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2016年2月16日の記録

二日間の準夜勤が終わった。この“にじゅん(=二日連続準夜勤務)”は、引っ越してはじめての出勤だった。職場から近い寮に引っ越して、通勤時間が5分、ということの、自由と不自由をたのしんでいる。夜勤が終わってお腹が空いたらどうするの?と後輩に聞くと、「同期とかとコンビニに行ったり、ファミレスに行ったりですね」と返ってきた。お腹がすいていた私は、今日一緒に準夜で働いてた二年目ナースふたりと一緒に、コンビニへ。腕を傷めてから、機会飲酒にしようと思っていたはずなのに、アルコールを買ってしまった。

今日受け持っていた患者さんのなかで、死期が近づいてきている方がいた。受け持っている、たった8時間のなかでも、徐々にそのときに近づいていっている、ということをありとあらゆるサインから感じる。そういう特別な時間のなかにいるとき、私はいつも、その方や家族とのいろんなやりとりを思い出す。

今まで、たくさんの方の死に出会ってきた。たくさんの方の死亡宣告を聞き、たくさんの方の最期の体拭きをした。彼らや彼らの家族の“それぞれの物語”がそこにはあって、どれもが尊いなあといつも思う。悲しみや安堵、動揺、否認や怒り、感謝。見送るひとから湧き出るたくさんの感情と、死にゆくひと。

いつも思うのは、“ひとはそのひとらしく死ぬ”ってこと。そのときは、ゆるやかな時間や急速な時間、穏やかな時間や壮絶な時間、いろんな時間なんだけど、やっぱりそのひとらしいなあと、いつも、思う。めっちゃ気を遣うひとがちょうど病棟が静かなときに亡くなったり、我儘でさみしがりやなひとが物凄く忙しいときに亡くなったり、そういうことは本当によくあって、こじつけかもしれないけれど、「あのひとらしかったね」と、同僚と話したりする。たとえばそうやって、私たちは、彼ら自身と、彼らの死に向き合いながら、仕事を続けている。

私は、大学二回生のときに、自分の祖父が亡くなったときに泣いている看護師さんをみて、物凄くうれしかった、という経験をした。学校とか、見たことのある漫画や本のなかでは、看護師は泣いちゃいかんと言われたりもするけど、あのとき私は、自分の感情を大事にできる看護師になろうと思った。泣きたいときには泣いて、怒りたいときには怒れる、嬉しいときには嬉しいって言える、そんな看護師になりたいと思った。仕事ができなくなるほど感情失禁しちゃいかんし、患者さんや家族のことを置き去りにしちゃいけんけど。その価値観は、11年働いた今でも変わってない。し、これでよかった、って、思う。

明日は晴れるかなあ。っていう感覚と同じくらいの浮遊で、彼はまだ生きているかなあ、って思ったりしながら、お酒を、飲んでいる。もうすぐ、夜が明ける。夜のうちに、寝なくちゃなー。今日は休日だー。大切に、時間を、すごせますように。酔っ払えなかった夜に、おーやーすーみー。

※写真と本文はあんまり関係ないですが、先日友人からもらった秋田土産。準夜の休憩時間に、休憩室で、いただきました。

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