哲学的考察にはカミュ「異邦人」が最適
皆様こんばんは、Biz Craftです。
今回は表題にもあるように少し哲学的なテーマとなります。
これはつい最近読んだ小説で、消化不良というかどうにも腑に落ちない、そんな印象を受けた内容でした。
1.あらすじ紹介
まずは軽くあらすじのご紹介。
『異邦人』はカミュの代表作の一つで、不条理というテーマを扱った小説となります。
主人公ムルソーは、ママン(母親)の死やマリイ(恋人)との関係、果てはアラビア人の殺害という重大な出来事に直面しても、感情を表に出さず終始無関心に振る舞います。
そのため彼は周囲から冷血で非人間的な人物と見なされ、裁判では死刑判決を受けます。
犯行動機については「太陽のせい」と答えます。
なかなかエキセントリックな人物ですね。
しかし、ムルソーは自分の生き方に後悔はなく、最後には自分は幸福なのだと確信して物語は終わりを迎えます。
では、カミュはこの作品を通じてどういうことを投げかけているのでしょうか?
以下私なりに考察をしてみたいと思います。
2.自由と社会的規範のジレンマ
主人公カミュの行為は世間的にみれば明らかに異常と言えるでしょう。
なぜなら全く倫理規範を欠いた自分らしさの追求が、社会的規範を逸脱する結果になるからです。
事実、カミュはこの小説の自序で「我々の社会では、母親の葬式で泣かないものは誰でも死刑を宣告される可能性がある」という文言を残しています。
つまり主人公ムルソーが裁判で糾弾されたのは、アラビア人の殺害という事実よりも、彼の人格や感情の欠如が問題視されたということを意味しています。
確かにムルソーは、社会が求める常識や道徳や宗教という価値観に従わず、自分の感覚や理性に基づいて生きていました。
ですから彼は自分の立場を良くするために嘘をついたり、他人に気を遣ったり、虚飾をまとったりすることは一切しなかったのです。
ではなぜ、彼は世間に抗ってまでも自分の生き方を貫き通したのでしょうか?
私が思うに、彼を突き動かしていたものは不条理に対する反抗です。
彼は自分の存在が世界にとって意味のないものであるという不条理を受け入れていました。
その上で世間とは正反対の方向へと舵を切ったのです。
カミュはこうしたムルソーの態度を不条理に対する反抗として肯定的に評価したのだと思います。
そして人間の存在は本質的に不条理であり、その不条理に対して神や理想や希望という架空のものにすがることは、自分を欺くことだと考えていました。
その上でカミュはムルソーのようにその不条理さを認め、それでも自分の生き方に責任を持つことが人間の尊厳を守ることだと主張しました。
カミュはムルソーを「幸福な死刑囚」と呼び、彼の生き方を「不条理の英雄」として讃えたのです。
そういうことからも、カミュにとって『異邦人』は不条理という哲学的な問題を小説という形で表現できた作品なのです。
ムルソーの生き方は、社会の規範や期待に従わない人物ゆえに異邦人となりましたが、そのことで自分の生き方に誇りを持つ逆説的な展開となっているのです。
このように、カミュはムルソーの生き方を通して不条理に対する反抗という姿勢を示したかったのだと思います。
この小説は、私たちにとっても自分の生き方についても考えるきっかけとなる作品のように感じられます。
いかがでしたでしょうか?
以上が私の『異邦人』に対する哲学的考察となります。
できればカントの道徳律とかベンサムの功利主義なども織り交ぜたかったのですが、本筋からそれる可能性がありますので一旦ここまでとさせていただきます。
正常と異常、条理と不条理、自分らしさの追求と社会的規範との齟齬。
これら相対立する概念の中で、私たちはどこまで異邦人たることを許されるのでしょうか?
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