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【古代オリエント2】 農耕の始まりと王権

●世界史シリーズ Sec.2

1) 大半は砂漠とステップ

 オリエントの大半は乾燥帯です。なかでもエジプトやメソポタミア南部,アラビア半島などは,ほとんど雨の降らない砂漠気候にあたります。

 砂漠の周辺はやや雨が降る(年降水量250〜750mm程度)ため,ステップと呼ばれる草の丈の短い草原が広がっています。長い乾季と短い雨季があり,比較的降水量が多い地域では麦などが育ちます。降水量が少なく土地がやせている場合は遊牧が中心になります。

 さらにステップの外側には,冬に雨が降る地中海性気候(温帯)の地域が見られることがあります。例えば,ザグロス山脈→メソポタミア北部→シリアとつづく地域やアナトリアの海岸部などは,この気候区にあたります。これらの地域では,麦などの穀物や乾燥に強いオリーブなどの果樹が実り,樹木も育ちます。

2) 農耕の始まりは天水とオアシス

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 麦の生育には年降水量200〜500mmが必要です。その条件を満たす地域には野生の麦が自生していました。上図にそれを示しています。

 前8000年頃には,ザグロス山脈の山麓などで,雨水にたよる乾地農法天水農業)により,麦類の栽培が始まりました。イラク北東部のジャルモがその代表で,前6500年頃には農耕や牧畜が行われていたと考えられます。

 一方,ヨルダン川河口に近いイェリコでは,前7000年以前から麦類の栽培や牧畜が行われていました。この地域は乾燥地ですが,年じゅう涸れない泉のほとりに集落があり,湿地のわき水によって穀物などの栽培が行われていました。

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[写真]イェリコ遺跡(パレスチナ) 中央の円筒形の建造物は石積みの塔で,直径9m,高さ8mほどあります。内部に22段の階段があって,頂上に上がれるようになっています。その用途については,物見の塔だったなどさまざまな説がありますが,最近では天体観測に使われたとする説も主張されています。

デジタル解説▶︎ オリエントの初期農業

3) 大河流域では灌漑農業

 農耕・牧畜を中心とした定住生活が始まると,人口が増加し始めます。しかし,雨水やわき水にたよる小規模な農業では,多くの人口は支えきれないため,広い耕地が必要になりました。ところが,メソポタミア南部エジプトでは降水量が少なく,雨水にたよる耕作はできませんでした。

 そこで,ティグリス川・ユーフラテス川やナイル川から水を引く灌漑施設が作られ始めます。メソポタミア南部で農耕が始まるのは,灌漑施設が整備される前5000年紀(前5000〜前4001年)と考えられています。

 灌漑農業には,耕地を広げられることのほか,(メソポタミアでは)雨に関係なく年間を通して耕作が行えるという利点もありました。そのため,乾地農法よりもずっと収穫量が多くなり,安定的に余剰生産物が生み出せるようになりました。

<一口メモ> 肥沃な三日月地帯
 アメリカの考古学者ヘンリー・ブレステッドが,1916年発刊の著書「 Ancient Times - A History of the Early World 」の中で,西アジアの豊かな農耕地帯を「肥沃な三日月地帯」と呼びました。
 ブレステッドは,その範囲について「この肥沃な三日月形はほぼ半円で,西端は地中海の南東の角,中央はアラビアの真北,東端はペルシャ湾の北端にある」と記しており,上の地図に示した「野生の小麦・大麦の分布」にほぼ近いとも考えられます。
 しかし,その範囲の捉え方は厳密なものではなく,文献によっては,メソポタミア全域を含めたり,エジプトのナイル川デルタまで含むとしているものまであります。  

4) 「神」としての統治

 灌漑施設を開発・維持していくためには,大がかりな治水工事を行わなければなりません。そのためには組織化された集団労働が必要です。この頃,オリエント各地には,指導者によって統率された上下関係のある集団(共同体)が生まれていたと考えられます。

 のちに各地に成立する都市国家では,神をまつる神殿が中心に置かれていることから,その共同体の指導者は,宗教的な権威を背景として権力を行使していたと考えられます。王が神の名のもとに統治を行う神権政治の始まりです。

《参考文献》
青柳正規著『人類文明の黎明と暮れ方』(興亡の世界史00) 講談社 2009
大貫良夫他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020
杉本智俊著『図説 聖書考古学 旧約編』河出書房新社 2008

★次回「古代オリエント3 シュメールとアッカド」へつづく