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『キズナイーバー』思索公開メモ帳2

4.「現代日本版七つの大罪」と「本当の罪は忘却ぶりっ子」について

 聖書は凡ての者を罪の下に閉ぢ籠めたり。(ガラテヤ書3章22節)

 理解として現存在は、自分の存在を様々な可能性に向けて投企する。可能性へとかかわるこうした理解する存在は、それ自身可能性が開示されたものとして現存在の内へと反転することで一個の存在可能となる。理解が有する投企の作用は、自分を完成させるという固有な可能性を伴っている。理解の完成を解釈と名付けよう。解釈にあって理解は自らが理解したものを理解しながら領有する。解釈において理解は何か別のものになるのではない。自分自身になるのだ。解釈は実存論的には理解の内で基礎づけられており、だから理解が解釈を通じて生成するわけではない。解釈するとは、理解したものから情報を受け取ることではない。理解にあって投企されている可能性を仕上げることなのである。日常的な現存在をめぐるこうした予備的分析の進行に従って、私たちは解釈という現象を世界の理解に即して跡づける。つまり非本来的な理解に即して、しかもその真正な様態において追うことになる(マルティン・ハイデガー『存在と時間』第三十二節「理解と解釈」)。

 『キズナイーバー』では、鑑賞者にはご存知の通りキリスト教の観念が取り上げられている。「七つの大罪」は、よく知られているように「傲慢」「貪欲」「嫉妬」「憤怒」「大食」「色欲」「怠惰」である。これを『キズナイーバー』では、園崎法子がその名にある如く、自分自身の法(理解)に基づいて七人の少年少女たちを出頭(共-出現)させた際に、「現代日本版七つの大罪」と称して「愚鈍」「独善ウザ」「脳筋DQN」「狡猾リア」「上から選民」「不思議メンヘラ」「インモラル」に改変され、少年少女たちをそれによってカテゴライズし、ラベリングした形になっている。これらは、法子が自らの理解に基づいて、七人の少年少女たちの「実存論性(Existenzialität)」を分析して発現させ、獲得した解明項である。現存在の実存論性を分析する、つまり実存論的分析というのは、現存在の実存を構成するものを解釈的に解明するということを目的としている。この解明項は、ハイデガーが「実存カテゴリー(Existenzialien:訳によっては実存論的カテゴリー・実存論的範疇・実存範疇・実存疇・実存規定等々)」と呼んだものである。それが実存カテゴリーと呼ばれたのは、その解明項が実存論性から規定されている現存在の存在性格を表しているためである。この現存在の実存論的分析を可能とするためには、現存在に固有な「実際に目の前にある在り方」の様式について、現存在の特殊的な構造から目をそらさずに、その構造を前もって理解していることが必要となる。それぞれの現存在がその都度それとして存在する、現存在に固有な事実が「実際に目の前にある在り方」を、ハイデガーは現存在の「事実性」(Faktizität)と呼んでいる。重々気を付けなければならないのは、この実存カテゴリーないし事実性が、現存在の分析を目的として獲得されるものであって、現存在以外の存在者が有する存在規定としての単なる「カテゴリー(Kategorie)」ないし「事実(Faktum)」とははっきりと区別されていることである。カテゴリーないし事実のほうは、ただ単に「現前する事物が一緒に目の前に存在しているだけのもの」、「現存在以外の存在者を目の前にあるもの」「ただ目の前にしか存在しないもの」として把握することに関わる。先に見た実存カテゴリーのほうはそうではないことが強調されなければならない。ただし、実存カテゴリー及びカテゴリーのどちらも、「カテーゴレイスタイ(述語づけること)」ではある。これは、「ロゴス(ないしはノエイン(思考すること)。これについては『灰羽連盟とグノーシス』を参照)」という、世界の内部で出会われる現存在ないしそれ以外の存在者へと接近する仕方の内で出会った現存在ないし現存在以外の存在者を、際立ったレゲイン(語ること・見えるようにさせること)においてつかまれうるものとするということである。カテーゴレイスタイには、元々「公的に訴える」とか、「誰かを何かについて万人の前で面責する」という意味があり、ここでのカテーゴレイスタイは、「存在論的に、存在者がその都度既に存在者としてなんであるかについて、存在者をいわば面責すること」、「存在者をその存在において万人に見えるようにさせること」という意味を持っていると考えていただきたい。そのように見ることで見られたもの、見ることが可能となったものが「実存カテゴリー」及び「カテゴリー」の双方を含む「カテーゴリアイ(諸カテゴリー)」である。法子のいう「現代日本版七つの大罪」は法子の理解に基づいた実存論的分析による解釈的な解明項である実存カテゴリーが少年少女たちに割り振られたものなのである。

 さて、ここでもう一つ問題に突っ込まなければならない。それは法子によって「現代日本版七つの大罪」の実存カテゴリーが割り振られている、当の少年少女たちの実存的了解と、法子による実存論的分析の関係である。「実存的(Existenziell)」と「実存論的(Existenzial)」は異なる。先に法子の実存論的分析について取り上げたように、実存を構成する構造について分析的に問う態度や、それを通じて見えてくる構造を実存論的というのに対して、実存的というのは、文字通りには現存在の存在としての実存に関わるということである。現存在は自分自身を常に自らの実存から、つまり「自己自身であるか、自己自身ではないか」という自己自身の可能性から理解しているが、こうした可能性を現存在は、自身で選んだか、或いはその可能性の内へと入り込んでしまっているか、或いはまたその都度既に、その可能性の中ではぐくんできたかのいずれかである。この「実存的」という言葉には、現存在が各自、本来的に実存しているか否か、或いは自分の生き方の成否が問われる、というニュアンスがある。実存はそれをつかみ取り、或いはつかみ損ねるという様式で、その時々の現存在自身によってだけ決定される。キリスト教的な実存的了解としては、「罪(絶望)か-信仰か」、それが問題だということに関わる。法子によってラベリングされた「現代日本版七つの大罪」という実存カテゴリーは、当の少年少女たちの実存的了解としては、その実存の選択理由ないしその選択理由に自覚があるかないかの違いが各自にそれぞれあるとはいえ、大体ハイデガーが非本来的自己=頽落=世人(Das Man)というところのそれを実存方式として選択しているということになる。これがキリスト教の価値観における「罪(絶望)か-信仰か」の問題からすれば「罪(絶望)」に相当する。「現代日本版七つの大罪」でも、キリスト教的な実存カテゴリーとしての「七つの大罪」と同様に「罪」と言われるゆえんは、それらの罪のどれもが、キリスト教的に見れば、「自己(へ)の気遣い」を欠いている、つまり、その非本来的自己という「自己の非真理」が実存方式であり、それらの実存方式は全て本来的自己を「忘却・隠匿」しているという点で共通しているからである。「自己(へ)の気遣い」とは反対のことが生じているわけである。

 実存主義の先駆者と言われるセーレン・キェルケゴールによれば、キリスト教においては「自己(へ)の気遣い」こそは正しく建徳的なものである。「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」と『ロマ書』8章28節にはあるが、キェルケゴールはまさにこれに則って「キリスト教的に言えば、全てが、実に全てが建徳のために奉仕すべきである」(セーレン・キェルケゴール『死に至る病』)と述べている。建徳とは何かということについては既に『建徳的物語としての灰羽連盟』の項でも述べているが、ここにも書いておくことにしよう。建徳の意味は「単なる量的な知識の集積をこととするのではなく、もっぱら精神の深みから信仰を打ち建てること」である。「全てキリスト教的なものは、その叙述において、病床に添う医者の語らいに似たものでなくてはならない。仮令医学の知識ある者のみがそれを理解するとしても、それが病床の傍らにあるということは、決して忘れられてはならない。キリスト教的なもののこの人生への関係(それは人生から冷たく距離を置いた学問の態度と正反対といえる)、或いは、キリスト教的なもののこの倫理的側面、これこそ正しく建徳的なものである。この種の叙述は、それがいかに厳密であろうと、あの無関心な学問のあり方とは、全く質的に異なっているのである。学問の崇高な英雄主義も、キリスト教的に言えば、英雄主義どころか、キリスト教的に言って、ある種の非人間的な詮索好きに過ぎない。敢て完全に自己自身に成ろうとすること、一人の単独の人間、ただ一人神の前に立ち、ただ一人この巨大な努力とこの巨大な責任において、この特定の単独の人間になろうとすること、それがキリスト教的英雄主義であり、実際それは恐らく稀にしか見られぬものなのである。[…]全てのキリスト教的知は、気遣われたものでなければならない。けだし、この気遣いこそ正しく建徳的なものだ。気遣いは人生に対する、即ち人格の現実性に対する関係であり、かくしてキリスト教的に言えば、真剣さである。キリスト教的に言って、無関心な知識の崇高さは、より真剣であるなどとはもってのほかで、キリスト教的に言えば、冗談であり虚栄に過ぎない。しかして真剣さこそ建徳的なものなのである」(セーレン・キェルケゴール『死に至る病』)。ここでキェルケゴールが全てのキリスト教的知をして気遣われたものでなければならず、それこそが正しく建徳的であるとしているのは、「自己(へ)の気遣い」のことなのである。建徳的なものとして、「愛は徳を建つ」(『コリント前書』8章1節)とあるように、愛の業が挙がるが、これには〈自己(へ)の気遣い〉の問題系統がすべて含まれている。つまり、「自己(へ)の気遣い」には、神への顧慮としての信仰、他者への気遣い、世界への気遣いが含意されているということだ。キェルケゴールはここで、世界への、自己への、他者への、そして神への無関心な知を斥けつつ、世界が人間にとって何を意味しているか、人間とは世界にとって何を意味しなければならないか、人間自身がそれによって世界に属しているその人間の内にある一切のものが人間にとって何を意味し、世界の内に有る人間が世界にとって何を意味しなければならないか、これらのことについての気遣いが、人間の精神(自己)に覚醒するということ、このことが建徳につながると言っている。これが「自己(へ)の気遣い」であり、自己自身を得ようとして真剣に努力するということなのだと。新約聖書は次のように述べている。「人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、 人その生命の代に何を與へんや」(『マルコによる福音書』8章36-37節)。「人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を與へんや」(『マタイによる福音書』16章26節)。「人、全世界を贏くとも、己をうしなひ己を損せば、何の益あらんや」(『ルカによる福音書』9章25節)。キェルケゴールによれば、キリスト教的には、「自己(へ)の気遣い」が建徳と覚醒による神への信仰への導きにつながることになる。この信仰と対立するのが、キェルケゴールが言うところの「死に至る病」であり、「絶望」であり、「罪」というわけである。つまるところは、根本的にはこの神への信仰に関わる「自己(へ)の気遣い」を、「自己の真理」を、「自己の非忘却・非隠匿」を、欠いてしまうということに直結する。先に見た通り、つまるところ、キリスト教の全てが「信じられるか躓くか」「信仰か絶望(罪)か」という「これか-あれか」を問題としているわけである。これでひとまずは、法子が言う「本当の罪とは忘却ぶりっ子」の意味は通るであろう。私見では、「本当の罪とは忘却ぶりっ子」というのは、広義の意味で捉えれば、作中においては、当初の少年少女他、全員である。これは法子も例外ではない。だが、「最も罪の重い者はだれか」ということを分析しての狭義の意味では、これは法子自身に該当すると言わざるを得ない。これは「忘却ぶりっ子」が、その当人において、本来的自己を忘却していないにもかかわらず忘却ぶっていると捉えた場合、それはつまり本来的自己について自覚しているにもかかわらず、本来的自己であろうと欲さず、また最終的に、更に非本来的自己であろうと欲するという最大級の罪(絶望)を実存方式としているということになるからである。また、主人公・阿形勝平の実存カテゴリー「愚鈍」に関しては、法子との関係からしても、キリスト教的観念からのさらなる解釈が必要である。これらについてはまた別項で取り上げることにしたい。

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