音楽を続ける理由

※この記事には筆者自身の家庭環境を綴った内容が大いに含まれます。
※いかなる理由があっても親を否定すべきではない、という思考の方は閲覧を控えることをお勧め致します


①私の家族

以前執筆した「朝比奈まふゆと私」の記事で軽く触れましたが、私は複雑な家庭環境で育ちました。
端的に言えば母親が俗に言う教育ママだったのです。

と言っても、母親にも残酷な過去がありました。
離婚した前夫との間に産まれた子供が物心つかないうちに亡くなってしまったのです。
まだ言葉を話すことすらできない乳幼児を亡くした母親。

そして前夫と離婚して再婚した相手、つまり私の父親との間に産まれた私もまた病弱な子供でした。

「次こそは私の望む育児をしてみせる」と母親としての責任を果たすことに無我夢中になるのは至極当然といえます。
幸い、手術を重ねた結果、私は命をつなぎとめることができました。

そして、どうやら私は天才的な記憶力を持った子供だったそうです。今ではその面影もないので決して自慢ではありませんが、確かにひらがな・カタカナを教わる前、つまり幼稚園に入園する以前からひらがな・カタカナの読み書きが既に出来ていました。

それゆえに命にかかわる病気が完治した2歳の頃、母親が呟いた言葉を今でも覚えています。
「やっと私の味方ができた」と。

流石に当時はその言葉の意味がわかりませんでした。
しかし今となると「この子は私の理想であってほしい」「○○さんのお宅の優秀なお子さんのように育ってほしい」という意味だと、そんなふうに捉えています。

そして、私が歳を重ねるにつれて母親の教育ママ思考も加速していきました。
父親は母親とは正反対で放任主義です。
そのため、母親にも私にも口出しすることは殆どありませんでした。


②教育ママと化した母親

私の病気が完治した頃、母親は私に次々と習い事をさせました。
英語教室、書道教室、詩などの文章を学ぶ教室、進学塾、数えるとキリがありません。
幼い子供は素直ですから、何の疑問も抱かずにそれらを全て受け入れてこなしていました。

今思えば、たとえ病弱でなく健康な子供であっても4、5歳の子供にとっては心身ともに負担がかかることでしょう。
もしも12歳くらいの年齢であれば自分を客観視できるので「それは疲れるから全部やるのは無理だよ」と言えたでしょうね。

そんな生活を続けていくうちに、自分にとっても、おそらく母親にとっても習い事ばかりで娯楽のない毎日が当たり前になってしまいました。


③ピアノ教室

数々の習い事の中で、最も私の人生を変えたものがピアノ教室でした。
当時5歳の私はピアノはもちろん楽器に触れたことすらありませんでした。


初めてのピアノ教室。
教室の先生に「ぞうさん(童謡)は分かるかな?」と問われたとき、礼儀を知らず無遠慮だった私は勝手に教室のピアノを使い、「ぞうさん」を弾きました。
指使いはおぼつかないものの、メロディ自体は完璧に演奏することができていたそうです。
そして教室の先生に褒められ、驚いた母親に私専用のピアノまで買い与えてもらえました。

色々な曲を耳コピし、演奏しては先生や母親に褒められていくうちに楽しくなっていきました。
唯一、心から楽しいと思える時間がピアノを弾いている時間でした。


④私と義理の姉

私には15歳ほども歳の離れた義理の姉がいます。
「昔は」優しい姉でした。
私がピアノを演奏しながら歌い、いわゆる弾き語りのようなことをするたびに「上手だね」「優しい歌だね」と拍手を送ってくれました。

教育ママである母親と放任主義の父親のもとで生活していた私にとって、そんな姉の存在は自分の承認欲求を満たしてくれる貴重な存在でした。

しかし、後天的なものか先天的なものかは分かりませんが、姉は重い精神疾患を抱えていました。
今では私の存在が姉の記憶にはなく、「誰か知らないけど敵だ」と認識されている程です。

姉の精神疾患が悪化していない当時は彼女に認めてもらえることがどうしようもなく嬉しく、私は姉と約束を交わしました。

「お姉ちゃんが喜んでくれる曲をいっぱい作るからね」と。
もちろん、今は私の曲を聴いても姉の心には何一つ響かないでしょう。
しかし、私にとっては大切な約束であり思い出です。


⑤ピアノとの別れ

私が小学四年生になった頃です。
母親の教育ママ方針は相変わらずで、偏差値の高い中学に入学させるため、夜22時まで授業の続く進学塾に通わせました。

母親の方針が当たり前になっている私は当然のようにそれを受け入れました。
塾が終わっても小学校の宿題・塾の宿題をしなければならず、10歳の子供だった私が就寝する時間は深夜の3時頃でした。

精神と身体が壊れていくのにも気付かず、そんな毎日を2年間送ってきました。

そして、母親は「ピアノを弾いている暇はないから」と、5際の頃に買い与えてくれたピアノを売りに出しました。
音楽が好きな気持ちは変わらなかったので、まるで大切な友達を亡くしてしまったかのような感情を抱きましたが必死に堪え、進学に向けて勉強を続けました。

その間も母親の目を盗んでは弟のゲームをプレイし、耳コピしたBGMやオリジナルの曲をPCで作ってどこかのサイトに投稿していました。
「小学生なんですか?すごい」「ここのアレンジ素敵」等のコメントを頂き、それが私の心の支えになっていました。

そして受験当日、ついに私は倒れてしまいました。
筆記試験も面接も受けることができず、そのため受験は失格。すべてが水の泡になってしまいました。


⑥それでも音楽が好き

受験に失格した日、号泣していたのは私ではなく母親でした。
「気付けなくてごめん」「あんたが我慢してたことを知らなかった」と。

私は「いや、落ちたのは私がダメだったからだし。受験当日に体調崩して倒れるとかバカでしょ」とヘラヘラと返事をしました。
母親は「どうしてあんたは泣かないの、悲しくないの?」と更に泣き叫びます。

ある意味で洗脳されていたのでしょう。悲しくないのかと問われても悲しいという感情が理解できないレベルに及んでいたので、漫画の表現のように頭にハテナマークを浮かべていました。

分からないことを分からないままにしておくのは気が済まないのが私の性分です。
「悲しいとは何か」を必死に考えました。
すると、ピアノとの別れでどうしようもなく心が張り裂けそうになった記憶が蘇りました。


今まで勉強してきたことが無駄になった、進学塾に通うために友人からの遊びの誘いを断り多くの友人を失った、娯楽なんて殆どなかった、代償と結果が伴わなかった。

これが悲しいという感情なんだ、と理解した瞬間、感情的になりやすい母親のように号泣はしませんでしたが涙が溢れて止まりませんでした。

しかし、母親の目を盗んで作った音楽が評価されたこと、そして姉との約束。
多くの物を犠牲にしましたが、音楽だけは決して無駄になりませんでした。

自己評価として私には音楽の才能があるとは決して言えません。
サイトに投稿したものをたまたま見つけてくれた方がたまたま評価して下さったり、優しかった頃の姉が認めてくれただけの話。
本当に才能のある方々と比べると天と地の差だと思っております。

そして娯楽が許されなかったため、カラオケを真面目に始めたのも4年前の24歳の頃。
姉に褒められたのは「5歳の子供にしては上手」「義理の妹が歌ってくれるのが嬉しい」という意味で、本当に歌が上手かったわけではないと思います。

とても波乱万丈な環境で育ちましたが、私は今でも音楽が好きです。
稚拙ながら歌も歌いますし、子供の頃のように音楽も作り続けます。

あの頃の優しかった姉はもう存在しませんが、願わくば奇跡が起こっていつか彼女にも届きますように。

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