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小川糸『ツバキ文具店』 感想文

 人に想いを伝えるという行為の中で、手紙ほどその工程が多く、人となりを表すものはないと思う。

 それはー①道具を用意し、に始まり⑧投函する、に終わる。そして「想い」は認めた瞬間のまま時間が停止し、何年もそこに存在するのだ。
差出人の存在が消えた後もー。

 先代である祖母の跡を継ぎ、鎌倉で「ツバキ文具店」を営むポッポ(雨宮鳩子)は文具店の店主をする傍、本来の仕事である代書屋をおこなっている。代書屋はその名の通り、代筆を生業とする職業である。代書屋の元にはなんらかの事情で自ら手紙を書くことができない人々が、代わりに手紙を書いてもらうために訪れる。
 依頼の多くは別れであり、後悔であり、拒否であり、絶縁である。そして二度と会えない者への感謝ーつまり、糸の端を結ぶようなものだ。

 ポッポは鎌倉に住む人々とのあたたかい交流の中で、店を訪れる依頼者のさまざまな「事情」を請け負う。自分ではうまく表現ができない、依頼者の想いを自身に憑依させ手紙という形にする。
そしてポッポは次第に、自分自身の過去ー亡き祖母である先代との関わりの中で互いに交わせず、すれ違った想いを時間を超えて手紙に乗せ結び付ける。

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 作品の中で印象に残ったエピソードがある。
 人物はカレンという名の女性で、彼女は自他共に認める「汚文字」の持ち主である。
 義理の母の還暦祝いに、花とともにメッセージカードを送りたいが、何をどうしてもきれいな字が書けない。くわえて、義母は「字が汚いのは心が穢れているからだ」という考えの持ち主である。

 日本語はその成り立ちからして美しいものであるが、それだけに書字がその人の人物を表していると評価されがちである。

 かく言う自分も、文字をきれいに書くことができない人間の1人だ。左利きというのも日本語を書字するのに大きなハンディになっている事はせめてもの言い訳であるが、左利きでもきれいな字を書く人はいるので、やはり別の問題なのだろう。
 とは言え、ボールペン字講座を買ってみても書道教室に通ってみても書けないものは書けない。知能や育ちを引き合いに出され罵倒されようと、できないものはできない。これはもう、極めてフィジカルな部分の問題と言わざるを得ない。

 タイヤのパンクした自動車はいくら磨いてもまっすぐには走れないのだ。(ひでー感想文)


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