ひよこ__001

【エッセイ】人間は皆、哲学プレイヤー【#001】

(この文章は約10分で読むことができます。)

難しいことを書く気は全くないが、今回と次回は少々難しいことを書いてしまうかもしれない。

最初に、現段階での私の思想を書いてしまい、あとはその応用と具体例を書こうと考えた。なので、抽象的な議論が続いてしまうが、少々多めに見てもらいたい。

私が何を言っているのかわからなくなってしまったときは、表紙のかわいいひよこでも見て、頭をリフレッシュして、再度文章に戻ってきてほしいと思う。

ちなみに、大学の後輩に「先輩を動物で例えるとひよこですね」と言われたことをきっかけに、勝手に私のイメージキャラクターはひよこだと思っている。後輩から、「あなたはまだまだひよっこです。」という強いメッセージ性があったかどうかはわからない。

さて、今日のテーマは哲学だ。私は大学時代に哲学的なことを考えるゼミに所属していた。自分のことを「なんちゃって哲学者」だと思い込んでいる。しかも、その「はしくれ」だ。

「なんちゃって哲学者のはしくれ」。なんとも、うさんくささが漂う肩書だ。そんな、てきとーな奴が言っていることなので、肩の力を抜いて読んでもらいたい。

哲学といえば、難しいとか、意味のないこととか、そういったマイナスなイメージがどうしても付きまとう。哲学者といえば、奇人変人といった疎ましい言葉がついてくる。

しかし、どうだ。この男は、「人間は皆、哲学者である」と言っているのだ。普通に道を歩いているだけのあの人も、満員電車に揺られているお疲れのサラリーマンも、大学デビューしたイケイケの大学生も、皆哲学者であると言っているのだ。こんな迷惑なことはない。

皆、哲学というものを勘違いしていることが、私と皆さんとの間に強烈なギャップを生んでいるに違いない。

では、哲学とは何か。ソクラテスが何を言ったのか、アリストテレスが何を論じたのか、ニーチェが言っていることの意味は何か。こういったことを追求する学問も確かに哲学に違いない。しかし、これはあくまでも、非常に偏った哲学の1つの見方でしかない。

また、人生の中で待ち受けているたくさんの困難。それをどうやって切り抜けていくのか。そういった人生論を唱える、あるいは、考えていく。これも哲学と捉えられることが多い。一昔前に、『超訳 ニーチェの言葉』という本が流行ったのも、人生についていろいろ考えたい人が増えた要因であろう。また、最近は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』といった本がベストセラーになったのも同じ理由であろう。しかし、これもまた、偏った哲学への見方に過ぎない。

それでは、私の結論を言おう。哲学はゲームだ。楽しい楽しいゲームだ。マリオ、ポケモン、パズドラ、モンスト、ドラクエ、モンハン。そういったゲームと何ら変わりのないゲームだ。

「うそだ、この男はやはり、うさんくさい肩書き通りのホラ吹きだ。せっかくここまで読んだ時間を返せ。」この文章を読んだ人たちはみな、そう思ったに違いない。

しかし、まったくの嘘ではない。哲学はゲームだ。しかも、人間が皆参加できる、最高にして、最古のゲームなのである。

哲学の本質は、ソクラテスが何を言ったのかを考えることでも、人生について深く追求していくことでもない。

「答えが出るかどうかわからない問いについて、真剣に考えること」これこそが哲学の本質だ。

ソクラテスが何を言ったのか。ソクラテスの真意などわかるのだろうか。ソクラテスはすでに死んでいる。(さらに、ソクラテス自身は文献すらも残していない。)しかし、弟子たちによって、ソクラテスが言ったであろう言葉は残っている。もしかしたら、答えが出るかもしれない。

自分の人生において、何が正しい道なのか。そんなことわかるだろうか。二択の重大な選択があった場合、人生ではどちらか一方しか選べない。選ばなかった方の人生は、絶対に経験できない。人生に正解があるのか。イチローが野球選手になったことは正解なのか。もしかしたら、イチローが科学者になった場合、なにかしらの影響を時代に与えて、今頃ガンが100%完治する病気になっているかもしれない。地震が絶対に起こらないシステムが出来上がっているかもしれない。誰しもが正解だと思っている選択肢も、それが答えとは限らない可能性がある。

このように、ソクラテスについて考えることも、人生について考えることも、根本の問題は、「答えが出るかどうかわからない問題」なのだ。

「やはり、この男はでたらめな男だ。それのどこのゲームだ。全く楽しくない。これなら、たけしの挑戦状の方がマシだ。」こんな言葉が聞こえてきそうである。

ゲームは、やはり楽しくないといけない。それは、生粋のゲーマーである私も同意する。そこで考えてほしい。何がゲームを楽しくするのか。ゲームを楽しくする重大な要素の1つは、「うまくいくかどうかわからない」ことである。

マリオをプレイして、必ずクッパを倒せるしくみになっていたら、楽しいだろうか。ポケモンをプレイして、必ずどんな相手にも勝てるポケモンがいたら、楽しいだろうか。

オセロも、トランプも、花札も、チェスも。必ずうまくいくとは限らない。だからこそ、面白い。楽しいのである。

ここまで来たら気づく人も多くいるだろう。哲学とゲームの共通点について。哲学とは「答えがでるかわからない問いについて考えること」である。そして、ゲームには「うまくいくどうかわからないことを試すこと」が重要な要素として含まれているのである。両者ともに、試行錯誤を繰り返し、最適な解を導き出そうとする、クリアーのために頭をひねることが共通しているのである。

まだ、共通性が証明できていないことは、ゲームは楽しいが、哲学は全く楽しくないと思われている点である。逆を言えば、この点を証明できれば、「哲学=楽しいゲーム」ということが証明されたと思ってくれる人が増えるのではないだろうか。

哲学の楽しさを証明するために、歴史に目を向けたいと思う。「歴史は苦手なんだよなー」という人は、一度表紙のかわいいひよこで目の保養をしてもらいたい。

そもそも哲学が生まれたのは、今から2500年ほど前の話だ。まだ、キリスト教が存在していない時代の話だ。人間は、とある理由から、「この世はそもそも何からできているのか」を考え始めたのだ。それが哲学の最初の問いだと言われている。

では、なぜそんなことを考え始めたのか。その理由がわかれば、哲学は楽しいものだと証明されるのである。

「この世は何からできているのか」という問いを聞いて、「そんなどうでもいい問題を考えるなんて、暇な奴がいたんだなー」と思った人がいれば、その人は、もう正解を頭の中で語っている。

そう暇だったからである。暇つぶしにスマホをいじっている現代人と同じ感覚で、暇つぶしに哲学を始めたのである。

当時は、奴隷制度が当たり前に認められていた時代。奴隷に必要な労働は任せて、そうではない人たちは悠々自適で退屈な暮らしを送っていた。特にすることがない暇な時間がある人たちは、2500年前に存在したのだ。しかし、2500年前には、もちろんスマホもなければガラケーもない。PS4もなければ、ゲームボーイもバーチャルボーイもない時代だ。その中で、人間は頭脳という最高の暇つぶし道具を駆使して、哲学というゲームを行い始めたのである。

そして、今現在も哲学というゲームが生き残っている。つまらないもの、不必要なものがあっという間になくなってしまうこの現代でも、哲学は生き残っているのである。配信開始3か月足らずでなくなってしまうスマホのゲームアプリが存在する一方で、2500年間も配信が続いているゲームが哲学なのである。これが、つまらないはずがない。

「そんなこと言ってもつまらないと思う。なんか、話もうさんくさいし」とまだ思っている人へ。あなたは、人生で今まで哲学をしたことがないのだろうか。時間の無駄だとすべての遊びを切り捨てた人生を歩んでいるのだろうか。

例えば、ゲームが好きなあなた。最高のゲームについて考えたことはないだろうか。RPGならば、どんなシナリオが理想で、どんな戦闘システムが理想で、と思索にふけることはないだろうか。

例えば、演劇が好きなあなた。最高の演劇とはなにかと考えたことはないだろうか。そんなものはないと考えたり、でも、なるべく多くの人に楽しんでもらえるのは、こんな演出で、こんな音響でと考えるだけワクワクしたことはないだろうか。

例えば、恋人を探しているあなた。最高の恋人像について、友人と語り合ったことはないだろうか。こういった性格で、こういったステータスで、と愚かな妄想にふけった後に、我に返りガッカリしたことはないだろうか。

こういった問いを考えることもそう、哲学なのだ。繰り返し言うが、哲学とは「答えが出るかどうかわからない問いについて考えること」、また、「答えがおそらくないだろう問いについて考えること」、あるいは、「答えが考えるたびに異なる問いについて考えること」なのである。

前述した例について。自分が好きなものについて、あるいは、人間誰しもが興味があるだろう事柄について、答えが出ない問いについて考えていることは、誰しもが楽しいことだと、私は考えている。

「確かに楽しいかもしれないが、そんな時間は最近ない。忙しい時にそんな無駄なことはできるか。」という人が現代社会にはたくさんいるだろう。時間の無駄だとすべての遊びを切り捨てた人生を歩んでいる人が、実は多くいることを私は知っている。

しかし、哲学は果たして、無駄なことなのか。哲学の歴史を紐解くと、哲学は決して無駄なものではない。なぜならば、哲学は諸学問の祖であるからだ。哲学から幾何学や数学、生物学や物理学、天文学が誕生している歴史がある。哲学者が「この世は何からできているのか」という果てしない問いに真剣に取り組んだ結果、こういった学問が誕生したのだ。

私はこの物語をこう解釈している。「必要なものは、無駄の隙間から生まれてくる。」もし、あなたが何かに思い悩んでいるとき、いったんそのことを忘れ、くだらないことを考えてみてはどうか。意外とリフレッシュができ、つっかえが簡単に取れるかもしれない。

私が今、この世界になんとなく感じている、余裕のなさ、世話しなさ。この世界がつつまれているモヤモヤしたものを晴らすためのカギは、無駄なこと、無意味なことが握っているのではないかと、本気で考えている。だから、私はnoteに、私の思想を、無駄だと思われるかもしれない私の本気の文章を綴ることに決めたのである。

哲学はゲームだ。無駄なことだ。しかし、無駄なことにこそ、価値がある。そんな時代はもう来ている。この世を切り開くカギは哲学にある。そう思っている。人類は皆、哲学というゲームのプレイヤーになることができるし、もうなっている。そして、そのゲームのプレイヤーにならなければならないのだ。

この考えをもとに、このnoteには、くだらないことを本気で考えた結果を【エッセイ】というジャンルで書いていく。余裕がある人も、ない人も是非、少しでも興味を持ったなら、これからも読んでいただきたい。

そして、読んだ文章の中に、すこしでも何かひっかかるものが残ったり、考えたりしたことがあれば、Twitterなどで拡散してほしい。より多くの人の目に、私の文章が触れられれば、こんなにうれしく、幸いなことはない。

次回の話も、少々難しくなるだろう。「価値」について。次回は書こうと思う。お金という魔物の正体を暴こうと思う。

(なお、今回書いた「哲学」の話は、あくまでも一個人の解釈であり、決して一般的な哲学の解釈ではありません。また本格的な哲学者からは怒られるような内容であることを、予めご了承ください。)

(読んだ文章の中に、何か心に残るところが一か所でもあれば、Twitterで拡散、黒木のnote、Twitterのフォローなどよろしくお願いします。)

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