もやもや
得体の知れないモヤモヤが今心の中にいるので言語化してみることにした。
このモヤモヤができたのは、ある人のブログを読んでからだ。その人と面識はないが、友達の友達といったところだろうか。私は知っているが、向こうは知っているかわからないくらいの関係である。
その人のブログを読んではっとしたのかもしれない。
私は賢くなりたい。
幸せに暮らすことができたらそれでいい。
この二点が頭から離れない。
その原因は、おそらく最近自分がしている就職活動のせいかもしれない。
私は賢くなりたい、という点について。
最近自分の入りたい企業を複数見つけたのだが、どうしても自分が入るのにはハードルが高いのではないのだろうか、と危惧してしまう。要するに、自分の入りたい感情よりも先に、ハードルという外部の影響を考えてしまっている。
私は賢くない、スペックが高くないから、入ることが難しいだろう、そのため、入るために必要な下準備としてインターンをしないと、という風な思考になってしまう。
今考えると、それはそれでいいかもしれない。目標に向かって逆算的に動こうとしていて、計画性が良いとも見れる。
しかし、引っかかる。それはおそらく日本の就活ガチ勢になりたくない、なる意味がないと思っているからかもしれない。
インターンをする意図が成長という前提として存在するなら、むしろ、私は大学院に進学したほうがよいのではないだろうか。英語も伸びるし、自分の意見を主張できるようになるし、なんといっても、自分が周りを気にすることなく、夢中になって、勉強を楽しみながら成長できる。
そこでまた立ち止まる。私はもともと賢くないから院に行く価値があるだろうか。この自分は賢くない思い込みをどうにかしたい。
と思っていた時に、自分は賢くなりたいという意見を目にしたとき、あ、そう思ってもよいのだ、という安堵感みたいなものを感じた。
と同時に何度も繰り返すが、自分が賢くないと思うことから発する不安が先走り、それが今している就職活動への思いにも敷衍したため、モヤモヤしているのだと思う。
やっぱ私も賢くなりたい!
次に二点目。幸せに暮らせたらそれでよい。
この点に関しては、同意もするし、そうではないと首をかしげることもできる。
この【幸せに暮らせたらそれでよい】という文面には(自分が)幸せに暮らせたらそれでよいというような意味合いが感じられた。
その点に関しては私はそうは思わない。なぜなら、自分が幸せでも友達が幸せでなかったら私は心の底から幸せにはなれないからである。
もう一つ、この意見は自分にとって幸せとは何なのかということをあらためんて考える機会をくれた。
自分にとっての幸せとは、、、やりたいことができる環境があること。自分の底にある欲求が満たされること。
その底にある欲求というものを、私は殺して生きてきた。周りの目を気にし、周りに迷惑をかけてはいけない、親に頼りたくない、から自分が我慢をすることが賢明である。という風にして、今まで、我慢する場面が多かった気がする。
しかし、この我慢の原因が周りにあるというわけではない、ただただ自分が我慢をしてしまっていたという事実があるだけだ。
これだけ聞くと、幸せでない人生を送ってきたように聞こえるかもしれないが、そうではない。運命と偶然が重なってできた、今という時間を、与えられた人生を私は存分に生かし、幸せな人生を送ってきたと胸を張って言える。
しかしこの状況はあくまでも、自分の奥底にある欲求から作り出したものではない。後発的な幸せということだろうか。幸せになったという風に表現してみようと思う。
私にとっての幸せとは、自分の底にある欲求を呼び起こしてありのままに生活することだ。やりたいことができる状況の中で、ありのままの幸せを感じることだ。
今留学中に本気で感じている。英語に夢中になれる幸せ、自分の言いたいことが言える幸せ、我慢しない幸せ、つまり、自分らしく自分のしたいことができる幸せだ。
となると、自分は、自分らしく自分のしたいことをするところがどこであるかと考えてみると、やはり今は海外で勉強することだ。
そのような考えをみんなが持ってくれたらいいと思う。私は、そのような環境にいたいし、そのような環境にいるためには、そのような環境を作る必要がある。
うーーーんん、、海外で勉強したいけど、、、それでいいんやろうか、、環境づくりは人任せになっちゃうなあ。
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