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わたしの半生

私が生まれてから、早半世紀となる。
この世に生を受けたその時から、私の生きる意味が始まった。
私が私であることが、価値そのものであるためである。

生まれてすぐ、私は他の同志と共にいた。
同志は、同じ価値観を共有できる唯一の仲間であるのだが、こうして一同に集まっていられるのはこの一時期しかない。
卒業のときを迎えると、一斉に封を解かれて堰を切ったように飛び出す。
そうして、広い世界に散っていく。

初めての勤務先は、ある家庭であった。母親は私を、その息子に渡した。
少年は私を慈しみ、大切そうに抱いてその足で近所の駄菓子屋に向かった。
そうして私と、もう一人の先輩2人は、少年のもとを離れて駄菓子屋に居を移した。

しばらくのうちは、いく人かの少年の元を行ったり来たりしたものである。
ある時は、先輩や後輩と並んで赤や黄色の台の上で並んでいた時もある。
その時の、私たちを掴む手は、急いでいるのか、名残惜しいのか、人それぞれ違っていたが感情に溢れていた。

十数年が経ち、ある時から暗い場所で他の先輩後輩たちと同居するときが増えた。
私と同じ年度でも、「カテゴリー」の違いで出入りのスピードが違った。
私はそうした中でも比較的出入りが早い方だったので、今まで通り様々な場所を転々として過ごした。
昔のように、人の手の中にいる時間は減ったが、人々の嬉々交々をそばで見てきた。

そうして私も歳を取った。色々な出会いや別れを経て、身も擦れて痛んできた。
時折出会す同志からは、我々には定年は無いが、あまりにも老化が進むと、お上からお声がかかるらしい。
なので付き合う人には気をつけたほうがいいぜ、という忠告も受けた。
自分で言うのもなんだが、正直まだ他の同志よりは綺麗なので、もう少しこの世界で行き続けられそうだ。

ただ、最近は携帯電話だのキャッシュレス決済とかいう手段も出てきて、我々10円玉の出番が少なくなってしまった。
長生きできるのは嬉しいが、かつてのように色々な場面で活躍したいものである。

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