見出し画像

羽虫の葬儀

小難しい言葉が発されては消えていく昼下がり。一つあくびをして、ふと、視線を落とした。その先には小さな羽虫がいた。私はこれが気になって仕方がなかった。黒くて、小さくて、すばっしこい。羽アリの一種だろうか。白い無機質なテーブルの上をただひたすらに歩く。近づいた私の指、それにとっては巨大な質量をもった物体を察知して、机の角に向かって一直線に、懸命に走る。そのまま飛び立つかと思いきや、今度はノートのページとページの隙間に入ろうと、こちら側に向かって走る。走って、止まる。走っては止まる。飛んでいこうとは思わないのだろうか。しばらく、そんな様子を眺めていた。何故か払い落とそうという気は起きなかった。

「あ、止まった」

話に熱が帯びてきた頃、小さな体で懸命に動き回っていた羽虫は、ついに動かなくなってしまった。あと数歩、いや数十歩ほどで机から飛んでいける位置だった。弱弱しく触角が右に、左に、ゆらゆらと動いていた。よくよく見ると羽は1枚しかついていなかった。わっ、と隣に座っていた子は、今この虫がいるのに気が付いたようで、すかさずバックからティッシュを取り出して、それを潰そうとした。このとき、得体のしれない焦燥感が体の奥深くから私を支配した。「潰すのをやめてくれ」と心の底から言いたくなった。一気に噴き出した冷や汗が、額、首にと伝っていく。止めよう、止めよう、と頭の中で警報が鳴り響く。まだそれは動いている。それでも、隣からの手はどんどん伸びていき、それは死んでしまった。なぜか心が張り裂けそうだった。どんなに命が尽きようとしていても、死といういずれ訪れる時に向かってそれは懸命に生きようとしていた。たとえ死が手前にあるときでなくても、ちり紙一つで他者の命を潰すことができる「人間」という生き物を自分は生きている。だらしない私にはそんな懸命な命を潰せる権利はあるのだろうか。ちり紙はどんどん丸められ、きっとそれはただの汁になってしまった。

いつのまにか授業は終わり、人がまばらに立ち始めていた。隣の子は、と思い静かに見回すと、丸めたティッシュをゴミ箱に捨てて、ドアを開け教室を出ていったところだった。席にとどまり、少し沸いた頭を冷ます。すると、唐突に手向けをしたくなった。あいにく、供物など持っていない。ノートの端をちぎり、できる限り丁寧にユリの花を書く。きっと香りの強い花のほうにあの虫は好んで飛びつくだろうと思ったのだ。書いた紙を折り、ゴミ箱にそっと入れる。報われる報われないという言葉なぞないところで息をする彼らにとって意味のないことだ。これも人間であるからしてしまうのかと思い、薄暗くなった教室を去った。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?