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2016年2月3日の記録

夜勤が明けて飛び出す外の世界はいつも眩しい。2016年2月3日、晴れ。桜が咲き始めていていることに気づいたのは昨日でした。外に出た瞬間まさかの桃色に出会い、ぱあっと気分が華やいだ。これは河津桜なのかな。まだ若い桜だ。いつ植えられたんだろう。通り過ぎた患者さんに「これ、梅じゃないよねえ、桜よね。」と話しかけられて、しばらくふたりで見上げながら微笑み合った。あと2ヶ月もしないうちに、きっと、この庭いっぱいに、桜が咲く。私は、うちの病院の桜が本当に大好きだ。

昨日の午前勤務のときのこと。12月まで担当していた男性患者さんの食事介助に入った。認知力の低下がある彼は、新しいことを覚えるのは難しく、食事も更衣も、その方法を忘れてしまったのか、怠くて仕方がないのか、自分ではできず、動かす手が止まってしまう。入院したちょっと後に「入院中の担当です。宜しくお願いします。」と挨拶しに行っても、頭上に“はてな”が飛んでいた彼だった。そんな彼が私のことをインプットしたきっかけは、私の出身地の話をしたとき。愛媛出身。村上。すぐに、彼の口から村上水軍の話が出た。「末裔なの?」と目を丸くして聞いてくる彼に私は「そうかもしれないんですよ」と答えた。彼はその日から「僕の担当の人はすごいんだよ。村上水軍の末裔なんだよ。」と言うようになった。奥さんは、「夫は歴史が好きだったんです。村上さんのこと覚えたみたい。」と、嬉しそうに笑った。今回に限らず、今まで、“村上水軍の末裔(かもしれない)”という会話に花が咲くことはよくあった。特に男性患者さんでその話を好んでする方が多く、私は時々起こるこの現象を『村上水軍の末裔特権』と心の中で名付けている。
前置きが長くなってしまったけれど、昨日私は、彼に久しぶりにお会いした。1週間位前に会いに行った時は私の顔も忘れていて、村上ですと挨拶しても「覚えてない」と返ってきた。でも、昨日は違った。「久しぶり!君に会いたかったんだ。」と笑う。私のこと覚えてますか?と聞くと、「覚えてるよ、最初から僕の…ほら、最初から…」と言葉は続かなかったけど、最初から担当していた看護師と言おうとしていることはわかった。
食事の途中、何のきっかけか、私を私と認識しなくなり、彼は横にいる私にこう話した。
「いやあ、彼女、久しぶりに顔を見せてくれたんだよ。仕方ないんだ、彼女はとても忙しい人なんだよ。島をひとつ守っててね。大変なんだ。」
…いつの間にか、私、彼の中で末裔じゃなくて、海賊になってる!?
って、心の中で叫び、心の中で笑った。

そんな昨日の彼との歴史的な会話は私の看護師心をくすぐりました。事実はどうだろうがそんなことは問題じゃなくて、彼の物語の中で、共に時間を過ごせばいいんだ、と、思った。確証のないこの村上水軍問題だけど、それを敢えて正す必要はないなあ。彼を想う気持ちで、このままを、演じればいい。そういえば、私は、嘘をつくのがとっても得意だったんだ。
…介助をすませた後廊下を歩きながら、銀色夏生の詩で『うまいうそ』っていうのがあったなあ、私はそれが好きだったなあってことを、思い出しました。あれ、どんな詩やったっけ。


毎日が過ぎていく。気が遠くなるような繰り返しの日々やけど、ひとつひとつのエピソードは、時にとてもおかしくて、愛おしい。先が見えなくて呆然と立ち尽くす彼女にも、死が近づいていることを感じて静かに目を閉じている彼にも、痛みに泣く彼女にも、心をかき乱すような辛苦の時間のなかにも、ふっと穏やかに笑えるときがある。いつかは、ある。きっと。
それくらい、ひとは、たくましい。し、そういう瞬間に出会えるような強さで、誰かに愛されたり、何かに愛されたり、しているのかもしれない。微かでいい、そういう光のひとつになれたらいいな、と、私は夜勤と夜勤の間の青空の下で思いました。
さあ、今日の夜勤のために眠ろう。

2016年2月3日

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