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志賀直哉『小僧の神様』 感想文 〜小僧のロックスター〜


      『小僧の神様 感想文 〜小僧のロックスター〜』

「若者にとって最大の暴力は崇拝するロックバンドの解散であり、ロックスターの死である」

 大昔に読んだあるロックミュージシャンの伝記の一説を思い出した。
 社会の中の自分が確立していない年頃とは、あらゆる感動に対し極めてセンシティヴなものである。それは例えば音楽であったり漫画であったり、はたまた文学作品に感銘を受けるとか、職場の先輩に連れられ暖簾をくぐった居酒屋のお通しがこの上なく美味かったといった体験だったりする。そして多くの場合、年齢を重ねるごとにそれらの感動を構成する成分から人工的な甘みや苦味、インスタントな仕組みを察知し、選り分ける術を獲得していくのだと思う。その結果、それらが感動に値しないものであるとタカをくくるようになっていく。即ち「作り物(子供騙し、偽物)」である、と。

 ロックの話に戻ると、自分自身いくつかのロックバンドに感銘を受け、彼らこそが音楽の神様であり世界の全てであると信じていた時代が確かにあった。髪を真っ赤に染めたギタリストの写真を眺め、彼には自分のような現実的でウジウジした小さな悩みなんてないと思い込んでいた。

 それでも当時の彼らの年齢を追い越した時に感じた気持ちは、とても現実的で切実なものだった。

 誰かの神様(縋られる者)であり続けることはとてつもないプレッシャーである。冒頭の伝記のミュージシャンのように、耐えきれずに死んでしまった者もいる。
 それは必ずしもエンターテインメントのような華やかな世界に限った話ではなく、師弟関係や先輩後輩の関係にも言えると思う。憧憬の眼差しに映る自分が、等身大の自分であるわけはないからだ。
 親はいつまでもサンタクロースであり続けることはできない。いつかは種明かしをしなければならない。明かした種が本当の自分であると認めるのは、辛い。

 とはいえ決して彼らの色があせたわけではない。当時の映像を目にしてもキラキラと輝くものを感じるし、それを信じた幼い自分に「あれはエンターテインメントというお芝居なんだよ」とはどうしても言う気になれない。あの時に感じた感動そのものに紛れはないし、その瞬間には確かに神様だったのだ。

 現実に寄せた正しい答えに導くことだけが、持たざる者へ示す誠実さではないと思う。小僧が神様だと信じたのならば、神様であり続けることも持つ者の使命なのではないだろうか。

「僕は君の神様だよ。信じなくてもいいけどね」
結構じゃないか。十分カッコいい大人だよ。

(おわり)


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