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チリのエリートが消したい人々 - マプチェについて(前編)

最近チリ大学で “Chilean Studies” という講義を受け始めました。2019年からチリ大学で留学生/外国人向けに開講されており、チリの建国から民主化までの歴史、先住民の歴史、音楽や文学に代表される文化や経済政策に至るまで様々な角度から学ぶことができます。受講生は、チリ大で博士号を取得予定のイタリア人やチリにルーツを持つ米国人、チリに永住予定のロシア人から私のようにパートナーの仕事で短期滞在している英国人を含む多様なバックグラウンドを持つ10数名で構成されています。

チリ大学のキャンパス

学びを通して特に感じるのは、植民地支配を経た南米という地域自体の特殊性です。当たり前ですが、大方日本で育ち日本の歴史を中心に学んできた身としては、社会自体が全く異なるダイナミクスで成り立っており、自分の知識や経験のみでは理解が限られてしまうのを日々自覚させられます。

そのような限界を感じつつも、今回は講義のテーマの中でも特に関心を持ち、現地のニュースでも目にすることが多い、先住民のMapuche(マプチェ)と国家の対立関係について書きたいと思います。植民地としての歴史を持つ国では普遍的な課題ではありますが、チリは海外と比べても対応が遅れており、その理由を調べることで、背景にあるチリ特有の事情が浮かび上がってきます。

そもそもマプチェとは

マプチェの家族

マプチェとは、チリに現存する11の先住民族のうち最も人数の多い民族です。16世紀にスペインによる植民地化が始まる前は、現在のチリとアルゼンチンに跨る広大な土地に住んでおり、一部は遊牧民として暮らしていました。

マプチェという名前自体、彼らの言語であるMapudungun(マプドゥングン)で"Mapu"(マプ) = 土地、"Che"(チェ)=人、つまり土地の人という意味です。その名の通り、自分の生まれ育った土地である”Tuwün”(トゥウン)と、世代間で継承され自分の生きがいともいえる役職/仕事である “Küpalme”(クパルメ)という二つの要素から成るアイデンティティを拠り所とし、周りのエコシステムの均衡と自然界と結びついたスピリチュアリティを重んじる人々です。現在はその大多数が市街地に住んでいますが、先祖代々の土地に住み続ける人や、昔の伝統的な暮らしを求め郊外に戻る人も一定数います。

マプチェの伝統家屋 "La Ruka"

マプドゥングンの言語自体が過去のチリ国家の政策で禁じられていたのもあり、現在話せる人はマプチェの中でも限られていますが、それを語源とする地名は今でも多く存在します。サンチャゴ市内でも、日本人駐在員にもお馴染みの以下の地名はマプドゥングン由来となります。

Vitacura(ビタクラ): piedra grande(大きな石)
Apoquindo(アポキンド): ramo de flores(花束)
Manquehue(マンケウエ): lugar de cóndor(コンドルの場所)
Ñuñoa(ニュニョア): Ñuñohueの派生形(黄色い花の咲く場所)
Tobalaba(トバラバ): Topalahueの派生形(カルセオラリア(植物)が生える場所)

植民地支配への抵抗

チリの先住民族を巡る論争は、チリにおけるインカ帝国の役割に関する議論から始まります。スペインのコンキスタドール到着の約1世紀前、現在のエクアドルやペルーを中心に最盛期を迎えたインカ帝国は、その拡大に当たり南下し現在のサンチャゴを含む地域を支配下に置きました。そしてその統治下で積極的に街づくりが行われ、サンチャゴが栄えた….と言いたくなりますが、実際にはそうはいかず、あくまで年貢徴収目的で役人を数名配置する程度の間接的な支配にとどまったそうです。少なくともサンチャゴ市内の水路等の主要なインフラは、インカ到着以前からその土地にいた先住民族によって建設されており、サンチャゴ自体は街ないしは集落として既に存在していたという見方が有力です。

一方で、これはスペインの植民地化以前から「チリ人」というアイデンティティが存在していたことを認めることでもあり、(記事後編に記載の通り)1970年代の独裁政権下でのチリ国民の定義に反します。そのため「サンチャゴの基礎を成すインフラは全てインカ帝国の産物である」という主張、あるいはもっと飛躍して「スペイン人のコンキスタドールであるPedro de Valdivia(ペドロ・デ・バルディビア)がサンチャゴの街を一から建設した」という理解が未だに根強いのだそうです。

ペドロ・デ・バルディビア

ペドロ・デ・バルディビアはサンチャゴの地下鉄の駅名にもなっていますが、彼が実際にチリに到着したのは、スペインの侵略よりアステカ帝国が崩壊した20年後の1540年でした。他の南米の植民地と比較してチリの「発見」が遅れた裏には地理的要因があり、海流のせいで当時定石であった海上での南下はできず、アンデス山脈またはアタカマ砂漠の横断を必要とする到達困難な場所でした。実はペドロ・デ・バルディビアの5年前に別のスペイン人のDiego de Almagro(ディエゴ・デ・アルマグロ)がチリ遠征を行っていますが、山脈を超えるルートで苦労した果てに金が見当たらず、また先住民族に対抗する余力がなかったため、ペルーに引き返しています。

ペドロ・デ・バルディビアもペルーから陸路で向かったものの、ルート選びに成功して難なく到達し、チリ初の”Royal Governor”(王室総督)の地位に就きサンチャゴを主要な街とします。そしてマプチェとの衝突を繰り返しながら南部地域の攻略を進めますが、チリ到着から13年後、マプチェの若者のLautaro(ラウタロ)の手にかかって死にます。それは灯台下暗しともいえるシナリオで、幼少期から囚われの身となりペドロ・デ・バルディビアの使用人として仕えていたラウタロは、その過程で学んだ西洋の軍事戦略を故郷に持ち帰り兵を集めて発起し、かつての主のいる要塞を攻撃しました。ラウタロは今でもマプチェの人々にとって “Libertador”(解放者)であり、”el motivo para seguir la lucha”(闘いを続ける理由)と形容される象徴的存在です。

ラウタロ

以上を踏まえるとスペイン対マプチェという一対一の構図が見えてきますが、ここで留意すべき点は、マプチェの民族自体が一つの集合体として仲良く暮らしていた訳ではないということです。マプチェの人々の本来の組織単位は血縁関係に基づく”Aillarehue”(同盟)であり、その同盟同士の政治的な結びつきとして"La Costa"(海岸部分)、"Los Llanos"(内陸部分) 、そして現存するマプチェの人々の主な出身地である"La Cordillera"(山脈部分)の3つの地理的グループが存在しました。これらの地理的グループはかつて頻繁に対立していたため、“El Pueblo de Mapuche”(マプチェの人々)と一緒くたにしてマプチェ全員と交渉したつもりになっていたスペイン側は、予期せぬ局面で抵抗に遭い苦戦したようです。

全員仲良しではなかったとしても、マプチェ側の言い分としては、共通の敵に対して互いに協力する能力はあり、スペイン側と100年に及び激しく戦った末に(後述する通り)王室との条約締結まで持って行けたのは、少なくとも南米の先住民の中では彼らしかいません。ただしそのような統一戦線が過去に存在したのだとしても、根源的には異なる帰属意識を持つ人々であり、現代のマプチェの政治運動に目を向けても、その名残ともいえる形で様々な代表者が立っています。必ずしも互いに手を組んでいる訳ではない実情を踏まえると、多様な思想が代弁されるポジティブな側面はありつつ、今でもなかなか政府との対話が進まない要因の一つとも考えられます。

マプチェの闘いぶりを描いた19世紀の絵

話を戻すと、マプチェによる抵抗の結果、1641年の “Parlamento de Quilin”という会合でスペイン王室と条約が締結されますが、この内容に関して今でも認識の齟齬が存在します。マプチェ側からすれば明確に「ビオビオ川以北はスペイン領、以南はマプチェ領」と規定した条約であり、これを根拠に今でも自治運動や領土回復運動が行われていますが、チリ国家側は「条約の文言によればあくまでその場にいた一部のマプチェの頭領を対象としており、マプチェ全員に適用されるものではなく、故に領土や自治を認めている訳ではない」という限定的な解釈を適用しています。

Parlamento de Quilinの会合の絵

実際の文言がどうであろうと、スペイン語を母語とせず"Salvaje"(野蛮人)と当時みなされていたマプチェに対して、その意味やコンテクストが正確に共有されていたのかどうかは疑問が残ります。また仮にこの条約がマプチェの領土を認めたものだとしても、300年以上前の話であり、その後行われた私人間の合法的な土地の売買をどう扱うべきかという問題が浮上します。さらにその土地の売買自体、言語の壁を利用して騙したり土地を買いたたいたりするような搾取的な取引であり無効とすべきだとマプチェ側が主張しても、それを証明する術がないという現実的な問題もあります。いずれにせよ、南部の土地はマプチェに帰属するものだという主張と、それを認めたことは一度もないという国家側の主張が平行線をたどっている理由の一つがここにあります。

移民政策と白人至上主義

その後もマプチェに政治参加の機会が与えられるような譲歩はありながらも、少なくとも1810年にチリがスペインから独立を達成してからは、過去の取り決めを無効とみなし領土開拓と経済成長を優先する国家側と、故郷の土地の保護を訴えるマプチェ側の対立が深まります。そして1861年から1883年にかけて、“Pacificación de la Araucania” (アラウカニアの平定)という名の下、まさに条約の対象であったビオビオ川以南の地域に軍が送り込まれ、マプチェは制圧されます。

当時南部に住んでいたマプチェの人々

その当時の国家側の思想を端的に表しているともいえるのが、1845年に制定された"La Ley de Colonización"(選択的移民法)です。当時チリ南部の地域に定住し自給自足の生活を送っていたマプチェの人々は、"gente idolatra" (偶像教徒)"inculto"(教育を受けていない)というレッテルを貼られ、生産性のない人たちとみなされます。そして彼らに代わり、「より優れた人種」である欧州の中流・上流階級に南部の土地の開拓を委ねる目的で移民誘致政策が行われました。これによりドイツ人を中心とする移民が流入し、バルディビアやプエルトモントをはじめとする南部地域の開発が進みます。

欧州系移民の到着を報じる当時の新聞

今でも大陸南部にあるプエルトバラスや(アルゼンチン側ですが)バリローチェといった街は「南米のスイス」と呼ばれ、欧風な街並みが観光資源となっていますが、これらは当時のドイツ人を中心とする移民の手によって建設されたものです。また以前記事にも書いたKunstmannやAustralといったチリのビールメーカーのルーツは、この時期に移住したドイツ系移民であり、彼らの到来に応じてマプチェの人々はどんどん住む場所を失っていきます。最大10万平方キロに及んだマプチェの領土が、その5%程度にまで縮小している現状に至る潮流が、ここで確固たるものとなりました。

プエルトバラスの街並み

当時このような白人至上主義的な政策の是非を問うようなダイアログは一般的ではなかったとはいえ、その爪痕は未だに深く、格差や階級差別を含む現在のチリの社会問題にも直結してます。そしてその時代では少数派ともいえる意見を持ち、ラテンアメリカ出身者として初めてノーベル文学賞を受賞したチリ人作家のGabriela Mistral(ガブリエラ・ミストラル)は、1922年に出版した “Desolación” という詩集で以下のフレーズを残しています。先住民の血を引く子供や地方の貧困層に対する教育の機会均等に尽力した彼女の視点を表しており、移民政策が伴うユーロセントリズム(欧州中央主義)に対する明確な抵抗感、そしてチリ人としてのアイデンティティを模索する様子が伺えます。

Los barcos cuyas velas blanquean en el puerto
vienen de tierras donde no están los que no son míos;
sus hombres de ojos claros no conocen mis ríos
y traen frutos pálidos, sin la luz de mis huertos.
(港で帆を白く染める船たちは
遠い知らない国からやって来る
澄んだ目の彼らは、私の川を知らず
私の畑の光を浴びることなく、味のない果実を運んでくる)

Y la interrogación que sube a mi garganta
al mirarlos pasar, me desciende, vencida:
hablan extrañas lenguas y no la conmovida
lengua que en tierras de oro mi pobre madre canta.
(そして喉の奥から湧き上がる疑問は、
彼らが通り過ぎるのを見て諦めた私の上に降り注ぐ
彼らの話す奇妙な言葉は、
この美しい土地で母が歌い、私の心を揺さぶる言葉ではない)

Gabriela Mistral, "Desolación"一部抜粋(和訳は筆者による)
ガブリエラ・ミストラル

後編はこちら:

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