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オッス!おら、クリリンに勝てない一般人。いっちょ、やってみっか!

「1982年生まれ、キム・ジヨン」で、キム・ジヨンは女性、母親、家族であることで自分を見失うが、その近くにいる人が何も出来ないことがさらに苦しい。
「1992年春の東映アニメフェア、『ドラゴンボールZ 激突!!100億パワーの戦士たち』」は、悟空とベジータ二人がかりでやっと倒したメタルクウラが実は量産型の1体でしかなく、数百体ものメタルクウラが登場するシーンに、当時、10歳の年のぼくは戦慄した。

メタルクウラの話は、THINK! NAGANO MODELのプロモーションの話題をタイムラグがありながら触れ、思い出したこと。とは言え、そんなぼくも、昨年行ったアートイベント「 #ちくわがうらがえる 」の振り返りの会で、「“ぼく”が前に出すぎているイベント」であること、「アクセシビリティがなさすぎる」、「社会をどう見ているかという視点が必要」っていう批判(そういう批判に対峙しながら記録集作成中です。)を受けて、今回の件も、翻って自己批判的にしか考えられないわけで。

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しかし個人モデルは、そういうことだと思う。個人モデルで戦える人もいる。例えば、『五体不満足』の乙武洋匡さんはメタルクウラを倒せるだろう。けれどもその背景にある「ビッグ・ゲテスター」や「メタルクウラ・コア」となれば、どうだろう。逆の見方をすれば、戦わざるをえない中で強く「ならねば」いけなかったのかもしれない。(そういえば、ロボットの脚をつけて立ち上がった乙武さんの写真を見て、どこまで強くなれるんだろう人はと思ったことがある。)怒りと悲しみで超サイヤ人になれる人もいれば、そうでない人もいる。サイヤ人の血を引いていたり、カプセルコーポレーションのような充分な資産とトレーニングが可能な環境がある人は、努力(それは相当のものだろう)でメタルクウラに勝てるかも知れないけれど、クリリンやヤムチャぐらいの強さでは勝てない。というか、ドラゴンボールの世界で、クリリンやヤムチャは強さのインフラにより弱いキャラではあるが一般人より充分に強い。クリリンは気円斬でフリーザの尻尾を切っている。クリリンでも本当は充分に強いのだ。

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「1982年生まれ、キム・ジヨン」を映画で、今は原作も読んでいて、女性の置かれている状況や立場について理解しているかというと、やっぱりまだまだ出来ていなくて、自分の想像力のなさに落ち込む。ジヨンの夫が、ジヨンのことを考えて動くが何も出来ない焦りやそれを誰にも相談できない苦しさに、ぼくはきょうだいや母を思い出し、なかなか胸にツーと刺さる苦しさを感じたし、ぼく自身を見ているようでもあった。ジヨンの夫と比べてぼくに足りないのはヴィジュアルとステイタスだけだ。自分が「そうではない」から前向きになれることもあるのだと思う。障害福祉の仕事をしていて、そう思うこともある。いや、だから関係を続けることができ、これまでとは違う提案をすることもできる。ただ、間違える可能性や失敗することも少なくない。関係する時間が増えれば向き合う時間も自然に増え、支援者や介護者が前向きになるだけではどうしようもないことも増えていく。男性として女性の生きづらさを言い当てることはできないし、言い当てようとすることも違う。「どうしようもない」そのことに打ちひしがれる。

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当事者からすれば「そうなのだから仕方がない」し「それ以外のどうしようもない」。まるで自分が悪いような、いやいや「あなた」の障害が悪いのだと、言いたくなる。個人モデルというのは甘い誘惑のように、諦めを誘う。離れることで解決できるものであれば、そうした方が良いけれど、逃げても追ってくる何百人というメタルクウラからは逃げ切れる人は多くはないだろう。戦う人も戦う者を助けようとする人も、諦めることで、心に(も)傷を負い、そうか障害が悪いのかと思う。障害が悪いのではなく、障害を生みだす「構造」について考えるべきなのに。だけど、クリリンやヤムチャでさえ難しい敵のことを、当事者だけ、その家族やきょうだいだけ、支援者だけで考えたり捉えようとすることは、本当に難しい。であれば、「普通の人」にあたる障害のある家族やきょうだいがいない人は、尚更だったりするんじゃないか。超サイヤ人のバーゲンセールがあったって、強さがインフラしていったって、それに比例して敵も強くなっていきそうだ。当事者であること、親しい人がそうであること、そうではないことが普通であること、それらが突き合わされる現実の中で生まれるバニシングポイントを考えること、目を凝らして、その膜を取っ払うことを、想像力と言ってしまうことはなかなか、ぼくにはできない。それは最初の冒頭の話にもつながることでもあるし、そもそもぼくはクリリンやヤムチャがどうやって強くなり、そしてそれ以外の人たちが各々の戦いで勝負をして今に至るか、理解しようと思っても、「その人」にぼくはなれない。なれないのだから、想像力は結果であることに対してもっと謙虚に触れていたい。

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強い人も、強くなってしまわなければならない状況もいらないんじゃないか。それは負けを認めるということではなく、そこが戦場になっていることを隠してしまわないことが大事なんだじゃないか。戦場であることを理解できる人はどれだけいるんだろう。戦っている人がいる。そういうことがなぜ起こっているのか。戦場で耐え忍んでいる人がいる。当事者ではない、「そうではない」日常にいることを、どうやったら、想像し具体的に思い浮かべあえるモデルについてつくっていけるだろう。

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