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【千と千尋の神隠し】ラストシーンで豚の中に両親がいないと分かった理由【考察】

1.はじめに
千と千尋の神隠しの最大の謎である「千尋が豚の中に両親がいないと分った理由」について、物語の中の場面、キャラクターの対比に注目しながらまとめることにする。この物語のテーマは「自分の最愛の人の姿かたちが変わってしまっていても、自分はその人を見つけ出せるのだろうか」というものだ。

2.物語の題材
この物語で題材にしているのは「水」と「人間」である。

「千尋」という名前について考察してみる。辞書で「尋」を引くと「水の深さの単位。1尋は1.8m」と記してあり、「千尋」は一尋の千倍であり、計り知れない深さという意味である。この名前からわかるように、千尋は水を表す名前であるのだ。また、ハクは埋め立てられた川の主という設定である。千尋は物語の序盤で湯婆婆に名前を奪われ「千」になる。水を意味する名前の部分を失い、千尋もハクもお互いに水を失う状況になる。

この点をふまえて、千尋が竜の状態のハクに乗るシーンを考える。二回あるこのシーンで、千尋とハクが水の中に一瞬入るのである。これは、二人が一緒になった時だけ水の記憶を補完する仕組みになっていることが分かる。

最後のシーンは、「千尋が川でおぼれた記憶があった」という事実が大切なのではなく、広い意味で、人間が水との共存を取り戻すメタファーではないだろうか。

3.カオナシとハクの対比
ハクの特徴:清潔感があり、千尋が困ったときに現れ、千尋を助ける。千尋におにぎりや服を渡す。
カオナシの特徴:食べ方は汚く清潔感は皆無。千尋のことが好きで必要以上に付きまとい、セクハラ、パワハラともとれる行動をする。千尋にバンダナ、砂金、食べ物を渡す(正確には渡そうとする。)

ここまで見ると、千尋の前に現れ”何か”をプレゼントするという点で見るとやっていることは両者同じなのである。これは偶然ではなく駿のメッセージが隠されていると考える。

やっていることは同じであるように見えるが両者の行動には決定的な違いがある。それは千尋の目的の考慮である。そもそも千尋の目的は湯屋で働くことでも仕事がうまくなるわけでもない。親を見つけて帰る、それだけなのである。

ここでもう一度両者の行動を振り返ると、確かにハクは一番最初に両親の居場所を教え、連れてきた場所で渡すものは”服”である。その点カオナシは「欲しがれ」という言葉と共に金、飯を無理矢理渡そうとする。明らかな違いは「千尋が一番必要としているものを理解して行動しているか」である。

これは恋愛においても同じであり、男の人は何かを与えて頼ってほしいと思うあまり、その人の本当に望んでいることを考えることを放棄してしまうことが多いのではないだろうか。千尋にとってハクはヒーローである。カオナシはヒーローになりたかったが、なれなかった男。

このハクとカオナシの対比は、現代社会のどこにでもいるカオナシのような大人たちに対してメッセージを送っているのかもしれない。

そして暴走の末に外に出たカオナシに千尋が声をかける。ここで印象的なセリフは「あそこにいるからだめになっちゃうの」だ。そして水につかったカオナシは打って変わったようにおとなしくなり、正気を取り戻す。

千尋やカオナシがいた「油屋」そして「水」。ここでは油と水の対比が用いられている。

4.千尋とハクの対比
有名な話ではあるが、千尋は最初の契約書の文字の「荻」という字の火の部分を犬と書いている。書き間違えたのか、わざとであるかはわからないが、これが彼女らの最後に大きく影響していることは間違いない。

ハクは本当の名前を湯婆婆に教えているので脱出できず、千尋は教えなかったから脱出することができたと考えれば、ラストシーンで千尋のみチャンスが与えれられ湯屋出れたことの筋は通る。

この世界では「名前を知っていることで本当の姿を取り戻すことが可能になる」ということは、ハクの鱗が剥がれるラストシーンからでも明らかである。その証拠に、鱗が剥がれた後の目の輝き、眉の形など、それまでのシーンとはっきり区別して描かれている。この世界では「自分の名前を分かっている=自分が何者であるかを分かっている」と捉えられる。名前を失って帰り道がわからないハクと、最後まで名前を完全に失うことなく帰ることができた千尋が対比的に描かれている。

5.カオナシと千尋の対比
カオナシというキャラクターの役割、それは、受動性の具現化だ。振り返ってみると、カオナシの行動はすべて受動的なのである。(受動性とは自分の欲望よりも他人の欲望に突き動かされる性質のこと)

橋に立っていたカオナシに千尋があいさつをする、という出会いからして受動的である。その後、千尋が扉を開けっぱなしにするという形で湯屋に招き入れる。ここでも自分で行動するというよりは受け身である。

そんなカオナシは湯屋で他人の欲望に出会う。千尋の必要とする薬湯の札、砂金、食べ物、と。このように他人の欲望に煽られて行動し、さらに相手の欲望を引き出すように行動する。

しかし、そんなカオナシの暴走がストップするシーンが二場面ある。一つは、大量に出した札を千尋が断るシーンだ。このシーンの後カオナシは消えてしまう。もう一つは、太ったカオナシが千尋を呼び、食べ物を欲しがらせようとするシーンだ。「千は何が欲しいんだ?言ってごらん」と言うカオナシに対して千尋は「あなたはどこから来たの……」と話を続ける。そしてカオナシはうろたえる。

この二つのシーンの共通点は、千尋という「他人」が欲望に煽られずきっぱりと拒絶するということだ。欲望に煽られるカオナシと、欲望を拒絶する千尋が対比的に描かれている。

6.坊&湯婆婆と両親&千尋の対比
この対比は、この映画を理解する上で最も大切である。湯婆婆と坊の関係は作中ではっきりと明言されていないが、湯婆婆にとって坊は非常に大切な存在であることは読み取れる。

そんな坊は作中で姿を変える。本物の坊はネズミに、偽物は頭三匹を用いて銭婆婆によって作られる。

この両者に湯婆婆は遭遇する。一度目は、湯婆婆が千尋を太ったカオナシの部屋に呼び出すシーン。この時、姿が変わった坊に対して次のように言う。「なんだその小汚いネズミは」。そう、湯婆婆は坊が変わったことに気づいていないのである。もう一つのシーンはこの物語で非常に重要なシーンである。それは、ハクが湯婆婆の部屋に訪れるシーンだ。ハクは「まだ気づきませんか。大切なものがすり替わったのに。」と言う。そして、湯婆婆が真っ先に見るのは坊ではなく砂金なのである。時間が経ち、物音がして初めて坊を見て、魔法を使ってようやく気付く。そして最後のシーンは、ラストの橋である。坊(ネズミ)が湯婆婆の元に飛んでいく。ここで、魔法が解け、坊は元の姿に戻り、湯婆婆が抱き着く。何気ないシーンのように思えるが、やはり湯婆婆は、姿の変わった本物の坊に気付かなかった

さてここで、千と千尋のテーマを振り返ってみる。

「自分の最愛の人の姿かたちが変わってしまっていても、自分はその人を見つけ出せるのだろうか」

ここでは、それを見つけることのできなかった湯婆婆と、ラストのシーンで最愛の人(父母)を見つけることのできた千尋が対比されて描かれているのである。

7.橋のシーンの対比
「橋を渡る」というシーンにも対比が使われている。初めはハクに連れられて渡り、最後のシーンでは一人で渡る。このシーンは、必要以上に長い時間が取られている。この対比により、橋を渡るという行為で、千尋の成長を表現している。

8.千尋が豚と出会うシーン
千尋が作中で豚と出会うシーンは四度あった。

一回目は両親と同じ服を着た豚が飯を食べているところ。実はこのシーンでは、両親が豚になったと千尋は確信していない。なぜならそれを見た後「お父さん、お母さん、どこ」と探し回るからだ。

二回目はハクに連れられて養豚場へと向かうシーン。養豚場の前で千尋は眼をぱちくりさせ、両親と「思われる」豚の元へ向かう。この時、千尋は、「私よ。千よ。」と言う。

三回目は、豚を見回し、どの豚か両親かわからない、といった夢だ。冷めた後、千は「分からなかったらどうしよう」という不安を口にしている。

そして四回目は最後のシーンである。

9.まとめ
ここまでの考察を踏まえ、なぜ千尋が豚の中に両親がいないと分かったかについて考える。豚の中の両親がはじめ分からなかった理由は、彼女が「千」だったからであろう。この世界では、名前は記号ではなく、自分は何者かということを意味していた。自分の名前を分かっているということは、他の誰かに支配されたり、自分の進む道を誤ったりしないということだ。千尋は自分が何者なのかをわかっていたので、目先の金に惑わされる湯婆婆とは違い、自分の大切なものをまっすぐ真剣に見つめ続けていたからである。

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