこんなことはやめよう」

 夜になって、私は彼に別れを告げた。
「また来ます」
「もう来なくてもいいよ。僕は君にとってもう不必要なのかもしれないのだから。でも来たくなったらいつでもおいで。僕はいつでもここにいる」

 帰り道、悲痛な思いに沈んでいた。あなたが救った数多の人間のうちのたった一人でさえもあなたのことを救えないのだ。


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