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同志社の受験会場で吐いた思い出


昨年度一年間、受験勉強で一番しんどかったのは、周りの受験生はもうすでに合格を勝ち取っていた2月の終わりから3月の頭の2週間ちょっとの期間。

実は私、私大全落ちからの後期での大逆転を経て今の大学に通っている。


プライドだけ高い国公立志望時代

2月初めの時点では関西で一番偏差値の高いの京都にある私立大学に行きたくて、第一志望にしていた。でも、その大学を受けようと決意したのは、おそらく周りより遅い高三の冬だった。じゃあ元々は?というと、高二の夏頃から国公立大学を志望していて、ずっと共テの対策をしていたのだが、科目数が多く、高二の時点で高一の範囲の基礎固めができていないことに加え、自分なりの勉強法を確立していなかったために勉強量も質も向上せず、高三の模試でもなかなか結果が出せていなかった。今思えば、危機感が足りていなかった。そして、国公立に行きたいという思いはあるものの、それはプライドが高いだけで、さらにその大学に合格した後の具体的なビジョンも何もなかった。一年前のまさに今頃は、勉強しなきゃという気持ちだけが前走り、がむしゃらに中身のない勉強を繰り返していた。勉強時間が少ないと感じると不安になったし、意味のない勉強でもやっている時間が多くなれば安心に繋がった。やっぱり反省としては、もっと早い段階から国数英の基礎を固めておけばよかったということ。高三の春になった段階で受けた共通テスト模試の国語は200点中の20点。10%。普通にやばすぎだろ。でもその頃は、今こんな感じでも、後々絶対伸びるという謎の自信があった。本当に謎。そんな状態になっていた原因は根本的な勉強法を間違えていたこと。でもそれに気づくのは秋ごろだった。

夏休み

夏休みに、その当時第一志望の国公立と私大数校のオーキャンに行った。

そこから、だんだん歯車がずれていく。。。

第一志望の国公立大学に見にいった時、残念なことに施設の古さやアクセスの悪さばかりに目がいってしまった。私の想像していた大学のキャンパスとは違っていた。最初はオーキャンに行けば今まで以上にその大学へのイメージが良い方向にむいて、モチベも上がるだろうと思っていた。でも現実は違っていた。

その翌日、後々第一志望になる関西1の難関、同志社大学のオーキャンに行った。

キャンパスに入る時から感動だった。だって大学が駅直結だったから。建物も綺麗で、こんなところに通えたら幸せだろうなと思いながらいろんな模擬授業を受けた。今思えば、あの頃に同志社を受けると決意できて入れば、また違う結果になっただろう。でもその時は思い切って私立に進路変更するにはまだ早いと思っていた。そもそも、私の高校は自称進気質で、国公立主義的な雰囲気が流れていた。周りにも国公立を受験する人がたくさんいた。もちろん私立志望もそれなりにいたけど。私立に変えるなんて逃げだと思っていた。今はどんなに悲惨な状態でも、信じて頑張ってさえいれば、絶対に結果につながるだろうと。(今考えるとすごい自信。)

秋の始まり〜転機

そして、少しだけ同志社の余韻を感じながら二学期がスタートした。夏休み後に受けた共テ模試もそこまで結果に変化はなく、成長している実感も感じることができずに9月を過ごした。

そして、10月。私の中で転機となる月がやってきた。まず、それまで通っていた塾に加えて、また違う塾に入会した。模試の結果が散々で、今のこの現状を変えるためには塾を変える必要があると思い、気になっていたところに相談に行って即入会という形だった。(その頃は塾のせいにしていたけど自分自身にも原因があった)でもこの塾、たったの一ヶ月でやめることになる。でも、新たに塾に入ることがなかったら志望校を変更することはなかっただろうから、意味のある行動だったと言える。その塾は、徹底した自習管理が売りで、自習室に来る回数が少なければ教室長から注意を受けるようなところだった。塾を掛け持ちしている私にとって、勉強場所はたくさんあり、新しく入った塾の自習室はその選択肢の一つでしかなかった。特に新しく行く場所で、緊張もするし、行き慣れた場所で勉強した方が気持ちが楽だったので自分の好きな場所で勉強していたら「もっとうちに来い」と言われ。それが嫌で授業のある日だけ行ってあとは昔から通っている塾の自習室で勉強する日々を3週間ほど続けた。それでも限界がきて、「結局掛け持ちは厳しいので辞めます」と一ヶ月で辞めてしまった。でもそこで、それまででは学べなかった根本的な勉強方法などを学ぶことができたし、何より私立に進路変更することは別に恥ずかしいことでもなんでもないと知ることができた。特にそれまで伸び悩んでいた国語について、”まずは文章の読み方を勉強するべし”と教えてもらい、実践すると、すぐに成績が上がった。その塾を辞める時点では、もう私立志望に変わっていた。

私立に変えた晩秋〜怒涛の冬〜甘くみてた直前期

私立志望にシフトチェンジしてから、やることに追われる日々が続いた。11月、12月と第1、2志望(同志社と今の大学)あたりの赤本を解き始めつつ、公募制入試で受ける滑り止めの対策などで忙しく、あっという間に年の瀬という感じだった。そんな中で、7倍くらいの倍率の公募制入試に合格し、自信がつく嬉しい出来事もあった。私立を受けるために勉強しなければならない教科は3つ。文系だったので国語と、英語と、私の場合は日本史だった。3つのうち、国語と英語はなんだかんだだんだん成績が伸びてきていたが、日本史に関してはほぼ手がつけられていない状態だった。(ほんまにやばい)そのため1日のほとんどを日本史に当ててがむしゃらに暗記、暗記の毎日になった。

日本史の教科書

あの分厚い日本史の教科書を1日に20〜30ページづつ何度も読み直して問題集解いてって感じで。それでも日本史は伸び悩み、調子の良かった国語と英語も継続していなかったために過去問解いても点数が落ちる一方で。そんな感じであっという間に年を越して、新年の大阪天満宮で絵馬に同志社と、今通っている大学の名前を書いた。そして怒涛の1月がスタートする。試験本番の2月初旬まであと一ヶ月というところで、過去問では各教科合格最低点に達せず、焦る日々。特に同志社の英語は難しくて、毎日過去問に触れるけど結局最後は当てっずぽうになったり時間が足りなかったり。そんな現状をどうにかしようと入試2週間前になっても夜の遅くまで勉強していた。普通、直前期になったら早寝早起きの習慣を整えるべきなのに。そして食事も時間が惜しいと飛ばしたりちゃんと食べない時もあったり、いつ体調を壊してもおかしくないような状態で1月後半を過ごした。

当時のスケジュール帳:参考書の略し方のクセ強い

入試本番〜絶望

そして迎えた入試1日目。私の場合、二つの学校を計4日程受けた。はじめの2日間は今の大学だった。日本史に気を取られ、また第一志望に気を取られ十分に対策できていなかったのであまり実力を出せなかった。自信がないまま2日間が終わり、第一志望、同志社大学の入試日がやってきた。それまで以上に緊張し、頭が真っ白のまま試験が始まった。(普段は緊張する方じゃないのに)3日目もあっという間に終わり、残すところあと1日となり、最終日、流石に慣れてきたのか試験会場についても前日とは違いあまり緊張しなかった。

そして一教科目の英語が始まっても落ち着いて挑むことができた。しかも、今までとは違いすらすら読めるのだ。難しいはずの英語長文がスムーズに頭に入ってきて、これは来たかも…….?と思いながら、時間にも余裕を持って試験問題を解き終えた。しかし英語の試験終了後、休憩時間になると急に腹痛を催した。最悪や….と思いながらお手洗いに向かうと、長蛇の列ができていた。しかもそこで、同じ高校の同級生と鉢合わせ、何が何だかわからぬうちに会話を始めた。その子と今まで受けた学校の話などをしていくうちに、お腹の痛みは消えたので、大したことないんだと思い、普通に昼ごはんを食べ始めた。しかし、食欲も湧かないし、次は吐き気を感じるように。ちょっとだけ気持ち悪かったけど吐き気を根性で抑えながら2時間目の国語はなんとか受けることができた。国語が終了した時点で吐き気はピークになっていて、遂にはめまいや耳鳴りまで起こるようになっていた。これはただ事ではないと思い、また、これまでそんな経験をしたことがなかったので、今にも倒れそうになりながらスタッフの元へ行って医務室に連れて行ってもらった。そこで休んでいるうちに熱が上がり、そして嘔吐。3教科目の日本史は受けれるはずもなくその日の試験は規定上、合否判定の対象外になってしまった。日本史の問題にもよるけど、その日何もなく受けられていたら、合格していたんじゃないかと思う。でも、あと一歩のところで試験が受けられず、悔しすぎて涙を流すも通り越して絶望した。(あと普通に身体がしんどかった)そうなってしまった原因は、入試直前なのに夜更かしをして、ちゃんとした食事も取らずにいた体調管理の甘さだろう。そして焦りや不安からストレスも溜まり、それが胃腸炎に発展したんだと思う。

こんな感じでどうしようもなく終わってしまった大学受験。
次回、”2週間で立命館に受かった話”。

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