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不染汚|自分らしく生きるコーチの実践

不染汚。

この言葉を見聞きしたことはあるだろうか?
有名な言葉でないため、知っている人は少ないと思う。

これは不染汚(ふぜんな)と読む。

聞き慣れない言葉な上、パット見で「不」「汚」とか入っているので「なんだか汚そうだな…」と思った人もいるのではないか。

でも大丈夫。

どちらかといえば、綺麗なほうだ。安心してほしい。

実はこの言葉には私たちの人生を豊かにする深いヒントが隠れている。そして、コーチとしての研鑽にも通ずる。

今回は、不染汚(ふぜんな)に対するわたしの考えや日々の取り組みをしたためようと思う。

「不染汚」との出会い:中学生の私


13歳の夏。

偶然手に取った一冊の本に、以下のように記されていた。

不染汚とは、何にも染まらずに、本来の自分らしさを保つことである

正直、最初は「どういう意味?相当ムズくない?」と感じた。
しかし、なぜかこの「不染汚」がずっと心に引っかかり…。日々、考えていた。

「何にも染まらないって、本当にできるのかな?」
「でも、できたらすごくカッコいい気がする…」

と。

それから5年後。
高校の卒業間近である高3の冬。

わたしは卒業文集の学科代表に選ばれ、高校3年間を振り返る文を綴ることに。

その文集で、わたしが選んだ表題は「不染汚」であった。

これは実物だ。

でも本文を読まれると小っ恥ずかしいので、薄目で確認するにとどめてほしい。


さらに十数年後。

わたしが生業として選んだのは、人が自分らしく生き、働くことをサポートする仕事。コーチだ。

これまた不染汚的な「何にも染まらずに、本来の自分らしさを保つこと」をサポートしているとも言える。

そのように考えると…
13才の夏、わたしが本を手に取ったそのときから、今の人生の歯車が回り始めたのではないか。そう錯覚しそうになる。

書斎に飾っている書

「不染汚」を考える


さて、ここから「不染汚」を考えたい。

禅をルーツに持つ言葉であり、本来的な意味は、

世俗的な欲望や煩悩などの「汚れ」に影響されず、清らかな心を保つ状態のこと。

とされている。

わたし的に解釈すると、

何にも染まらずに、本来の自分らしさを保つこと

だ。

でも、これを体現することがなかなか難しい。

なぜなら、現実の私たちは、知らず知らずのうち、いろんなものに染まる。

例えば、

・経済状況
お金がなくなれば貧乏染みるし、お金を持てば金持ち面をする。
どちらも金に心が染まっているといえる。
・他人の評価
誰かに悪口を言われたら腹を立て、褒められると有頂天になる。
どちらも他者評価に心が染まっているといえる。
・社会的地位
地位や名誉を得るとそれに応じた振る舞いになり、地位を失うと自信を喪失する。
どちらも地位に心が染まっているといえる。

こんな経験、誰しもあるのではないか。私はある。山ほどに。


染まるとどうなる?


じゃあ、染まるとどうなるのかについても考えてみたい。

例えば…

・上司に否定されたら「絶対に見返してやる」となる

・金持ちの友人と話したら「自分も稼がなきゃ」となる

・出世している同期を見たら「自分も頑張らなきゃ」となる

・Youtubeで聴いた内容で「自分は全然できていない」となる

こう見ると、風見鶏のように「周囲の刺激に反応的に生きている状態」と言えるような気がする。

特に今の時代は、あらゆる情報にアクセスしやすい(染まりやすい)ため、その気になれば、いつでもどこでも「自分も欲しい」「自分は全然ダメ」「もっと頑張らなきゃ」のように、あらゆる状態に染まることができてしまう。

「染まる」とは、その渦に飲まれるような、そんな感じだろうか。

さらに、

染まることにより、自分の人生の軸がブレてしまい「自分はどう生きたいのか?」「自分は何をすると喜ぶのか?」を見失う。

そして、自分でも気づかぬうちに誰かが敷いたレールの上を歩いていることもあるかもしれない。

このように考えると、染まることはなるべく避けたい。

私の日常生活における「不染汚」の実践


理屈の理解は大切であるものの、行動に移すこともさらに重要だと考えている。

そこで、私が日々の生活の中で「不染汚」を実践するために取り組んでいることを整理する。

・瞑想
毎朝起きたら、まず10分間の瞑想から始めている。スマホを見る前に静かに呼吸に意識を向け「今、ここ」に集中する。これにより、一日の始まりを自分の内側からスタートできる。

・読書の習慣
日々の読書では、意識的に自分の専門分野以外の本を読んでいる。これにより、固定観念にとらわれず、多角的な視点を養うことができる。と、考えている。

・SNSの管理
SNSを閲覧する際は「◯◯分だけ」とスケジュールに書き込み、そしてタイマーをセットしている。意識としても、他人の投稿に一喜一憂せず、情報を客観的に見るよう心がけている。

こんな感じで、あれこれやっている。

しかし、これらの取り組みによって「染まらない」を完璧にできているわけではない。

なんなら、まだ5%ほどだ。
それでも、これらの実践を通じ染まらない本来の自分を大切にできている実感はある。

禅の教えと「不染汚」


少し大枠に話を戻し、そもそも「禅」の世界では、どのように「不染汚(本来の自己)」を体現しているのだろうか。そこも考えたい。

過去にも調べてきたが、具体的な方法論は見つからない。しかし、以下のようなことは書かれている。

不染汚の修行は目的達成の手段ではありません。
修行も人生も同じです。何かをするときは、ただただそれをすることです。ただひたすらに費やした一刹那、一刹那が自分を育て、「今」の積み重ねが素晴らしい未来へとつながっていく。

わたし的に解釈すると…

不染汚とは到達地点ではなく、そうあろうとする営みを含め、不染汚。
そして、(完全に染まらないというのはムズいため)ただただ染まらずに生きようと心がける。すると、その行為そのものが恵みをもたらす

こんな感じだろうか。

この営みを、わたしたちの日常に置き換えるとどうだろう。まずは仕事で考えてみよう。

・仕事
仕事をする目的が「昇格する」なら、昇格できなくなった瞬間、それまでの努力は無意味となる。

しかし、昇格できなくても「一瞬一瞬を努力した」という経験そのものは、キャリアや人生に沢山の恵みをもたらす。

今度はダイエットで。

・ダイエット
ダイエットを始めた人が、その目的を「5キロ痩せる」にすると、目標体重に到達できなかった瞬間、それまでの努力は無意味に感じてしまうかもしれない。

しかし、たとえ目標の5キロ減量を達成できなくても「毎日健康的な食事を心がけ、運動する習慣をつけた」という経験そのものは、健康や生活の質に多くの恵みをもたらす。

このように考えるとわかりやすい。

不染汚も同様で、不染汚は一種の理想郷のようなものであり、そこをめがけて染まらずに本来の自己を保とうと常日頃から意識する。その営みによって多くの恵みを享受できる。

となりそうだ。

だから、不染汚には具体的な方法論があるわけではなく、日頃から「周りに流されないよう、自ら創意工夫し続けること」この意識が大切ということだと思われる。


不染汚とコーチング


わたしがコーチとして活動する中で「不染汚」の考え方はアプローチの核心となっている。

最後はその点について書こうと思う。

コーチングでは、クライアントの本来の姿を信じ、外部の影響に惑わされることなく、その人らしい選択や成長を支援すること。これがコーチである私の役割だと考えている。

よって、具体的には、以下のような形で活かしている。

いずれもコーチングにおいては当たり前のことだが、その当たり前が当たり前にできないのだ。

・判断を控え、純粋に耳を傾ける
クライアントの話を聞く際、自分の価値観や経験に基づいて判断することを意識的に避ける。代わりに、その人の言葉の奥にある思いや、表現されていない可能性に耳を傾ける。すると、クライアント自身も気づいていない本来の姿や願望が浮かび上がることがある。
「あるべき論」を手放す
「こうすべき」「普通はこうだ」といった固定観念を押し付けず「あなたはどうありたいか?」と問いかけ、クライアント自身の価値観や目標を尊重する
自己受容を促す
「こうあるべき」という理想像と現実のギャップに苦しんでいるクライアントにも、ありのままのクライアントを受け入れる。この自己受容が、本当の変化の出発点になることは多い。

一言でいうと、クライアントとフラットに関わることを意識している。

コーチングでも「クライアントに気づきや変化を起こそう」とか「自分のテクニックを見せよう」など、クライアントを染めようとすると上手くいかないことが多い。

一方、結果はあとからついてくると信じ、何にも染まっていない白紙のように、一瞬一瞬にコーチングやクライアントに起こっていることに焦点を当て、関わるほうがクライアントの自分らしい生き方・働き方の実現につながりやすい。

このような観点から見てみると、やはり「コーチのあり方」と「不染汚」という考え方は近しい関係にあると思う。

今回の不染汚の話に興味をもっていただいた方がいるとすると、ぜひ一緒に取り組んでいただけたら嬉しく思う。

おわり。


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