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キズナイーバー思索公開メモ帳3

5.告白装置の一環としてのキズナシステム-自己紹介という名の告白大会-

 真理陳述を問う批判哲学では、言表が真である条件を明らかにすることは問題ではない。真偽をめぐる様々なゲームはどのように異なり、どのような形式で始められるか、と問う。真理陳述の批判哲学では、主体一般が対象一般をどう認識するかは問われない。主体一般が対象一般をどう認識するかは問われないのである。主体同士が、各人が誓約する真理陳述の形式の中で、またその形式により、どのように実際に結びついているかを問うのである。[…]真理陳述の視点から見れば、「真実を言う」ことの出現を説明できる。[…]真理陳述の批判哲学の目的は、[…]真理陳述の諸様態をそれらの複数性において定義しようとし、様態のそれぞれが「真実を言う」主体を縛るための義務の諸形式を探ろうとし、諸様態が適用される場と出現させる対象領域を特定しようとし、そうした領域の間に成立する関係、つながり、相互干渉を特定しようとするのだ。(ミシェル・フーコー『悪をなし真実を言う』)

 『キズナイーバー』においては、法子によって出頭させられた少年少女たちが手始めに「自己紹介」という名の告白大会を強制されている。少年少女たちをキズナシステムという鎖によって傷口=痛みを連接し、彼らに「告白」させるのである。この描写には、「キズナシステム」を統治技術=告白装置として用いるという側面がある。そこで法子が行ったこの「告白大会」における、「キズナシステム」を「統治技術」=「収容-告白装置」として運用していると思しき特徴を、ミシェル・フーコーが「告白」に関して分析したことに基づいて列挙してみることにしよう。

①自分が何かを言った、または行ったと認めることを口述によって「宣言」させること。
 話す人が自分についてはっきり述べよ、ということ。しかし、何かを行ったとか言ったと宣言するだけでは、告白は成立しない。通常自己紹介と考えられていることでは法子の下では自己紹介としては成立せず、事実上告白大会であるというのは、少年少女らが自分自身について普段意識しているかいないかを問わず忘却ないし隠匿していることを言わねばならないからである。

②その「宣言」が「言わないこと」から「言うこと」への移行において高いリスクを伴っていること。
 法子が少年少女らに告白させようとしたことは、彼女において未知の事柄或いは見えていないものではなく、むしろ既知の事柄或いは見えていたものである。法子が行った告白大会の告白においては、法子にとって未知か既知か、或いは可視か不可視かの分かれ目が問題だったのではない。彼女が行わせたことからうかがえるのは、出頭させられた少年少女たち全員の前で告白をさせるうえで、告白における「言わないこと」から「言うこと」への移行の成立において、「言わないこと」にはっきりした意味や特定の動機、当人を揺るがしかねない重要な価値があったと認められることが問題であったということである。「宣言して周知すると高くつくリスクがある」、だからこそ告白だといえる。

③収容・監禁・拷問・責め苦によって、法子が調査した情報通りの回答を口述するよう宣誓させること。
 恐らくキズナシステムを用いての告白大会の強要という点において、「全く持って気狂いじみてる」と思われるのは、法子がこの点について淡々と進めていく描写であろう(劇中のキャラたちの様子からしてもそうだが、軽蔑されても仕方のないことである)。キズナシステムで傷口=痛みを連接しておいて、阿形勝平を拘束し、法子の調べた情報通りの回答が告白されなければ、「やり直し!真実を言いなさい!」と阿形の身体を痛めつけることで同時に全員に痛みを分け与える。また一定の施設に集め、制限時間を設け、制限時間内に告白されなければ施設が崩壊していく仕掛けにしている。しかも他人の前で言いたくないようなことを言わねばならない。これが収容・監禁・拷問・責め苦と言わずしてなんであろうか。しかもこれを強いる法子の言い分は、従わせる相手に自由(自=由)であれ、つまり自己であれと求める権力の言い分である。彼女の言う「自己紹介をせよ」という命令の意味は、端的にまとめれば次の通りである。

 あなたたちが全くの自由から、自分が調べた通りの者であることを告白できるようにしてあげましょう!

 法子は少年少女たちに、自分が調べた通りの者であることについて話すことを宣誓させている。自分が調べた通りのものであること(前章で述べたことに照らし合わせれば法子による実存論的分析の通りのものであること)を理由にして、その通りの者であることを宣誓させているのである。ただ単に「言わないこと」の体制から「言うこと」への体制へと移行させる=ただ単に肯定させるという奇妙な、気味の悪い冗長さが、この告白大会には潜んでいるのである。

④少年少女たちに「譲歩」を迫り、少年少女たちに及ぼそうとしていた権力の手がかりを得ること。
 法子が課した自己紹介ルールに従わなければ、自分たちはこの収容・監禁・少年少女たちは根負けして「譲歩」している。これは強制的に譲歩させているのである。何についての譲歩かといえば、当然、「自分が自分について言いたくなかったことを言う」ということについてである。厳密な意味での告白は、権力関係の内部にしか存在せず、告白をきっかけに、権力関係が告白する者たちに行使される。法子はキズナシステムを告白装置の一環として用いているのである。ところで、ここで「装置」といったのは、フランス語のdispositifのことだと言っておこう。dispositifは訳語としては「引き抜き装置」とでも言い表し得るもので、ニュアンスとしては、positifされたものをこちら側へとぐうっと引っ張り出すとか、引きずり落とすといった、positifに「ずらす」というニュアンスでのdis-が接頭辞としてくっついているものである。「告白装置」という場合に、その装置がdispositifであって、「ある状態から切り離して別の状態へと移行させる」、つまり「告白装置」の場合は「「言わないこと」の体制から「言うこと」への体制へと移行させる」というニュアンスがそこに既に含まれていると考えていただきたい。また、dispositifは軍事用語としても用いられる語である。それは「配備・配置」という意味であり、また緊急作戦基地の「作戦・戦略」という意味もある。通常態では「言わないこと」の体制である劇中の少年少女たちを、その通常態から引き離して「言うこと」への体制へと移行させるために配備・配置された作戦・戦略としての「告白装置」、これが法子が七人の少年少女たちに行使した権力関係の在り方なのである。告白装置はこうした権力関係を生じさせ、またその権力関係を強化させるわけだ。余談ではあるが、劇中の大掛かりな仕掛けを見てもわかるように、この告白装置は、『キズナイーバー』においては社会的絆という名の下での技術的画一化のためのgouvernementalité(統治技術=統治心性)に、多大なコストをかけていることが、劇中においては見て取れる。

⑤現存在を当の現存在が主張した事柄と結びつけながら、語られた事柄との関係で現存在をそれまでとは違ったように性格づけること。
 これが「自己(へ)の気遣い」というとても重要な大問題にかかわる。キリスト教的な実存的了解においては「罪か-信仰か」、この「これか-あれか」が問題なのだ!ということで前章を締めくくっておいた。法子が自らの理解に基づいて行った実存論的分析によって明らかにされたのは、七人の少年少女たちの実存カテゴリーないし事実性であり、それら実存カテゴリーないし事実性が、彼らが実存的了解とするところのものであって、それらはまた実存論的分析からすればすべて罪責的な自己=非本来的自己=頽落=世人的な実存方式であるということであった。法子の実存論的分析が示しているのは、少年少女たち諸現存在の実存的了解が、存在相的(Ontisch:諸々の現存在が一定の現存在ないし現存在以外の存在者と関わる際にそれらが呈するありようや、それらについての諸々の現存在の日常的な日々の経験)には最も身近なものであるが、存在論的(Ontologisch:存在相的な経験の成り立ちについて改めて反省的な眼差しを向けること、またそういった反省によって初めて開かれてくる構造)には程遠いものであるということである。そのキリスト教的な観念の理解に基づいた実存論的分析を、少年少女たちを出頭させるのに利用し、またキズナシステムを告白装置の一環として用いることによって法子が少年少女たちに強いたのは、少年少女ら諸現存在の各々の実存様式が非本来的自己=頽落=世人であるということの強い自覚の促しによる、絆(社会的絆)を結ぶという名の技術的画一化・個人性平坦化・「服従=主体化(assujettissement)」である。つまり、ある種の規範への従順或いは自発的隷従の促しである。この促しが「「自己意識」の自覚の始まり」としての「「自己の自己への関係」の始まり」(フーコー)、或いは「「関係それ自身に関係する関係」の始まり(キェルケゴール)、つまり「自己(へ)の気遣い」の問題系の始まりとなる。
 法子の行使した権力関係である告白装置によって少年少女たちに施されたのは、少年少女たちが「普段から前面に出している自分」と、「普段は隠匿している自分」という二項の明確化と、その二項の関係の統一化である。そこで問題となっていたのは「不安」とその不安からの逃避という形での、その仮初の治癒である。「本当の罪は忘却ぶりっ子」と言っている法子の発言について、このように単に「罪(絶望)か-信仰か」という少年少女ら諸々の現存在のキリスト教的な実存的了解の実存論的分析からしたら作中の全員が「罪(絶望)」という実存カテゴリーにあてはまるのだとする解釈は、セーレン・キェルケゴールの仮面著者アンチ・クリマクスが『死に至る病』において次のように言っていることが作中全員に普遍的に妥当する事実性であることを意味する。「医者は恐らく全く健康であるような人間は一人もいないというであろうが、それと同様に、もし人が人間を正しく知るなら、少しも絶望していないような、またその心の奥底に、動揺、軋轢、不調和、不安を抱えていないような人間など一人もいないというに違いない。不安といったが、それは見知らぬ何かに対する、或いは彼自身敢て知ろうとしない何かに対する不安であり、また、人の世に生きること(デンマーク語Tilværelse=ドイツ語Dasein:現存在)の或る可能性に対する不安であり、或いは、自己自身に対する不安である。かくして人間は、医者が身体に病気を伴っているというのと同様に、ある病を伴っているのである。即ち、時折ふとした弾みに、それが巣食っていると自分でも言い知れぬ不安を伴って気づかしめられるような、精神の病を抱えて彷徨っているのだ。ともかく、絶望したことのないようないかなる人間も、キリスト教界の外部にはひとりも生きていたことがなかったし、また現に生きてもいないのである。それは、人が真のキリスト者でない限り、キリスト教界の内部においても同様である。そして人間は、完全にキリスト者に成りきっていない限り、彼は幾分なりとも絶望しているのである」(セーレン・キェルケゴール『死に至る病』)。「不安」は人間の根源的な衝動とされるわけであるが、この点について徹底的に分析されているのは、『死に至る病』というよりはむしろ、キェルケゴールが別の仮名著者ヴァルギリウス・ハウフニエンシスの名を持って刊行した『不安の概念』である。不安は人間の本質としての永遠なる精神によって規定されているとするのがハウフニエンシスであり、彼によれば、人間とは精神によって担われた心-身の綜合であり、不安とは人間がこのように綜合体としての人間本性の精神的側面を告知する者に他ならない。新約聖書『テサロニケ前書』5章23節には「願はくは平和の神、みづから汝らを全く潔くし、汝らの靈と心と體とを全く守りて、我らの主イエス・キリストの來り給ふとき責むべき所なからしめ給はん事を」とある。『不安の概念』には、「不安の現象学」或いは「不安の類型学」とでも呼べるような、不安現象の諸形式が極めて鋭く分析され展開されているが、その根本には、この『テサロニケ前書』の引用の意味に即するように、心(心的なもの)と身(肉体的なもの)の綜合が課題として据えられている。不安は、この心-身の相互作用において生じるとされる。『キズナイーバー』の場合、この「心」と「身」に相当するのは、前者が「普段は隠匿している自分」であり、後者が「普段から前面に出している自分」ということになる。法子の告白大会においては「現存在同士がその心(普段は隠匿している自分)-身(普段から前面に出している自分)の相互作用の領域において対自化している自分の他者への周知化」が問題とされているわけである。この周知化によって何がなされるのかというと、少年少女たちにおいて「みんな同じなんだよ!」という認識の共有であり、その共有から「一緒に頑張ろうね!」の社会的絆の規範化を引き出すということである。大掛かりでコストもバカにならない告白装置の運用によって不安を煽りながら、これによって心-身の相互作用による不安を、仮初にではあるが鳴りを潜めさせるというわけだ。告白という言語行為によって、少年少女ら諸現存在は自分が何者であるかを開示し、この規範に自らを結び付け、他者に従属する関係に身を置くことになるわけである。ここに、現存在を当の現存在が主張した事柄と結びつけながら、語られた事柄との関係で現存在をそれまでとは違ったように性格づけることが成就されるわけである。しかし、これで本当に不安が治癒されるわけではない。いや、それどころか、キリスト教的な観念に基づいて実存論的分析を行えば、このことによって少年少女たちは、かつての絶望的な状況よりもより罪深い絶望者になる。そしてまた、そのようなことをしている法子は法子で自分のしていることが罪深いことであること、絶望者のすることであることが分かっていながら、破滅無視でやめることができない。回を追うごとに罪深い絶望者となっていき、九話を境に離散していくその様と、そこからの転回として、キズナシステムと関係なく再び集合する少年少女たちという描写について解釈するには、「忘却ぶりっ子」たちの「罪の現象学」とでもいうべきものの導入が必要になってくる。その導入によって、『キズナイーバー』において描写されている「規範化に直面し、それに対抗して「自己(へ)の気遣い」はある」というフーコー的なテーマの増幅的論証が可能であろうと考えられる。規範に自らを結び付け、他者に従属する関係に身を置くことには、ただちに、「自己の自己への関係」というかたちで、フーコーが言うところの規範と対をなす倫理の問題、規範と倫理の関係の問題が生じる。この点については別の章を設けることとしたい。

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