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のんと能年の神隠し

「ごめんなさい、こういう時どんなことをすればいいの分からないの」
「書けばいいと思うよ」


コロナ禍の肌荒れ

コロナ禍に入って外出時に常時マスクをつけるようになってから、肌荒れがすごい。でも、在宅勤務だし、人に会う機会も少ないし、しかも会ってもマスク取らないしということもあり、別になんの対策もとらずに、いつも使っている基礎化粧品で1年ほど過ごしていた。

ストレスなのか、食生活なのか、それともやはりマスクネなのか判断がつかないままボーっとほったらかしていたが、家から出る機会がまったくなくなったことを契機に、外出する口実として、徒歩圏内の美容皮膚科にでも行ってみるかと思って、歩いて3分の美容クリニックに通うことにした。(結局、今でも肌荒れに悩んでいるので、別にマスクでもストレスでも食生活でもなく、ホルモンバランスの不調な気がしている。)

そこの中華系の皮膚科医から基礎化粧品は何を使われていますかという質問に「基本的に肌ラボという日本のスキンケアシリーズを主に使っています」と答えた。続く質問はいつからでそれはなぜですかというもので、「19年ぐらいから、日本でもそれを使っていたからです」と回答した。
とっさにウソをついてしまった。私は一度も肌ラボなんて日本で使ったことはなかった。でも19年から確か使い始めた。なぜ

小さなウソと、まさかの朝顔

ふと思い出す。能年玲奈のことを。19年に目薬か何かを買うために入ったドラッグストアで、肌ラボのおっきなポスターに目を奪われ、そこに映るおっきな目をしたモデルさんに吸い込まれてしまし、肌ラボから発売されているあらゆる基礎化粧品を購入した。そう、私の住む東南アジアの肌ラボの広告キャンペーンには能年玲奈が起用されている。(いつからかKōkiこと木村光希さんに変わって以来、使うことをやめた。)

能年玲奈_香港メンソレータム社
(能年玲奈のオフィシャルウェブサイトよりスクリーンショット)

私は能年玲奈に救われた数多くの人々の一人だ。日本での新卒採用市場には参戦せず、かといって働きたかった国での職探しも上手くいかず、大学卒業後はいくつかの本を書く仕事を手伝いながらも、基本的にずっと本を読んだり映画を観たりする生活を続けていた。(いわゆるフリーランスライターというニート時代である。父親の人生に対する肯定を示したかったのである。)

朝食という名の夜食を食べて寝ようと思っていた時に、画面の向こうから「どう?調子?」と語りかけられた。NHKの連続テレビ小説第88作『あまちゃん』である。その日以来、平日は『あまちゃん』を観てから寝るという習慣が付くようになり、土日はその振り返りや能年玲奈をはじめとする『あまちゃん』に関連する表現者たちの過去作を漁るようになっていった。

トンネルの向こうにある景色の向こうへ

『あまちゃん』の基本ストーリーはこうだ。2008年、東京で生まれた引っ込み思案の天野アキ、16歳はとあるきっかけで母の生まれ故郷である北三陸に移住し、祖母(夏)の生業である海女になるために修行し、その活動を通して世間の注目を集めると、かつて母(春子)が目指していたアイドルに憧れを抱くようになり、2009年の夏、自身が生まれ育った東京に旅立つこととなる。東京では、いくつもの小さな挫折を味わいつつも(それこそ、所属事務所の社長にデビューを阻止され、「潰す」とまで言われたり)、徐々にアイドルとして女優として成功していく。そんな中、刻々と物語は2011年3月に近づいていくことになる。

アキは祖母の夏(ばっぱ)に三陸の海の落とされることで、引っ込み思案だった彼女は変身する。疑似的にどん底まで堕ち、堕ちに堕ちたからこそアキは自分で自分を救うことになった。彼女は三陸の海の底で自分自身を発見し、そこから這い上がっていくことを経験したからこそ、東京でどんな困難に直面しても(それはそれで毎回落ち込むが)乗り越えていく。そんな彼女に私は自己投影した。もう失うものはないのだから、やりたいことやりなよ、私みたいに、と言われた気がする。人生ってヤツはあの日踏み外したレールの向こう側にあの日でっち上げた無謀な外側に 追いついていく物語なんだ、と。私はアキが夏(ばっぱ)に救われたように、私はアキに救われた。24最後の夜、少し期待して目を閉じ眠る、25最初の朝、何事もなくまた目が覚めた。ただ目が覚めると、東南アジアで働き始めていた。

君の名は、能年玲奈

現実は小説より奇なり。『あまちゃん』の天野アキの苦悩や挫折に比べれば、『あまちゃん』後の能年玲奈の現実は想像を絶するものがあった。『あまちゃん』の大ヒットによって国民的女優となった能年玲奈はその2年後(2015年4月)に所属していた事務所からの独立を境に、能年玲奈という本名で活動できなくなった上に、事実上芸能活動を休業せざるを得ない状況に追い込まれた。名前を奪われるということは、人格的な自由がなくなり支配されるということである。例えば、その後『あまちゃん』の脚本家の宮藤官九郎氏が16年7月のコラムで、あるトーク番組で『あまちゃん』の映像が流されたが、そのシーンに主演を演じる能年玲奈が映るシーンが全くなかったことを振り返り、「あまちゃんは能年さんの主演作ですよ、念のため」と言及することもあった。つまり、新しいドラマ・映画に出演できないのはもちろんのこと、過去の、しかも主演作のドラマからも排除されてしまうこととなった。

ただし、彼女は名前は奪われたが、新しい名前を暴力的に命名されることはなかったのが唯一の救いである。2016年7月に改名した現在の芸名で、異世界で一人で働くこととなる。つまり彼女は、これまでいた女優業という世界で生きていくという自由が奪われながらも、異なる世界、例えば音楽活動やアート活動で活躍の場を広げていくこととなる。特に2019年に配信された「わたしは部屋充」という曲はこの頃のうっぷんを柴田隆浩氏は見事に詩に落とし込んでいるので必聴である。

(申し訳ないが、ここでは彼女が主演である北条すず役の声優を務めた『この世界の片隅に』の素晴らしさについては字数の関係で語れないし、触れられない。これについてはまた別途でいつかNoteを書きたいと思う。)

そして、冒頭の東南アジアにおける肌ラボの広告についても、ある意味アジア市場という異世界での活動という系譜に位置づけられる。(もちろん、香港メンソレータム社のおかげではあるが)彼女はいまや、アジア市場で活躍する日本を代表するモデルであるということについて、認識を改めるべき時が来ている。私は彼女の巨大なポスターを観た時、本当に、本当に嬉しかった。彼女の活動を妨害する奴らがいても、それでもめげずに、込み上げてるくるものを信じ、自分を変えずに、自分だからできることをやり続ける。それが結果として、アジア中に能年玲奈を知らしめることになった。そして、ここ東南アジアでまた彼女の活躍を奇跡的に知れた。

分かんないやつには つまんないやつには 分かんなくていいから じゃますんな 

のん(2019年)、わたしは部屋充。

『私をくいとめて』をまだ見れていない私をくいとめないで

2014年の『海月姫』以来の能年玲奈の主演映画『私をくいとめて』が去年の12月に公開された。確かに、見れていない。(結構前に見たけど、かなりいい作品だった。)能年玲奈が本作で日本映画批評家滝省の主演女優賞を取ったものの、内輪の論理が働いた結果、まったくメディアで取り上げられなかったことも風の噂で聞いている(『あまちゃん』でW主演だった橋本愛氏が改名後の名前を呼んだり、改名前の「玲奈ちゃん」と呼んだりと刺激的な舞台挨拶もあった。あの『あまちゃん』の最終回を観てい人たちにとっては、これがどんな奇跡かが分かっていただけるだろう)。なぜ、見れていないのか。ちゃんとした言い訳をさせて欲しい。私はすごく怖いのだ。ただただ、彼女の最高の演技を銀幕に刻み込んだであろう映画を今観るのが怖いのである。いや、というより恥ずかしいのかもしれない。まだまだあまちゃんのままで、まったく成長していない自分を2020年の能年玲奈と会わせるのが耐えきれないのだ。

彼女はもうあまちゃんではなく今やマーメイド、しかも三代前からである。本名なしでも作る傑作。でも、でもである。もう彼女が名前が奪われてから5年以上経つ。そろそろ出来レースのクイズでも出して、彼女に名前を返して欲しい。そして、彼女を彼女が元にいた世界に戻して欲しい。日本の芸能界にNon!と言い続けた結果、本当の名前を彼女が忘れる前に。


そのサポートは投資でもなく、消費でもない。浪費(蕩尽)である。なぜなら、それは将来への先送りのためでも、明日の労働のためでもなく、単なる喪失だからである。この一瞬たる連続的な交感に愛を込めて。I am proud of your being yourself. Respect!