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実際にある/あった哲学とはどのようなものか『メタ哲学入門』第2章 Part1

「メタ哲学」は、哲学の分野の一種です。主に三つの問いを扱います。すなわち、①哲学とは何か ②どのように哲学をすべきか ③なぜ哲学をすべきなのか の三つです。これらの問題は、哲学に関心をもつ私たちにとって、どれも非常に重要です。ケンブリッジ大学出版局から刊行されている『メタ哲学入門』を下敷きに、メタ哲学初心者のレートムと勉強しましょう。

〈哲学とは何か〉という問いの二通りの解釈

『メタ哲学入門』の第2章は「哲学とは何か」と題されています。
まずはこの問いでもって、何について問おうとしているのか明確にしておきましょう。

〈哲学とは何か〉という問いについては、次の二通りの解釈が可能です。

  1. 記述的な (descriptive) 問い

  2. 規範的な (prescriptive) 問い

前者は〈実際に存在する哲学とは何か〉という問いであり、後者は〈哲学とはどのようなものであるべきか〉という問いです。
それぞれ、哲学の実像をめぐる問いと、哲学の理想像をめぐる問いと言えそうです。

まずは1番目の問い、記述的な問いから考えてみましょう。

古代哲学と現代哲学の類似・相違

古代哲学と現代哲学の類似

哲学は皆さんがご存じのとおり、ずっと以前からある学問です。
『論理哲学論考』で知られるオーストリア出身の哲学者・ウィトゲンシュタイン (1889-1951) は、このように述懐しています。

なぜ私は、プラトンの活動を哲学と呼ぶとき、我々が今しているこの活動のことも哲学と呼びたくなるのだろう。

Wittgenstein, L., 1979. Wittgenstein’s Lectures 1932–35, ed. A. Ambrose. Oxford: Blackwell. 28..

ウィトゲンシュタインはこの疑問に対する回答を、古代哲学と現代哲学の間の「一定の類似」に求めます。

たしかに、現代でも論じられている一般的な哲学の問題やその解決方法は、古代ギリシアのものとさほど大きくは違いませんよね。

古代哲学と現代哲学の相違

一方で、哲学はまだできて間もない学問だという意見もあります。

というのも、哲学が他の自然科学から明確に区別されるようになったのは19世紀に入ってからで、それまでは宇宙の起源生物の本性事物の最小構成要素なども「哲学」の名のもとに研究されていました。

そのため、古代から現代にいたるまで、これまで「哲学」と呼ばれてきたものすべてを網羅するような仕方で哲学を考えても、余計な自然科学まで含まれてしまいそうです。
したがって私たちは、そうした自然科学のことは抜きにして、現代でも「哲学」と考えるのが妥当な学問分野だけを考えてみましょう。

そのため以下で考える〈哲学とは何か〉という問いは、なかでも〈いま実際に存在している哲学にはどのようなものがあるか〉という問いに限定されることになります。
あらかじめ、ここから先のごく簡単な見通しをご紹介しておきましょう。私たちは三つの道をたどることになります。

  • A. デフレ主義的な回答

  • B. 本質主義的な回答

  • C. デフレ主義と本質主義のあいだの回答

具体的には、デフレ主義も本質主義もどちらも望みが薄いことを明らかにし、第3の道が最も確からしいということを示します。
では、それぞれの検討へ進みましょう。

A. デフレ主義的な回答

〈いま実際に存在している哲学にはどのようなものがあるか〉を考えると、論理学・政治哲学・メタ倫理学・認識論・フェミニズム……などなど、「全く違うものがとにかくたくさんある」と途方に暮れてしまいそうです。

こうして真っ先に提案されるのが、デフレ主義的な回答です。
デフレ主義的な回答は、「哲学とは、大学やその他機関で哲学者として雇われている人間のすることや、図書館員が哲学として目録に載せたものであり、それ以上言うことは何もない」というふうに定式化されます。

つまり、哲学を哲学たらしめている本質のようなものが存在するわけではなく、したがって他の学問との区別にもさしたる重要性はないと考える立場です。

この提案を受け入れるのは簡単です。
しかし、本当に哲学に本質は存在しないのでしょうか。
他の学問との区別も重要ではないのでしょうか。
これらの問題について、私たちはまだ十分に検討したわけではありません。
したがってデフレ主義的な回答は、最後の手段としてとっておくことにしましょう。

次に、デフレ主義と対立する考え、すなわち哲学には何らかの本質が存在しているのだとする考え──「本質主義」的な回答を検討してみましょう。

B. 本質主義的な回答

〈哲学とは何か〉への記述的回答に関する本質主義のゴールは、哲学的な活動のみすべて網羅できるような定義をつくることです。
したがって、哲学ではないものが紛れ込んでしまったり、哲学であるはずのものが仲間外れになってしまってはいけない、ということになります。

本質主義には、大きく分けて二種類のものがあります。

  1. 方法論に関する本質主義

  2. 主題に関する本質主義

以下では二種類の本質主義それぞれの候補となる説について、順を追って確認していきましょう。

B-1. 方法論に関する本質主義

まずは第1の本質主義である、方法論に関する本質主義について検討します。
つまり、哲学はその方法によって定義できるとする考え方です。

  • B-1-a. 哲学とは経験に頼らない学問である

この説はすぐに退けることができます。
というのも、数学をはじめとする形式科学なども経験に頼らないことから、本来は哲学ではないものを含みこんでしまうからです。
また「実験哲学」のように、経験に依拠する哲学も仲間外れになってしまいます

  • B-1-b. 哲学とは概念分析を手法とする学問である

この説についても、いわゆる典型的な「大陸哲学」が漏れてしまいます
また、現代の「分析哲学」でもこの定義に当てはまらないものは存在します

※分析哲学における「概念分析」の衰退については、2021年に開催された哲学会第六十回研究発表大会でのシンポジウム「〈分析哲学〉とはなんであったのか」における、倉田剛先生の提題要旨が非常に参考になります。

しかしここで、次のような反論が可能かもしれません。
「哲学者がノーと答えても信用できない。自分では概念分析をしていないと思っている哲学者でも、実は概念分析をしているということがありえる」

例えば日常言語学派の指導者として知られるノーマン・マルコムは、G・E・ムーアについて(本人が気づいていないだけで)「日常言語学派の先駆けだ」と称しました。
しかし──やはりと言うべきか──、ムーアはこの解釈を憤然とした様子で否定したとされています。

このことが示唆しているのは、哲学者がしばしば自分の規範的哲学観のフィルター──上の事例の場合は、マルコムがもっていた「哲学は私たちの概念を分析・改訂すべきだ」という考え──を通して、他の哲学者の営みを見てしまうということです。
そうだとすれば、哲学者がどのような方法論を使っているのかについては、本人の証言を大人しく受け入れていた方が、間違いを犯さずに済みそうです。

B-2. 主題に関する本質主義

次に第2の本質主義である、主題に関する本質主義について検討します。
つまり、哲学はその主題によって定義できるとする考え方です。

  • B-2-a. 哲学は最も広い意味の物事のまとまりを扱う学問である

アメリカの哲学者・ウィルフリド・セラーズは、哲学とは「最も広い意味の物事が、最も広い意味でどのようにまとめあげられているのか理解すること」(Sellars, W., 1991. Science, Perception and Reality. Atascadero: Ridgeview. 1. 〔神野慧一郎、土屋純一、中才敏郎訳『経験論と心の哲学』(勁草書房、2006年)、強調はレートム〕)と解釈しています。

セラーズのいう「最も広い意味の物事のまとまり」には、〈キャベツと王様〉〈数と義務〉〈可能性と指パッチン〉〈美的経験と死〉など、まさにあらゆる物事の組み合わせが含まれます。

しかしこの定義では、他のあらゆる人文科学・自然科学も含まれてしまいます
つまり、哲学ではないものが仲間に入ってしまうということであり、本質主義的な回答としてはふさわしくありません

  • B-2-b. 哲学とは「大きな問題」を扱う学問である

次にニコラス・レッシャーの説を検討しましょう。
哲学とは、「世界の仕組みや世界のなかでの自らの位置づけについて我々が有している『大きな問題』」(Rescher, N. 2001. Philosophical Reasoning: A Study in the Methodology of Philosophizing. Oxford: Blackwell. 3.)〔強調はレートムによるもの〕を扱う学問だというものです。
哲学というと規模の大きな問題を扱うものというイメージは、たしかにありますよね。

しかしこの定義でも、同じく「大きな問題」を扱っている文学や芸術が入り込んできてしまいます
たしかに哲学的な文学や芸術はありますし、芸術的と言っていいほどの美文で綴られた哲学書もあるかもしれません。
しかし、文学や芸術を文字どおり何の留保も設けずにまさに「哲学」であると呼ぶことは、私たちの直観と相性が良くなさそうです。

【レートムが気になったこと】
対話篇のように「文学的な」哲学は、どのように考えられているのだろう?

  • B-2-b'. 哲学とは「大きな問題」に論証を通じて取り組む学問である

それではここに、主題だけでなく方法論に関する規定を加えてみるのはどうでしょう。
つまり、哲学とは「大きな問題」に対して、広い意味での「論証」を通じて取り組むものであって、したがって典型的には論文のような体裁をとるものだとするのです。
※ほかにも対談・講義・ラジオ・テレビ番組・ブログ・ポッドキャスト・TED Talksも一つの媒体として許容されます(もちろんnoteであってもいい)。

一方で哲学のなかには、例えば〈スポーツの哲学〉や〈映画の哲学〉など、レッシャーが考えるような「大きな問題」、すなわち世界における人間の位置づけを扱っているかどうかが自明ではないものも存在します。
そのためやはり、この説もあまりもっともらしくなさそうです。

  • B-2-c. 哲学とは概念や概念図式を扱う学問である

この説は、「方法論に関する本質主義」で論じた「哲学とは概念分析を手法とする学問である」という見解とパラレルです。
大陸哲学はもちろん現代の分析哲学でさえその限りではないという同様の理由から、こちらもあっさりと退けられてしまいます。

以上の検討を経て得られた結論は、本質主義にもデフレ主義にも、〈哲学とは何か〉という問いへの妥当な答えは見当たらないということです。
そのため、この二つの極端な見解のあいだに別の道がないかを探してみることにしましょう。

C. デフレ主義と本質主義のあいだの回答

デフレ主義でもなければ本質主義でもない第3の道とは、どのようなものなのでしょうか。
スチュアート・ハンプシャーは次のように述べています。

ギリシアや西洋の伝統下で哲学を理解するなら、哲学者の主要な関心を示す語は合わせて六つある。それは「知っている (know) 」「真である (true)」「存在する (exist)」「同じである (same)」「原因となる (cause)」「善い (good)」である。建設的な哲学者なら、これらの観念の全てないし大部分について、言いたいことがない者などいないはずだ[……]。これらは最高度に一般的であることから、特殊な実証的科学の関心ではなく哲学の関心である。

Hampshire, S. 1975. ‘A Statement about Philosophy’, in Bontempo, C. J. and Odell, S. J. (eds.) The Owl of Minerva: Philosophers on Philosophy. New York: McGraw-Hill., p. 89.

ハンプシャーはこのように、哲学における主要な関心事を6つの言葉で整理しています。
このリストが網羅的であるかどうかについては異論がありえますが、少なくとももっともらしいのは、哲学の主要な関心事だけに注目するなら、その数はさほど多くないのであろうということです。

つまり哲学には、いくつかの核となる主題と、そのほかの周縁的な主題の二つが存在するのです。
なお、その主題が哲学の核となっているか否かは、古代ギリシア以来哲学が辿ってきた歴史が基準となっていると考えられます。

この見解に、先ほどご紹介した「広い意味での論証」を重視する方法論上の制約を加えれば、〈哲学とは何か〉という問いへの、本質主義的でもデフレ主義的でもない回答の概要が完成します。

念のため、なぜこの回答が本質主義的でもデフレ主義的でもないのかをおさらいしておきましょう。

まずこの回答は、「どこからどこまでが哲学であるのか、何が哲学であって何が哲学ではないのかを明確に規定することはできない」という、反本質主義的直観とも両立します。
この回答は、哲学の完璧な定義を定式化しようとするものではないからです。
したがって、まるきり本質主義的というではありません。

ではそのことで反対に、見境なく何でも哲学と認める可能性のあるデフレ主義に陥っているでしょうか。
そうもなっていないように思われます。
というのもこの回答では、明らかに・典型的に哲学的だとみなされるようなトピックの存在も、たしかにいくつか認めているからです。

まとめると、今回私たちが辿りついた第3の道の答えは、次のようになります。

哲学の方法論:経験的か否かを問わず、広い意味での「論証」に依拠する
哲学の主題:古来から継続的に論じられてきた「知っている」「真である」「存在する」をはじめとするいくつかの中心的主題があり、それに加えて派生的な無数のテーマが存在している。

この決着について、「どうも釈然としない回答だ」と感じた方もいるかもしれません。
そういった方々はおそらく、「哲学とは〇〇のことだ」という答えが出るのかと思っていた、と拍子抜けしたのではないでしょうか。

しかし振り返ってみると、まさにそのように「哲学とは〇〇である」と定義を述べる本質主義の試みは、哲学の豊かな主題を拡げすぎたり、不当に狭めたりしたことで、どれも挫折してしまったのでした。
そうである以上、むやみな断言を避けて控えめな規定に留めようというこの回答の姿勢は、合理性を旨とする哲学にとって極めて真摯な帰結であると考えられます。
少なくとも、〈哲学とは何でないのか〉を明確にできたという意味で、私たちは少し前進できたように思います。

今回の記事は以上になります。
次回は第2章「哲学とは何か」の続き、〈哲学とはどのようなものであるべきか〉という問いへの回答をご紹介します、お楽しみに!

今回のまとめ

・〈哲学とは何か〉に対する記述的な回答として、A. デフレ主義的な回答、 B. 本質主義的な回答、C. デフレ主義と本質主義のあいだの回答 の三つが検討された
・デフレ主義的な回答はあらゆる営みを恣意的に哲学と呼ぶ恐れがあり、あまり好ましくない
・本質主義的な回答(=哲学の定義)はどれも、哲学でないものを含んでしまうか、本来哲学であるはずのものを排除してしまい、失敗に終わる
・最終的に至った結論は、①哲学的主題には核となるものがいくつかあり、それを中心に派生的な主題が哲学の輪に含みこまれていく ②哲学の方法は広い意味での「論証」であり、経験に依拠するか否かは問われない の2点に集約される
・哲学の範囲にゆとりをもたせることで本質主義の欠点を克服するとともに、あらゆる営みを無差別に「哲学」と見なす恐れのあるデフレ主義の欠点をも克服することが可能となった

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